貞観の息吹き 
高見 徹

43.  文栽寺 十一面観音立像広島県世羅郡世羅町大字赤屋930


 瀬戸内海と山陰地方を結ぶ石見銀山街道は、天領である大森銀山で産出された銀を山陽の港町、尾道まで運ぶために設けられた街道で、旧甲山町(現在は世羅町に編入)はその中継点に位置する交通の要所であった。
  また、旧甲山町は、かつて平安時代に在地の豪族・橘氏によって開発された荘園であり、大田庄(おおたのしょう)と呼ばれていた。その後平清盛の子である平 重衡の領地となり、重衡は大田庄の発展のために、永万二年(1166)に当時絶大な権力のあった後白河院に寄進した。寿永四年(1185)に平氏が滅亡し た後、後白河院はその永代供養料として大田庄を紀州高野山根本大塔へ寄進した。以後約270年間にわたり、大田庄は高野山領として営まれた。

 大田庄からの年貢米は尾道から海路で各地に搬送されたが、高野山領となってこの地域の政所寺院として建てられたのが今高野山龍華寺である。
 龍華寺には、秀麗な十一面観音立像をはじめ多くの文化財を有しており、高野山を模して造られた、今高野山の繁栄振りは今想像出来ないくらいであったとい、文化の伝搬の要地でもあったことがわかる。
 文裁寺は、世羅町の中心部から北東に約2km入ったところにある。文裁寺には、旧報恩寺(法音寺)に伝わった十一面観音像、聖観音立像、四天王立像などの諸仏や明覚寺の石造物が残されている。
 報恩寺もかつての大田庄に所在しており、奈良時代の創建になると伝えられている。報恩寺の名は、高野山文書の中にも記されていることから、今高野山とも深い関係があったことが知られる。

  本尊十一面観音立像は、像高147cm、カヤ材から蓮肉まで共木で彫り出された内刳のない一木造の像である。秀麗な龍華寺像に比較すると随分印象が異なる 像である。上下に押し潰したような短躯で塊量的な体躯は幅広で奥行きがあり、目鼻立ちが大きく彫りの深い面相は、観音像というには余りにも無骨で、まさに 檀像をそのまま大きくしたような、平安初期彫刻独特の迫力を感じさせる。衣文の表現も深く明瞭で膝前には翻波式衣文を表し、天衣には旋転文が彫り出されて いる。

  聖観音菩薩像は像高136cm、ヒノキの一木造で面相は優しく穏やかで、十一面観音像に比較すると、やや時代は下り、平安中期の制作になると思われるが、 下半身につける裳の上に、レースのように端部に球状の飾りをつけた巻きスカートのような裳を付けたような独特の服制を持っている。このような服制は他に例 がなく、中国の図像などの服制の影響を受けているとも考えられる。
 龍華寺の関連とはいえ、この山奥にこの様な独特の様式をもつ古像が伝えられ護られてきたことに驚きを感じざるを得ないが、本寺には、他に破損仏ながら四天王像と思われる天部像が残されており、報恩寺の隆盛を感じさせる。


 
十一面観音立像

  
 聖観音立像






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