川尻祐治

(34) 修那羅峠の石仏たち

 石仏ファンなら誰でも知っていて、謎の仏のタイトルにはふさわしくないが、信州修那羅峠(しゅならとうげ―地元では「しょなら」とい う)に江戸時代の庶民の心を伝えた、稚拙ではあるが非常にユニークで、個性的で素朴な石像が数多く残されている。

 長野県のほぼ中央部にあたる小県郡(ちいさがたぐん)青木村(旧田沢村)と東筑摩郡坂井村、(旧安坂村)を分ける舟窪山に、修那羅峠 とよばれる標高約千メートルの峠がある。峠は古くから小県郡と麻績(おみ)地方を緒び、安坂峠とよばれ、大国主命を祀る小さな祠があった。
 江戸時代の末になり、峠の付近に修那羅大天武と名乗る行者が、弟子や信者たちと行場を作り、修行を行うようになった。
 安政2年(1855)この地方は早魅に襲われた。峠の麓の農民達、安坂と室賀(現上田市)の三百人以上の人々が峠にのぼり、大天武に雨乞いの修法を乞い 願い、これを受けた大天武が、降雨の修法を行うと沛然(はいぜん)と雨が降った。大喜びの人々は、大天武に感謝をこめて、峠で秋の収穫祭を開いたという。
 やがて大天武は、万延元年(1860)の頃から、峠のある舟窪山の小祠を改修して住み着いた。
 大天武の秘法は筆神楽とよぶ占いで、過去現在、未来をことごとく占い当てると広まり、善光寺平、小県、松木方面からも人々が集まるようになった。『修那 羅大天武一代記」(大正3年)によれば、その霊験あらたかな加持祈祷から、人々は大天武を光聖菩薩、法重上人などとよびあがめたと伝えている。この頃から 峠に行く道は、修那羅様へ行く道と変わり、峠は何時のまにか修那羅峠とよばれるようになっていた。

 大天武は俗名を望月留次郎、寛政7年(1795)に新潟県頚城(くびき)郡妙高村大鹿に生まれた。九歳の享和11年(1803)に天 狗に従って家を出て、妙義山、秩父三峯山、相州大山、鳳来寺山、豊前彦山神社、加賀白山、越中立山、佐渡金鳳山など、各地の名山、神社仏閣を巡って修行を 重ね、この間に学問は豊前坊という岳天狗に習い、越後の三尺坊からは不動三味の法力を授けられて、霊験を身に付けたという。
 明治5年9月17日になって、大天武は更級郡塩崎村で客死するが、その遺言により、門弟信徒の手で、舟窪社に大国主命と共に合祀され、改めて修那羅大天 武命と命名されたと仏えている。
 社の縁起によれば、社は戦国時代の頃から祭神大国主命を祀る小祠として始まったが、大天武がここに定住して社殿を造り、舟窪山にあることから舟窪社と名 付けられ、さらに明治35年から修那羅山安宮社(やすみやしゃ)に改められたという。

 この安宮社の境内には、現在八百を超す石造遺品が残されている、中でも病気平癒、安産、農事豊作など、現世利益を祈る、一般庶民の仏 や神々などの石像は、二百二十九体を数えている。
 江戸時代、幕府は支配のために、仏教を初めとする全宗教に強い統制を加えた。寺院は本山末寺関係を強制きれ、その下に僧侶達は生活に至るまで規制を受け た。一方で人々は、その行動をキリシタンでない証明のために、必ずどこかの寺の檀家となり、宗旨人別改めによる檀家寺の証明が必要とされた。これにより檀 家制度が形作られ、僧侶は経済面においては檀家制度で保証され、もっぱら葬式仏教、葬式や法事などのお布施収入に生沽を依存することとなり、宗教家として の力を失い、現代にまで続く結果となった。このため宗教本来の力、人々の信仰による精神面の支えや、苦悩、半死の問題などを解決する場が失われた。
 こうした中で当時の人々が救いを求めたのが流行神(はやりがみ)や仏、また江戸時代の末から盛んになる教祖信仰で、これに応えたのが勧進坊主や修験者、 行者たちであった。
 修験者たちは、悩む人々に対して占いにより、その原固を明らかにし、卜占(ぼくせん)や霊感、祈祷により、あらゆる崇りの霊や災厄の除去を行った。この ため神や仏など、様々な祈る対象、人々の願望に応え、伝統的な神や仏にこだわらず、祈りや修法に応える沢山の神々が創造された。そして崇りを与える諸神霊 や動物霊はすべて大日如来に包含されていて、大日如来はその働きを不動明王に委ねていると説明し、不動明王は災厄を取り除くことができるとされ、その信仰 が流行した。
 大天武が越後の三尺坊から不動三味の法力を授けられ、霊験を身に付けたという話は、こうした修験者の不動明王の霊力を裏付けている。


