高 見 徹

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 〜行程〜

8月24日(金)
名古屋駅新幹線北口改札口前集合 名古屋 → 円鏡寺(本巣郡北方町)→舎衛寺(岐阜市城田寺)
 →佐野普門寺(山県市佐野) → 岐阜(泊)
8月25日(土)
岐阜 → 薬師寺(各務原市那加雄)→ 真長寺(岐阜市三輪)→ 弥勒寺跡、関市円空館(関市池尻)  → 願成寺(岐阜市大洞)→ 浄土寺(岐阜市福富)→ 岐阜(泊)

8月26日(日)
岐阜→ 美濃和紙の里館(美濃市)→ 清水寺(加茂郡富加町)→ 可児郷土歴史館
 → 明鏡寺(加茂郡八百津町)→ 願興寺(可児郡御嵩町)→ 美濃加茂市(泊)

8月27日 (月)
美濃加茂市 → 市之倉さかずき美術館 → 永保寺(多治見市虎渓山町)
 → 下半田川保存会(瀬戸市町下半田川)→ 名古屋駅解散
 


8月25日(土)(第二日目)

薬師寺別院
 岐阜県各務原市那加雄飛ケ丘町

薬師如来坐像 県文 檜材 寄木造 玉眼 素地 像高45.0cm 貞和4年(1348)鎌倉時代

 各務原市の中心部に程近いところに、幼稚園を併設して建てられている。
この寺のご住職は、奈良薬師寺の村上太胤執事長である。お手紙では当日不在ということであったが、我々の到着を待っていて下さった。この日、奈良に戻られるとのことで、ご挨拶頂いた後、奈良に向かわれた。
 この寺は、昭和13年に奈良薬師寺の管長であった橋本凝胤師が開山となって開かれた新しいお寺であり、本堂の天井には凝胤師の筆になるという大きな梵字が蓮の花に囲まれて天井一杯に描かれている。
  東京寧楽会では昭和40年に奈良の大安寺で夏期大学を開催しており、その際橋本凝胤師に説法をお願いしたことがある。そのとき、師が小学生くらいの小僧さ んの肩に手を添えて会場に入ってこられた、というお話をしたところ、ご住職が「私は9歳のときから橋本凝胤師に使えていたので、その小僧とは多分私でしょ う」とのこと。縁とはこんなものかと感心した次第。
 この日はちょうど、東京に在住のご住職の息子さんや安田暎胤管主の息子さんがお寺の整理のために来ておられ、本尊の解説をして頂いた。

  本尊の薬師如来像はこの寺の創建の際に奈良・薬師寺から移されたもので、それ以前の来歴は不明であるが、像底に下遠野(現在の岩手県)、道辯阿闍梨、貞和 4年(1348)という墨書があり、岩手県で造られた像がいつの時代にか薬師寺に寄進されたものではないかとのことであった。
 彩色が落ちて素地 をあらわしており、木目が表面に現れている。仏像の場合、一般的に丸太を縦に半分に割り、かまぼこ型になった表面側を正面にして彫るため、像の正面はいわ ゆる板目が現れる。これに対し、柾目を正面にして彫る場合は、いわば、かまぼこの側面から彫ることになるため、像の幅が丸太の半分しか取れず、この状態で 大きな像は彫ることが出来ない。
 本像は目の詰まった柾目を正面に使ったおり、頭胴部を含めて一木から彫られているようだ。比較的小さな像とはい え、随分大きな材を使用したものと考えられる。板目が正面の場合には鼻や頬、胸など飛び出している部分が欠けやすいため、わざわざこのような彫り方をした のであろう。制作は室町時代に入るが、衣文も形式に落ちいらず大らかに表現されている。
 ご住職の息子さんは、快慶の僧形八幡神像に似ているといわれていたが、確かに快慶好みの面相や衣文の形式を伝えている。
 
