岐阜仏像旅行道中記
 (平成18年8月25日〜28日)

高 見 徹

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 〜行程〜

8月25日(金) :JR岐阜羽島駅 → 中観音堂(羽島市上中町)→ 薬師寺
         → 養老寺(養老郡養老町)→ 美濃国分寺(大垣市青野町)
          → 円興寺(大垣市青墓町) 岐阜泊

8月26日(土) : 横蔵寺(揖斐郡揖斐川町)→ 華厳寺 → 乙津寺(岐阜市鏡島)
         → 延算寺(岐阜市岩井)→ 済法寺(岐阜市岐阜粟野) 岐阜泊

8月27日(日) : 洞戸円空記念館(関市洞戸)→  高賀神社
          → 那比新宮神社(郡上市八幡町那比)→ 星宮神社(郡上市美並町)
          → 円空ふるさと館 白鳥町泊

8月28日 (月) : 大師堂(岐阜県郡上市白鳥町石徹白) → 白山中居神社
         白山長滝神社(郡上市白鳥町長滝)→ 白山長瀧寺 → 阿名院
          → 白山文化博物館 名古屋駅解散

 
8/26 (土)

 横蔵寺(揖斐郡揖斐川町) → 華厳寺 → 乙津寺(岐阜市鏡島)→ 延算寺(岐阜市岩井)→ 済法寺(岐阜市岐阜粟野)宿泊:岐阜

横蔵寺  揖斐郡揖斐川町谷汲神原 (かんばら) 1160 天台宗 両界山横蔵寺
 寺伝によれば延暦廿年( 801) 桓武天皇の勅願により、最澄がこの地の長者三輪次太夫藤原助基を施主として創建し、叡山延暦寺の本尊と同木の、最澄自刻の薬師如来像を祀ったことから始ま るという。この寺も比叡山焼き討ちに前後して織田信長によって伽藍を焼失したが、徳川家康の援助によって再興されたという。
& nbsp; 最澄が薬師如来像を笈に 背負い、安置する場所をもとめて諸国行脚していたとき、この地に至って、笈が横になったまま動かなかったことから、横蔵寺の寺名がつけられたという。
  最澄自刻の像という本尊 薬師如来像は、後に延暦寺に返され、かわって京より、現薬師如来像がもたらされたと伝えている。

 天台宗に於ける山岳寺院 の特徴を持つ伽藍配置を有し、大日如来像、薬師如来像を始め、国指定の重要文化財 22 点ほか数多くの絵画・書籍を有しており、別名「美濃の正倉院」とも呼ばれている。
 また、文化 14年(1817年)、断食修行の後、今の山梨県都留市で即身成仏したという舎利堂の妙心上人のミイラ で知られる。

 ●木造薬師如来坐像 寄木 造 玉眼 漆箔  87.7cm 鎌倉時代後期 本堂の本尊像 秘仏

●木造大日如来坐像 割矧 造 玉眼 彩色  70.1cm 寿永2年(1183)筑前講師作 三重塔の本尊像
●木造四天王立像  4躯 寄木造 玉眼 彩色 室町時代

 ●木造十二神将立像  12躯 寄木造 彩色 84.8〜110.5cm 平安後期〜室町時代

 ●木造金剛力士立像 彩色   278.5〜279.0cm 建長8年(1256)定慶等 鎌倉時代

 ●木造深沙大将立像 彩色   175.5cm 一木造 クスノキ 平安時代後期

 ●板彫法華曼荼羅 白檀  素地 縦: 19.0cm 横:16.0cm 厚さ:1.5cm 平安時代後期

  銅造薬師如来立像  35cm 唐時代

 ○横蔵寺本堂 県文 桁行 5間、梁間5間 一重入母屋造 檜皮葺 江戸時代

 ○横蔵寺三重塔 県文 3 間三重塔婆、檜皮葺 江戸時代

 ○横蔵寺仁王門 県文 桁 行 6.34m、梁間3.50mの3間1戸楼門、入母屋造、檜皮葺 江戸時代


 紅 葉の季節には、横蔵寺までの道が大渋滞となり、駐車場にはいるまでが大変だそうだが、時期はずれで早朝のためか、他の人は全くいない静寂の中の散策となっ た

 駐車場のはずれには無 人の売店があり、竹の炭や、山菜、野菜などが格安の値付けで並べられている。中にはここで採れるという石のかけらが、 200〜500円で売られている。かけらといっても片手では持てない程の塊、これを担いで帰る人もいる のだろうか。

