川尻祐治

(33) 丹沢の大寺 大日堂

 神奈川県北西部の丹沢山地は、その中央部に1000m以上の山が60以上もそびえる山岳地帯である。その中で南西部にある標高 1245.6mの大山は、雨降山・阿夫利山ともよばれ、雨を降らす神がいる山として山岳宗教の対象となり、関東一円の信仰を集めてきた信仰と歴史の山であ る。
 その大山には三つの登山口、伊勢原口・日向(ひなた)口・蓑毛(みのげ)口がある。そのうちの蓑毛口は大山の南、秦野市蓑毛から始まる。
 蓑毛地区は市の北部にあたり、丹沢山地が緩やかに相模平野に向かって斜面を造る山裾の集落で、坂本とよばれた伊勢原口の門前町に対し、小田原以西の参詣 客が利用する西玄関口に当ることから、西坂本ともよばれて賑わった。


 かつてこれら三つの登山口には、各々大寺があって、修験道場として栄えた。伊勢原口には大山の不動で名高い不動明王を本尊とする真言宗雨降山大山寺。日 向口は日向の薬師、真言宗日向山霊山寺があり、現在その別当坊であった宝城坊(ほうじょうぼう)が寺名を伝えている。宝城坊もまた、本尊薬師如来像は、彫 刻の上では鈍彫(なたぼり)像として名高く、信仰上では眼病の仏として、平安時代の昔から今日まで信仰を集めている。秦野の蓑毛口には地蔵堂があった。
 これら三カ寺には、共通する伝説がある。大山の東、愛川町八菅(はすげ)(現愛甲郡愛川町八菅)の八菅山(標高225.7m)に八菅神社があるが、この 神社は古くから修験の道場として知られ、八菅山と大山を結ぶ回峰行の出発点であった。この地の言い伝えによれば、役小角(えんのおずぬ)が八菅に来山した 時、薬師の呪法を修して、薬師・地蔵・不動の各像を刻み、像を投げ上げたところ、薬師が日向に、地蔵が蓑毛、不動は大山に落ちて祀られることになったとい われている。
 地蔵が祀られたという蓑毛集落は、秦野からバス路線の終着になっており、バスの走る現在の主要地方道、秦野清川線が旧大山道である。道に沿って石垣積み の屋敷が階段状に続くが、大正十二年の山津波の発生まで、大山参詣の人々を案内する御師(おし)の家が三軒ほどあったという。しかし昭和二年に小田急電鉄 が開通すると、大山参詣の中心が伊勢原口に変わり、蓑毛の参詣道としての役割は終わり、その面影は失われた。
 バスは蓑毛を終点としているが、夏になると蓑毛集落の上、大山登山のハイキングコースである「やびつ」まで上がる。途中相模平野から相模の海を一望する 眺めは素晴らしい。
 蓑毛の地名は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が大山に上がって雷雨に遭ったとき、村人が蓑と笠を贈ったことによると伝えている。

大日堂 仁王門

大日堂 仁王門

 その蓑毛のバスの終点に臨済宗宝蓮寺と道を挟み、斜面を境内とする宝蓮寺管理の大日堂がある。整備された大日堂の境内には、大日堂・ 不動堂・地蔵堂(茶 湯殿)、日本武尊などを祀る御岳神社など、いずれも古い伝説を伝える諸堂が建ち、これらを総称して大日堂とよんでいる。

 宝蓮寺は、建長寺第十三世仏国応供禅師(広済国師 正和五年・1312卒)を開山とする臨済宗建長寺派の寺で、山号は金剛山とよび、 臨済の寺にもかかわ らず本尊を薬師如来としているが、寛文九年(1669)になって、蓑毛村の領主旗本揖斐与右衛門が、一族迎接院宝蓮信女の菩提のために、同じ蓑毛にあって 大破していた金剛山薬音寺を、現在地に再興して寺号を宝蓮寺に改めたことが知られており、この時に密教系の旧寺の本尊が移されたと考えられる。またこの時 より百姓平左衛門が管理していた大日堂・不動尊・地蔵堂が、宝蓮寺の預かりとなったことがはっきりしている。
 大日堂の諸堂の中、大日堂はそのものは、その縁起によれば、天平十四年(742)に行基が金剛界の五智如来像、大日如来・宝生・阿同(あしゅく)・釈 迦・阿弥陀如来を造立供養して、覚王山安,明院を始めたといわれる。奥院とされる不動堂は、秦河勝(はたのかわかつ)が五大尊の奉行としてこの地に下り、 インドの伝説上の名仏師、毘首羯磨(びしゅかつま)が制作した不動明王を安置したことから始まると伝えている。
 茶湯殿ともよばれる地蔵堂は、八菅の言い伝えによる役小角が八菅で空に投げあげた薬師・地蔵・不動の中、地蔵を安置した堂と考えられるが、他の登山口の 大寺に比べると現在は小規模な堂であり、本尊地蔵菩薩像も近世の像に変わっている。こうした伝説の真偽は別として、これらの諸堂の仏たちが、各堂の創建の 古さを推測させている。
 また大日堂の境内は山梨県塩山の向岳寺を開いた禅僧、抜隊得勝(相模の人 1327〜87)が南北朝時代に庵を結び、全国より三百を超す門弟が参禅した という。

