高 見 徹

第 二日目

 〜行程〜

8月24日(金)
名古屋駅新幹線北口改札口前集合 名古屋 → 円鏡寺(本巣郡北方町)→舎衛寺(岐阜市城田寺)
 →佐野普門寺(山県市佐野) → 岐阜(泊)
8月25日(土)
岐阜 → 薬師寺(各務原市那加雄)→ 真長寺(岐阜市三輪)→ 弥勒寺跡、関市円空館(関市池尻)  → 願成寺(岐阜市大洞)→ 浄土寺(岐阜市福富)→ 岐阜(泊)

8月26日(日)
岐阜→ 美濃和紙の里館(美濃市)→ 清水寺(加茂郡富加町)→ 可児郷土歴史館
 → 明鏡寺(加茂郡八百津町)→ 願興寺(可児郡御嵩町)→ 美濃加茂市(泊)

8月27日 (月)
美濃加茂市 → 市之倉さかずき美術館 → 永保寺(多治見市虎渓山町)
 → 下半田川保存会(瀬戸市町下半田川)→ 名古屋駅解散
 

 プロローグ
 昨年、岐阜県の西、北方面を訪ね、円空仏と高賀山、白山信仰の遺物に巡り合うことが出来た。
今年は、昨年に引き続き、岐阜県の仏像、特に岐阜市の東側から東濃地区を中心に訪ねることになった。
 しかしながら、この地方は秘仏が多く、拝観依頼の手紙で拝観依頼を行ったお寺のうち約3割のお寺から、拝観不可との返事を頂き、行程調整に四苦八苦。
 また、折角、美濃方面に行くからには、美濃紙と美濃焼の故郷も訪ねようと、美濃市と多治見市にも立ち寄ることにした。

 今年は暑い夏だったが、今日も相変わらず暑い一日となりそうだ。
 そういえば、出発直前の8月17日に今回立ち寄る予定の多治見市で、なんと日本国内の最高気温40.9度を記録したとのこと。多治見市は数年前にも37度以上を記録した日数が日本で最多であったことから、「日本一暑い町」として観光誘致活動を行っているという。
 去年行った美並町は、日本の人口荷重の中心として「日本真ん中センター」なるものを作って観光の目玉にしていたが、「日本一暑い町」なんて、誘致のキャッチフレーズになるものか?



8月24日(金)(第一日目)
10時に名古屋駅集合、日本一暑い町に向けて出発!
名古屋から高速沿いに一般道を北上。稲沢、一宮を通って岐阜へ約1時間余のドライブ。

円鏡寺
 岐阜県本巣郡北方町北方

楼門  重文 永仁四年(1296)
不動明王立像 重文 寄木造 彩色 彫眼 像高182.7cm 鎌倉時代
聖観音立像 重文 寄木造 漆箔 彩色 彫眼 像高166.7cm 鎌倉時代
金剛力士立像 重文  寄木造 彩色 玉眼 像高246.0cm 鎌倉時代

 北方町に入ると、「円鏡寺」、「円鏡寺公園」という道案内があちこちに表示されている。
お寺の周りは大きな公園になっており、町役場や公民館などと兼ねた駐車場も整備されている。
駐車場からすぐに楼門(仁王門)や本堂(観音堂)が見え、楼門の前が大きな公園になっている。楼門から本堂迄行って見るが、多くの堂宇が立ち並ぶものの庫裡らしき建物が見当たらない。

 本堂の脇の美容院で庫裡の場所を聞くと、楼門の南の公園の奥だという。楼門まで戻り、更に奥に行って見ると、公園に面して塀に囲まれた別のお寺のように、庫裡とコンクリート造りの立派なお堂がある。

 庫裡に入ると来訪を告げるが答えがない。入り口に、「御用の方は大きな声で呼んでください」とあるので、何度か大声を張り上げると、暫らく経ってからご住職が出てこられる。
  コンクリート造りのお堂に入るように言われるが、同行者は本堂(観音堂)の方に行っているらしく、全く姿が見えない。止むを得ず携帯で連絡するが、境内が 広すぎてどこに行っていいのか全く判らない様子。とにかく仁王門の反対の方にどんどん歩いて来るようにと伝えると、暫らく経ってから不安そうに誰かが門を 覗きに来た。
 山岳寺院なら兎も角、平地のこのようなお寺でかくれんぼするとは思わなかった。

 円鏡寺は高野山の直末のお寺で、いわゆる中本山として、美濃国分寺や飛騨国分寺よりも格が上だそうだ。現在でも1万坪の境内を有するが、戦後の農地、宅地解放でかなりの敷地を解放しかつては何倍もの広い境内だったという。
  大きな古い虹梁がふんだんに使われた立派な庫裏は江戸時代の建立になるが、京都の禅宗寺院の本坊を思わせる立派なもので、歴史を感じさせる建物だ。なんで も、明治24年(1891)に名古屋、岐阜一帯を襲った濃尾地震の際、付近一帯の建物は全て倒れたが、仁王門と本堂とこの庫裡だけが倒れず、その後数年 間、役場として使用されていたそうだ。

