第十一話 岩手・藤里毘沙門堂の平安仏
江刺は昭和30年代に江刺郡内の町村が合併して出来た市で、平成18年には水沢市などと合併して奥州市となったが、特に周辺地域は未だに長閑な集落の雰囲気を残している。
坂上田村麻呂の奥州征伐は、多賀城から南の胆沢城にその拠点を移すが、朝廷に服属した俘囚安倍氏の後を受けて、後三年の役後に事実上の奥州6郡の覇者となった藤原氏は、胆沢城の東方に在地政権の館であった豊田館(とよたのたち)を築いた。
黄金の平泉文化を造り上げた藤原清衡も、平泉に居を移すまで、豊田館に居住した。
藤里毘沙門堂は、豊田館の東に位置しており、更に東の種山ヶ原(物見山)と共に胆沢城築城後も未だ政情不安であった当地の守り神として信仰されたと考えられる。愛宕神社の境内にあり、元は吉祥山智福寺の毘沙門堂であったが、排仏毀釈後神社に改められたことから、智福神社とも呼ばれている。
藤里毘沙門堂はリンゴ畑に囲まれた長閑な集落を見渡せる裏山の途中にあるが、現在は一段高いところにコンクリート造りの収蔵庫が造られ、仏像はそこに安置されている。
藤里毘沙門堂の本尊兜跋毘沙門天像は花巻市・成島毘沙門堂、北上市・立花毘沙門堂と並んで、東北地方を代表する毘沙門天像として知られている。また関東・東北地方に特徴的に見られる鉈彫像の代表的な像としても著名である。
このお堂にはもう一体平安末から鎌倉時代初期の制作になる同じく鉈彫の毘沙門天三尊像がある。鉈彫像は、平安時代の一木造に多く見られ鎌倉時代の例は殆ど
ないが、一木造から寄木造に移行した後においても、仏像が仏教の象徴だけにとどまらず、その精神性が尊重され伝えられた結果と言えるのではないだ
ろうか。
堂内にはこの二組の像の他にも十体近い像が並べられており、その殆どが破損仏である。
中でも、僧形の像は、上半身を残すのみで、面相も朽損が激しいが、本尊兜跋毘沙門天像とほぼ同時期の制作と考えられる像である。本尊と同様に全身に鑿痕を
残した鉈彫像である。かろうじて残された片袖は柔らかく丁寧に表されており、森厳な表情は、この地方に多く伝えられる神像として造られたものかも知れな
い。
十一面観音立像はほぼ等身大の像で、細身で直立した動きの少ない像であるが、両肩から掛ける天衣と腹から脇腹を通って腰の後ろに廻す裳の表現は柔らかく丁寧である。像容は承徳2年(1098)の胎内銘を持つ成島毘沙門堂の伝阿弥陀如来像(本来は十一面観音立像)に近い。
その他の像も、僧形像、女神像など、神像と見られる像が多い。北上市の万蔵寺や白山神社には修験道に関連すると見られる同様の神像が伝えられているが、当地の独自の信仰の中で造られてきた像であろう。
明治初年の排仏毀釈の嵐はこの地にも及び、社寺に伝えられた多くの仏像が打ち捨てられたと思われるが、奇跡的に篤志家によって護られてきた像がここに集められたものと思われる。
兜跋毘沙門天立像 毘沙門天立像
僧形像 十一面観音立像
藤里毘沙門堂 岩手県奥州市江刺区藤里字智福 JR水沢駅または江刺バスセンターから伊手口沢方面行きバス岩明バス停下車徒歩20分