 
  本堂の前に植えられた二本の松は、高野山の三鈷の松から分けたものだという。三鈷の松は、空海が唐の国から三鈷杵を投げたところ高野山の松の枝に懸かった ことから、その地に寺を開いたと伝える松で、一般的な松の葉は二葉か五葉に分かれているが、この松は先端が三本の葉に分かれていることで知られている。日 本ではまれにこのような品種があるという。
 付近を見ると、三本に分かれた松の葉がたくさん落ちている。これを財布に入れるとお金持ちになるらしく(空海は決してそんなことは言わなかったと思うが)、とりあえず財布の中に・・・。


真長寺
 岐阜県岐阜市三輪

釈迦如来坐像 桂材 寄木造 彫眼 漆箔像高283.0cm 平安時代後期
 
 小さな門をくぐると、すぐに収蔵庫があるが、既に扉を開けて下さっていた収蔵庫の奥に丈六の大きな釈迦如来坐像がその姿を見せていた。
 訪問を告げると早速収蔵庫に案内され、如来像が乗る大きな台の上に立って説明をして下さる。
 像の直ぐそばに立つご住職と比較してもその大きさが実感できる。
 ご住職は元教員をしておられ、定年後、一念発起して高野山で修行をし僧侶になられたという。
  この像は、平安時代にお寺の前の感慨用水路を作る際に、工事の安全と完成を祈って、奈良の三輪明神を勧請し、三輪神社の別当寺として山の上に釈迦如来像を 安置して建立されたという。地名の三輪もこの故事からつけられた地名で、ご住職の苗字も三輪で由緒正しい家柄なのであろう。
 釈迦如来坐像は、全体に保存もよく面相部の金箔はよく残されている。また体部は金箔が重なって二重になった部分のみが格子状に残っており、一枚の金箔の大きさが明瞭に判る。
衣文は浅く流麗で藤原時代の特徴を有しているが、肩から胸にかけてはやや鈍重ながら程よい量感を持っており、藤原時代もやや下ることを示している。
 大きな二重円光の光背も当初のもので、光背の下部の光脚部も厚く力強い。円光の周囲には火焔を留めたと見られる鎹(かすがい)や、ホゾ跡が残されており、当時の荘厳さが想像出来る。 

 本堂に安置される大日如来坐像は江戸時代の像であるが、この像の注文書が残されており、注文者の要求が事細かに記載されているのが興味深い。本堂の前庭は塀に囲まれた石庭となっており、点在する岩の間にびっしりと生える杉苔が美しい。
 寺には、十二天像やなどの画像が残されているが、現在東京芸術大学の手で順次修理が行われており、来年にはその完成を記念して披露が行われる予定だという。

 この寺は檀家が10軒しか無いが、現在100人程度が参加する「三輪山真長寺文化財保存会」を設立してお寺の維持管理を行っているという。
 お寺の入り口に流れる用水路は武儀川に並行して開削されており、この暑い夏にも拘らず、満々と水をたたえ、美しい流れを見せている。