 濃尾地震の話は旅行中何度か聞いたが、震源地は本巣郡根尾村(現・本巣市)で、直下型地震としては日本最大であり、マグニチュードでいうと8.0、死者7000人、全壊建物14万棟、新聞の第一報は、「岐阜、無くなる」だったという。

 コンクリート造りのお堂は、地震で倒れた幾つかの堂の仏像をまとめて安置するために造られたもので、県文の不動明王立像は右脇の耐火製の厨子の中に安置されている。
 不動明王立像は、ほぼ等身大の像で、衣文は浅く穏やかだが、怒りをあらわにした面相や、太造りの堂々とした体躯は威圧的で随分大きく見える。右手に宝剣を持ち大きく腰を捻った姿は、藤原時代の優美な像容から脱皮し、写実的な要素を取り込んだ意識が感じられる。
 本堂を辞し、楼門の仁王像を拝観する。仁王像は、残念ながら鳥除けの網に囲まれ見にくいが、誇張に過ぎず、適度な威圧感を持った、鎌倉時代の特徴を十分にあらわした像である。
観音堂の本尊は12年毎の秘仏であり、ちょうど昨年開帳したばかりで今回は拝観出来なかった。


舎衛寺
 岐阜県岐阜市城田寺

釈迦如来坐像 県文 カヤ 一木造 彫眼 漆箔 像高129.0cm 平安時代後期

 岐阜市内とはいっても、この辺りまで来ると、随分と長閑な風景が続く。一本道を間違うと、マイクロバスでも木々で屋根をこすり、突き当りの道を曲がりきれない。
このあたりのお寺は、殆どが神社と併設されており、メインの道は鳥居をくぐる石段であることが多い。
 舎衛寺のその例に漏れず、白山神社の鳥居と石段の脇道を入ったところに、神社の付属寺院のように建っている。
  明治の廃仏毀釈の際には、多くの寺院が神社との分離、廃絶という憂き目に遭ったが、岐阜県では、昨年訪れた石徹白(いとしろ)のように、幾多の圧力の中で 仏教文化を守り通した例を多く見てきた。白山信仰や高賀山信仰という独特の信仰の中で守られてきた歴史を今年もあらためて感じることが出来た。

 この寺は、室町時代、守護として権勢を誇った土岐氏の家督争いで、新守護土岐政房に攻められて敗れた小守護代石丸利光父子の自害終結した場所といわれ、境内入り口に「船田合戦終焉之地碑」が建つ。

 本尊釈迦如来坐像は、本堂の中央の厨子に窮屈そうに安置されている。
雨 ざらしになっていた時期があったためか、像の表面は随分傷んでおり、素地をあらわしている。わずかに右腕部を矧ぎ足す他は、両肩を含め頭胴部のほとんどを やや赤っぽいカヤの一材から彫り出している。面相は後世に彫り直されており、やや平面的になっているが、両肩から胸にかけては量感を持ち、腹前や膝前には 流れるような衣文を表している。
わずかに翻波式衣文を残す膝前の的確な衣文線からみると、制作は平安時代の中期にまで遡ると考えられる。
 
 


佐野普門寺観音堂
 岐阜県山県市佐野

十一面観音立像 県文 檜材 一木造 彫眼 像高173.0cm 平安時代

 舎衛寺からさらに北上し、山県市に入る。ちょうど昨年尋ねた高賀山のある洞戸への分岐点で、ここまで来ると高賀山までの約半分の道程を来たことになる。
 観音の案内に建てられている柱には南泉寺十一面観音とある。
 かつてはこの地に普門寺というお寺があったが、今は廃寺となっており、川を越えたところにある南泉寺に所属しているというが、実際に管理しているのは佐野地区の人々である。
 この日も二人の方が待っていてくださった。川沿いの道路から石段を上がったところにある小さな観音堂の厨子の中の安置されている。

  観音像は、お顔や上半身などの肉身部は金泥が施されており、昨日造られた像のように真新しくややマンガチックな表情である。平成5年に京都・美術院で修理 されているというが、美術院でこのような真新しい金泥を施すハズは無く、その時点では金泥は既に塗られており、衣・裳の部分のみ古色に戻されたのであろ う。
 衣・裳など下半身はやや形式的ではあるが衣文も深く量感を持っている。面相は、厚い金泥のため元の姿を想像するのには困難を伴うが、両頬もふくよかで奥行きもあり、平安時代前期から中期にかけての気運を十分に感じさせる像である。
 両手先や両足先は後補であるものの、その他は当初の姿を残しており、保存状態もまずまずと思われるのに、ここまで金泥を施さなくても良いのにとおもってしまう。
 古仏を見慣れている我々にとっては、違和感のある金泥も造立当時はきらびやかな彩色が施されていたのであろうし、自分たちで守っている仏様の神々しさを増すためには、このような後補の補修を一概に否定することは出来ないのかもしれない。

 

 今日は早めにホテルに着き、ゆっくりと休養後、市内の居酒屋で夕食。ホテルで割引券をもらったので行って見ると、なんと昨年行った居酒屋だった。
 岐阜には名物がないとのことで、今年も名古屋の名物を中心に、最後はひつまぶしで締めとなった。


第 二日目

 


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