 上田から国道143号線を北上し、修那羅川に沿って県道に人ると問もなく修那羅峠に着く。ここから坂井側に下って山間に入る。平地が あって鳥居が建つ。濃い樹木の中を暫く歩くと、安宮社に到着する。人家と間違うような社殿の裏側に回ると、樹木で暗い細道の両側に石仏が安置されている。
 この安宮社境内の山中に、累々と安置される石像群が、信者の願望をかなえてくれる神仏で、その功徳をたたえて奉納された石像である。当時の行者の修法と 信仰の在り方を伝えている。

石像はいずれも20〜40cmたらずの像で、丸彫像、板状の光背を背にした半肉彫りの像など様々で、信者の願望をそのまま尊名としてお り、金神、天神、道祖神を初め猫大明神、鬼神催促金神、左ウチワの神、蚕神など種々様々で、一瞬吹き出すような神の名もある。
 中でも子供の守護尊と考えられる地蔵と見られる像が多い。何時の世も変わらぬ親心から、子供の成育、冥福を祈ったのであろうか。
 姉弟像、子育て地蔵ともよばれているが、親が早逝した子の冥福を祈った像であろうか。髪を長くして錫杖を持つ姉が、宝珠を持った弟の手を引く像で、元治 元年(1864)の奉納である。この像は、悲しい祈りを忘れさせるような、姉弟愛を思わせるほのぼのとした像である。(写真1)
 また、子供の冥福を祈ったか、母親が暖かく子供を胸に抱き締めた像には母親の深い情を感じさせる。(写真2)
 一方父親と見られる大人が、自分の子供と見られる幼児の手を、冥府で迷わぬように紐で引く姿もあり、親子の情愛を思わせる像が多い(写真3)
 尊名の分からない神像も多い。刻銘に「二十三歳、女、未」とあるこの像は、未婚の娘の縁談を祈った像という。(写真4)


 平家士像ともよばれる像は、鎧を着けた二人の武士を薄肉彫りとする像で、向かって右に大銑皇神、左に大切皇神の刻銘がある。大天武の 平家の士(さむらい)と書かれた祈祷文が残され、「四国八島壇野浦/平家士/大普扶幸神/大切幸神/大銑幸神/大鳥幸神」が見られるという。平家の怨霊を 使って我が家の怨霊退治のための本尊といわれる。(写真5)
 邏卒像 大天武は秘蔵の太刀を盗まれたことがある。この時に十手と捕り縄を邏卒神に供えて祈ったところ無事に刀が戻った。しかし、再び盗まれ、盗難防止 の呪として刀に「修那羅丸」と命名したところ、盗まれなくなったという。この刀の名が後に修那羅の語源という。(写真6)
 銭謹金神像 両手に銭をもつ像で、金儲けを祈願した神であろうか。いかにも現代に合いそうな神の名である。(写真7)
 猫神像 特に重要な神であったのか、中央の猫山にある修那羅大天武碑の近くに二基の猫神が安置されている。鼠の害に困った蚕農家が奉納したと考えられて いる。描像は修那羅峠の像に共地する霊諍像の中にも見られる(写真8)



 ほかに壺から酒をくみ出している人物像や左手に柄のついた鏡とも、団扇とも見られるのものを持つことから、左団扇の神とよばれる像な どもあり、いずれも素朴な像であるが、江戸時代の一般市民の現代に通じる願望、現実的なご利益を願う心が窺えて楽しい。
 こうした諸像は、大天武の各種の加持祈祷のために定められている本尊であって、修那羅峠の多くの像は、そのつど新た造られるのではなく、他の土地で修法 した際に奉納された像が、同じ祈祷のために、この峠に移されたと考えられている。
このように、これらの像は仏教の形骸化した中で、庶民の願望に応えるための修験者や行者たちの活躍を物語り、円空や木喰など、作仏聖の造像にも通じてい る。
 この修那羅峠の石仏に共通する像が、更埴市八幡の霊諍山にある。ここには大国主命を祀る社殿を囲み猫神像など教十体の石仏が祀られている。これらの像 は、この地区出身の北川原権兵衛が、明治24年から神がかりができるようになり、村人の尊宗をうけて寄進を受けた像であることが知られている。また権兵衛 自身も大天武の影響を受けたことを述べているほか、この地では大天武の弟子に当たる和田辰五郎が修法を行ったことが知られれており、大天武との関係のある 土地と見られる。
 素朴な修那羅峠の像・霊諍山の像は、いずれも江戸時代末から明治時代にかけての庶民の信仰を知る上で、貴重な資料を提供している。


 (参考文献)

日本地名辞典          角川書店
日本の石仏6  南湖峯夫    国書刊行会
石仏      久野健     小学館
日本仏教史2 笠原一男・宮家準 山川出版社

 



 

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