 境内を一周りし宝物館 の案内を見ると開館は 9:30と、まだ30分もある。しかし、宝物館の前まで行くと舎 利堂から人が出てきて入館させて頂けた。

  入り口を入った両側に 定慶作の仁王像が安置されている。さすがに迫力があるが、後補の玉眼の赤が鮮やかすぎて違和感がある。
 正面の厨子の中に、本 尊の胎内仏と伝える金銅仏を祀る小さな厨子 と板彫りの法華曼荼羅が安置されている。金銅仏は扉を閉じており、曼荼羅は精緻な彫りが施されているが、余りにも小さく、単眼鏡を使っても詳細は良く見え ない。舎利堂に曼荼羅を模写した大きな絵が掲げられているが、この方が詳細がよく判る。
 厨子の向かって左脇に 深沙大将像がある。ギョロリとした大きな目 玉、太くつり上がった眉、ふくれあがった頬とカッと大きく横に開いた口など異国風の像で、制作は平安時代後期とされているが、マンガチックな表情や姿勢 は、他に類例が無く時代を特定するのは難しい。臍の所に表されたおかっぱの少女のような顔が可憐で微笑ましい。
 厨子の右脇に有名な 「チクセノカウシ(筑前講師)」作の大日如来坐像がある。胎内銘により、平安時代最末期の寿永 2 年(1183年)「チクセノカウシ」によって、三重塔の本尊として造立されたことが明らかである。筑前講師の他の遺品は知られていないが、慶派の様式を色 濃く伝えており、慶派の直系の仏師が関与していると考えられる。

 宝物館の向かいの舎利 堂には、妙心上人のミイラが安置されてい る。以前は小さなお堂にあり、鼻と鼻をくっつけるようにして拝したそうだが、現在は広いお堂の正面に安置されている。ガラスケースの前まで近づけるため、 頭を右に傾け歯をむき出した表情を間近に拝することが出来る。
 お堂が余りにも開放的 で、何やら見せ物のような風情が哀れを催す。

 本尊の薬師如来坐像 は、舎利堂の一段下にある旧宝物館に安置されているが、現在公開されていない。

 岐阜県もここまで来る と滋賀県に近く、横蔵寺から揖斐川沿いに 20〜30kmも行けば、県堺になり、湖北の 木之本に出るという。冬期ともなれば雪山となるため山越えも容易ではないが、本寺と延暦寺、最澄との関係も地理的に考えれば納得できる。

華厳寺  揖斐郡揖斐川町谷汲徳積 (とくづみ) 23-1-3  天台宗 谷汲山華厳寺

 寺伝に よれば延暦十七年 ( 798)奥州白河の大口大領が、豊然を開山に迎えて創建した。創建の時、谷間から油 が湧きだしたので、これを本尊の灯明に献じたことから谷汲山の山号が定まったという。

 延暦七年( 907)醍醐天皇がこれを聞かれ、山寺号の偏額を与えられたという。

 室町時代西国観音巡礼札 所が定まると、関東方面からの巡礼が増え、もっとも関東に近い華厳寺が三十三番札所、札止めの寺とされるようになった。

 西国霊場の古刹であり、 創建に関連すると思われる秘仏本尊十一面観音像を初めとして、多くの文化財を有しているが、未だ十分な調査がなされておらず、毘沙門天像が重要文化財に指 定されているのみである。

 金剛力士 立像 二躯

 十一面観音立像  秘仏

●毘沙門天立像 一木 造 彩色  168.2cm 平安前期

  十一面観音立像  一木造  219.0cm 平安時代前期  style="color: black;">満願堂本尊

 弁天(円空作)

 西 国観音巡礼の札止めの寺。

 今回の旅 行で、他の観 光客と出会ったのはここと最後の白山文化センターだけであった。

  観光客と言うよりは、 札所巡りの人々が多く、本堂では、満願を達成した人であろうか、入れ替わり立ち替わりご祈祷を受けている。

 本堂に入る前に、個人 的に興味のあった満願堂の十一面観音立像を拝観するために、一足先に本堂の裏手に廻って満願堂を目指す。山門にあった境内の案内板では、本堂の裏山のよう な位置に思えたが、何のことはない、新しい石段が出来ており、本堂からすぐの所であった。