弥勒寺跡
関市円空館
 岐阜県関市池尻

 岐阜県で生まれた円空が晩年庵を造って過ごしたという場所で、発掘調査により白鳳時代の寺院跡である弥勒寺の遺跡や円空が過ごしたという坊の跡が出土している。伽藍配置は法起寺式で、塔跡には心礎が残されている。
 弥勒寺跡から山の中を5分位入ったところに、当地の円空仏を入替で展示している関市円空館があり、関市付近の円空仏を数十点展示すると共に、弥勒寺跡から出土した瓦等の遺物も展示されている。
 人数を告げると解説をして頂けるという。お話では関市で埋蔵文化財を担当されていた方で、弥勒寺の発掘も担当したそうで、定年後円空館で学芸員をされているという。平成15年にオープンしたこの円空館の展示品の計画や解説、資料作りまで全て担当されたという。
  私としては円空仏よりも白鳳寺院の出土品の方に興味があったので、そのことをお訊ねすると、さすがは本職、待ってましたとばかり、発掘品のコーナーで、手 作りの道具を使って丸瓦の瓦当や布目瓦の制作の実演をして頂いた。自ら彫ったという木彫りの瓦当の雌型に油粘土を当てて叩くとあら不思議、出土した瓦当と 同じものがたちまちに出来上がり!「小学生ならここで拍手が起こる」とご満悦。小学生でなくても思わず拍手をしたいところ。
 また、布目平瓦は布 目が凸側についたものと凹側についたものとがあり、弥勒寺のものは凸側についている。これは細い木をすだれ状に繋いで丸めた内側に麻布を敷き布が落ちない ように所々を糸で木に固定しているため、この糸の痕が瓦の布目に残っていると、これもお手製の道具を使って実演して下さる。成る程、目から鱗の実演コー ナーであった。
 弥勒寺跡からは川原寺式の複弁蓮華文軒丸瓦の他、高さ5cm位の粘土製の螺髪が20個程度出土したという。これは型に入れて作っ たものではなく、一つ一つ手作りで、渦巻き線もへら等で刻んだものであった。螺髪の大きさからすると、丈六の塑像の如来像のものと思われ、弥勒寺の本尊と して安置されていたと想像される。当地の豪族で天武元年 (672)の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)に仕えて活躍したという、牟義都(ムゲツ)氏の勢力が如何に大きかったが想像できる。

円空館の後、木曽川のたもとにある円空入定塚を見学した。


願成寺
 岐阜県岐阜市大洞

仁王尊 県文 檜材 寄木造 彫眼 像高 吽形280.0cm 阿形284.0cm 鎌倉時代末期
阿弥陀如来坐像 県文 寄木造 彫眼 像高35.5cm 鎌倉時代
十一面観音立像 県文 寄木造 素木像 像高82.0cm 鎌倉時代
大日如来坐像 県文 寄木造 彫眼像高91.0cm 鎌倉時代
中将姫誓願桜          国指定天然記念物

不動明王立像   室町時代        市重要文化財
弘法大師坐像   室町時代

 十一面観音立像と、大日如来坐像は、本堂の中の厨子に入っており、秘仏のため開扉出来ないとの連絡があったため、仁王門の仁王像と、里坊の礼拝所のような場所に安置されている阿弥陀如来坐像を拝観する。
 仁王像は阿形像内は平成7年(1995)にはローマで開催された『信仰と美』展に出品されたそうで、先の円鏡寺の仁王像と良く似た像容を持っており、動きをやや押さえ憤怒の形相をあらわした、鎌倉時代後期の典型的な像である。

 

 阿弥陀如来坐像は40cm足らずの小像であるが透し彫りにした飛天光背や八角七重の蓮華座も当初のものと思われる。

  願成寺は、国指定天然記念物の中将姫誓願桜が有名で、桜の季節には大勢の人が訪れるという。中将姫誓願桜は本堂の正面に根元から幾つにも枝分かれして立っ ている。本堂の奥にはここにも白山神社が鎮守社のように佇んでいる。本堂に入れて頂くと須弥壇の左右に二天像が安置されている。四天王のうち二天だけが残 されたものと思われるが、ややバランスを欠くものの誇張の無い堂々とした像で、鎌倉時代末期から室町時代初期の制作のように思われた。


浄土寺
 岐阜県岐阜市福富

阿弥陀如来立像 県文 檜材 寄木造 彫眼 像高96.9cm 鎌倉時代
聖観音立像 県文 檜材 寄木造 彫眼 像高174.2cm 平安時代後期

 お寺の入り口が鐘楼門になっている。
 二体並んで正面に安置されており、聖観音立像のみ厨子に入っている。
 聖観音立像は天台系の聖観音で、目鼻立ちも明瞭で中央風の像である。衣文もしっかりと彫られており、特に肩から腰にかけての造形は藤原時代も早い頃の制作であることを思わせる。
 阿弥陀如来は護摩の煙のためか黒く煤けてやや像容を損ねているが、堂内に掲げられた面相のアップの写真を見る限り聖観音とほぼ同じ時代の制作のように思える。
 
  

 


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