辺境の仏たち

高見 徹

 

第七話  福島・大蔵寺の平安仏

 福島県は、会津盆地を中心とする会津若松地方、福島市を中心とする仲通り地方、海岸沿いの浜通り地方と、政治的、風土的、文化的にも全く異なり違った顔を見せる。現在でも天気予報は、この三つの地域毎に出されている。

 県都福島市を擁する中通り地方は、吾妻連峰と阿武隈川に挟まれた、かつての信夫郡地域で、古くは信夫国造(しのぶのくにのみやつこ)が配され、平安時代には信夫庄とよばれ、平泉文化圏に属したが、鎌倉時代以降次第に関東文化圏の影響下に入ったと考えられる。

 市街には八葉蓮華文の鐙瓦を出土する腰浜廃寺など、奈良時代の寺院跡が残り、またみちのくの枕詞ともなり、芭蕉も訪れたという信夫文知摺石(しのぶもちずりいし)由来の文知摺観音など歴史を伝える史跡も多い。

 しかしながら、現在に伝わる文化財としては、平安時代を遡るものは少なく、僅かに、大蔵寺に伝わる破損仏群がその歴史の一端を伝えるだけである。

 大蔵寺は福島市街の南東に位置する、小倉山の中腹に建つ古刹である。当寺の縁起によれば、この寺は、もと福島城の北、阿武隈川西岸の大蔵寺村にあったという。

 大同2年(807)に徳一が開創したと伝えるが、江戸時代の『信達風土雑記』によれば、千手観音の大殿は大同年間(806〜810)坂上田村麻呂の草創で、田村麻呂が蝦夷征伐に苦戦した時、千手観音の擁護を受け平定することが出来たことから、舟岡権僧正に命じ千手観音像を造らせ安置したという。僧正は、山中から光を発する霊木を見つけ、本尊千手観音像を造ったという、

 現在収蔵庫に安置される本尊千手観音立像は、像高398.4cmの巨像で、もと奥の院に安置されていた、この寺の創建に関わる像である。幅広い面相や肉付きのよい堂々とした体躯、両脚間に表された渦文などからも、平安時代、10世紀頃の制作と考えられる。頭胴を一木で彫出し、背面から背中と腰部の二ケ所に内刳を施している。両肩より先、脇手及び膝から下の部分は全て後補で、全体的にもかなり補修の手が入っている。かつては後補の厚い金泥が施されていたが、昭和38年に修理され原状に復した。

 この寺には、本尊の他に平安時代前期の制作と考えられる一木造の古像が、収蔵庫に19体、奥の院に7体、観音堂に1体、合計27体伝わっているが、ほとんど朽損し、尊名も判然としない破損仏群である。

 これらの像は、時代的、様式的にも異なるものもあり、先の『信達風土雑記』に千手観音安置後、時を経ずして千体の尊像となり新たに堂を設けて安置し、数百体が現存する、と伝えることから、この頃迄に周辺の廃寺等から移されたものであろうと考えられる。

 現在奥の院の本尊となっている菩薩形立像は、像高309.6cmで、法量は千手観音像に次いで大きいが全体に朽損が激しく、面相、衣文も明瞭で無い。膝前に大きな節があり、内部は空洞になっている。

 観音堂の本尊となっている聖観音菩薩立像は、頭体部から足ほぞまで一木で造られている。両膝間に渦文が見られる他、大腿部、背面に翻波式衣文が見られる。背面から上下に二箇所に内刳が施されていることや、幅広な面相や量感のある体躯など、本尊千手観音像に近い様式をもっている。

 その他の像は、一体の坐像を除き、ほぼ等身大の立像で、各像とも破損が激しく、尊名も明確にできないものが多いが、頭胴あるいは上膊部迄一木から彫出している。中でも、金剛力士像や天部形像などは、両肩や腰回りなどの肉付きや姿勢など、勝常寺、宮城・双林寺四天王像に通ずる古様を示している。

 両腕も無く、目鼻立ちも判然としないこれらの像たちは、その存在感を主張している。金剛力士像の力強さや天部像の躍動感、帝釈天像の可憐なまでの優しさは、単なる木塊を超えた意志を感じさせる。大きな節や虚(うろ)を持つものなど、明らかに彫刻に適さない材を使用した像も見られ、あるいは霊木を使用したと考えられる像もあることから、造像者の精神の現れであるのかも知れない。

 麓から大蔵寺に通じる九十九折の坂道からは、悠然と流れる阿武隈川と福島市街、かつての信夫郡が一望の下に見渡せ、東北平定の祈念となる大寺を、東北の玄関であるこの地に移した先人の思いが感じられる。

 

 千手観音立像

  

聖観音立像           金剛力士像           帝釈天立像

 

福島市小倉寺 東北本線福島駅から川俣行きバス小倉寺前下車


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