 堂は、扉や窓が開いて おり、堂の外からでも像の姿が拝観できる。 お堂に上がって近くに寄ろうと思ったが、祭壇の前に座って読経をされている信者の方がおられるので読経が終わるのを待つ。考えてみれば満願堂という名の通 り、このお寺に来る巡礼の方はこのお堂に参るのが当然なわけで、場違いなのは我々の方なのだ。

 読経が終わった頃、丁 度皆さんも集合し、じっくりと十一面観音立像を拝観する。
 2 mを越える像で、頭部 には天幕が下りているため、全体像が掴みにくいが、短躯で塊量的な厚い体躯を持つ一木造の像である。頭頂の化仏まで共木から彫り出されており、目じりを強 く釣り上げた浅い眼に象徴される厳かな相貌、やや浅いが古様な衣文の造形などに、貞観仏に見られる森厳な雰囲気が漂う。華厳寺の創建に繋がる由緒ある像と 考えられる。

 

満願堂 十一面観音立像

 お昼は、門前に立ち並 ぶお店で各自昼食。ここの名物は、鮎料理としいたけ料理。究極の選択でしいたけ料理を頼むが、大枚千数百円を払って食べる程のものでもない。
  この会では、夜は宿の そばで郷土料理に舌鼓を打つというのが定番となっているが、ホテルで岐阜の名物料理を訪ねたところ、「岐阜には名物料理はありません。地元の人間が言うの だから間違いない!」と念押しされてしまった。

乙津寺(おっ しんじ 鏡島の弘法さん) 岐阜市鏡島 1328 臨済宗 瑞甲山乙津寺

  天平 10年(738)行 基が草創し、弘仁5年(814)になって空海が七堂伽藍を建立したと伝えている。弘法大師が嵯峨天皇の命によりここで三十七日間に亘る秘法を修した後、宝 鏡を竜神に手向けたところ、辺り一面が桑田に変わったとことから、地名を鏡島と呼ばれたと伝えている。

  また、弘法大師が地面に挿し た杖が梅の木となり、枝葉が出たという話に由来して、別名梅寺とも言う。東海三十六不動尊霊場第 31 番札所

 ●千手観音立像 一木造  彫眼 漆箔  109.4cm 平安時代中期

 ● 毘沙門天立像 寄木造  彫眼  160.6cm 鎌倉時代

 ● 韋駄天立像 寄木造  彫眼 彩色  78.8cm 鎌倉時代

 岐阜市内の古刹ではあ るが、周囲を民家に囲まれており、探すのに手間取った。かつては大通りに面し、広い境内を有していたが、堂宇の再建や修復の度に周辺の土地を手放していっ たとのこと。

 境内には、「梅寺」の 別名の由来になったという弘法大師お手植えの梅の木が植えられている他、街道に建てられていたという道標や石碑などが移されている。

 収 蔵庫に安置される千手観音立像は、脇手を取り付けた太い角柱を像の両脇に取り付けているが、角柱の下端部は加工をせず切りっ放しになっている。後補である ためか、構造上の苦肉の策なのか不明であるが、全体的には特に違和感はない。裳裾を足元の両脇に広げる表現や裳裾の翻波式の名残は平安時代前期の様式を伝 えているが、衣文の彫りは浅く全体的な表現も穏やかで、平安時代も中期の制作と思われる。

 韋駄天像は独尊の韋 駄天像としては珍しく、唯一の重文指定像で ある。頭上に戴いた兜を別木で造り、取りはずしが出来るようになっている。これは、京都蓮華王院の婆藪仙の頭巾・毘楼博又の兜にも見られ、写実を極めた鎌 倉彫刻の特徴の一端を表しているともいえ、制作年代も鎌倉後期と考えられる。

 毘沙門天立像は、宝塔 を持たず、左手に三叉戟を持ち右手を腰にあてがう、いわゆる鞍馬寺式と呼ばれる独尊型の毘沙門天像であり、鞍馬寺式の最も早い例である。しかしながら、両 手とも後補と見られることから当初からこの形式であったがどうかは定かではない。

延算寺  岐阜県岐阜市岩井 2丁目1‐25 真言宗
 弘仁六年( 815)に空海が開き、貞観六年(864)に定額寺に列し、観日が最澄作の薬師如来像を勧請したと伝え ている。また小野小町が瘡(かさ)にかかった時、この寺に参廊し、境内東院の薬師如来の霊夢によって快癒したという伝説が残り、「岩井山瘡神」とよばれて いる。
 境内には小野小町が病 をいやしたとされる湧き水があり、いまでも名水として利用されている。


●薬師如来立像 一木造  クスノキ 彫眼  153.0cm 平安時代中期

○本堂 県文 桁行3間、 梁間4間、単層屋根 入母屋造 銅板葺 室町時代

 小 高い山の中腹にある本坊と数百 m離れた東院と呼ばれる里坊がある。最初里坊の方に行 き、誰もおられないため諦めて帰ろうとしたところ、看板に本坊の案内があったため急遽そちらに向かった。

 本寺 は、手紙の返事 で、ご住職が入院中のため、 5月5日の開帳の時にしか開扉出来ないと連絡を頂いていた が、本堂を開けて頂き、四天王像と十二神将像を拝観する。大黒さんにお伺いすると、本尊薬師如来立像は1999年に岐阜市歴史博物館の「真言密教の文化寺 財」展に出品されたとのことで、当時のパンフレットを頂いた。
 写真で見る限り、幅広 で奥行きのある面相に大振りの目鼻立ちを刻み、太股部を隆起させ、下腹部にY字形の衣文を大胆に表した像である。左肩から上膊部にかけて刻まれた翻波式衣 文も力強く、制作年代は、平安時代前期であると考えられる。

済法寺  岐阜市粟野西 8-175 臨済宗

  貞観三年( 861)に円仁が如来ケ嶽に創建した天台の寺を、十一世紀中頃に現在地に移し、改宗したという。

 ○十一面観音立像 一木造  ヒノキ 彫眼  127.0cm 平安後期

○地蔵菩薩立像 寄木造  ヒノキ 玉眼  80.0cm 鎌倉時代

○ 四天王立像 四躯 寄木 造 ヒノキ 玉眼 鎌倉時代

 ○不動明王立像 寄木造  玉眼 ヒノキ  82.0cm 鎌倉時代

  駐車場から長い石段を 上がると、本堂の前で麦わら帽子のおじいさ んが立っておられた。近所の方かと思い、「仏様の拝観に参りました」と話したところ、「開帳日が決まっているので拝観はできないよ」との返事。こちらはご 住職に手紙を出し返事を頂いているので、「お寺の方はいらっしゃいますか」と聞くと、なんと「私が住職です」とのこと。
 「お手紙で 拝観をお願 いしているのですが」、「最近手紙は受け取っていない」。どうもラチがあかない。
 我々が諦めかけている と、「折角来られたのだからお堂を開けましょう」と中に入れて頂く。

 後でお伺いすると、今 年 90歳になりお一人で住んでおられ、檀家もないため年金だけで生活されているとのこ と。
 以前神奈川県の金沢文 庫の方に住んでおられたらしく、鎌倉から来たとお話ししたのが功を奏した模様。

 堂内には 7体もの仏像が並んでいる。本尊十一面観音立像は穏やかながら奥行きある面相を持つ像で、体躯もボ リュームがあり全体に大らかさが感じられる像である。
 四天王立像は、鎌倉時 代末期の製作と見られるが、四躯とも破綻のない動的な姿をとり、忿怒の形相も迫力があり優作である。
 その他、地蔵菩薩立 像、不動明王立像も含め、全てが県の重要文化財に指定されている。

 

十一面観音立 像

 

四天王像

 夜、外で食事をしてホ テルに戻ると、フロントに伝言があり、岐阜在住のS氏がホテルに来られ、メモと手土産を置いていかれたとのこと。

 何日か前にメールを頂 き、東南アジアの仏像が古くから家にあるのだが見てもらえないか、とお話のあった方であった。東南アジアの仏像には明るくないので、サイトにリンクして頂 いている専門家に問い合わせたらと返事をし、岐阜旅行の行き先のアドバイスをお伺いしていた。
 折返し電話をしたとこ ろ、その専門家に写真を送ったら、タイの古い仏像に間違いないとお墨付きをもらったとのことであった。
 手土産は、地元の名産 品と、明日行く予定の高賀山の名水「高賀の神水」であった。

  「高賀の神水」の キャッチフレーズは「 1億年の眠りから目覚めた名水」。
 かのマラソンの高橋尚 子選手が使用していたと報じられ、一躍注目を浴びたそうだ。

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