 道路に面した山門をくぐれば正面が大日堂である。その大日堂は、昭和四十八年から蓑毛大日堂保存会が発足し、堂宇を初め諸仏の修復が 行われるなど、以前 の荒廃を一新している。
 堂内に入ると、中央に補修以前は厨子に納められていた智拳印を結ぶ金剛界の大日如来坐像(ヒノキ 漆箔後補 一木造補 修前像高175cm)が安置さ れ、向かって右の脇壇には宝生如来坐像(ケヤキ 一木造 124cm)と阿陶如来坐像(ヒノキ 一木造 125.5cm)が安置されている。左の脇壇には 釈迦如来坐像(ヒノキ 一木造 131cm)と阿弥陀如来坐像(ヒノキ 一木造 123.3cm)が安置されている。

 
大日堂 堂内

 
    宝生如来坐像      阿如来坐像         大日如来坐像

 中でも本尊大日如来坐像は、補修の際に失われていた宝髻が復元されているが、法量六尺を超す大きな坐像である。補修前の極端に吊り上 がった目など、見る からに地方的で、それだけに個性の強い印象を受けたが、補修後はやや硬直するものの、比較的温和な表情に変わっている。四体の像も本尊と同様に雨漏りなど から朽損が進んでいたが、いずれも補修され堂々とした体躯が拝観者を威圧している。

菩薩立像

 これらの像は古式の一木造りの像であることが知られていて、本尊大日如来の首(ほぞ)をもうけない手法、またその構造や 作風から、制作は十一世紀 末から十二世紀初頭と見られている。

 研究者によれば、大日堂は江戸時代には国分寺とよばれ、蓑毛にあった相模の国分寺に関係する寺が、元禄十六年(一七〇三)の大地震で 破損したため、大日 堂と共に再建されて、共に国分寺とよばれていたと指摘している。現在大日堂に残される金剛界の五智如来の信仰が、たぶんに国家的、公共的な信仰であったこ とから、その背景には経済的な支援と造像を助けた権力者の存在がうかがえられ、国分寺に関連する寺ということも十分にうなづける。

 大日堂にはほかに、廃堂となった観音堂の聖観音菩薩立像(一木造 彩色剥落 像高215cm)が、客仏として安置されている。全体に 彫りが浅く磨耗も進 んでいるが内刳りもなく、胸から足元にかけての抑揚もなく、いかにも地方的な像であるが、巨木の重量感あふれる肉付きなどが、平安時代の古様な像であるこ とを教えている。本像は神奈川県下でも古い像として知られている。
 大日堂の背後には、古い伝説を秘めた地蔵堂がある。この堂は茶湯堂ともよばれているが、この辺りでは、人がなくなって百一日経つと、無事に浄土に行き着 くと信じられ、地蔵菩薩像に茶を供えて供養、参詣することが行われていたため、これに因んで堂の名が起こったともいう。堂内には地蔵菩薩坐像(一木造 彫 眼 彩色)を囲み、地獄の冥官を始め、鬼卒や亡者を責める地獄の諸道具が配置されており、今では見ることも少なくなった地蔵十王経の世界が再現されて貴重 である。
 本尊地蔵菩薩坐像の左右には、亡者の生前の罪業を裁くという、等身大の各五体の十王が坐るほか、入り口近くにはさいの河原で亡者の衣服をはがすとい奪衣 婆(だつえば)、地蔵の前左右には、生前の罪業を十王に報告するという倶生神(ぐしょうしん)、横には十王の前に弓き立てる鬼卒の像が安置されるほか、亡 者の生前の善悪を計る秤と、その行為を映し出す鏡、隠し事を見抜く赤白二基の檀拏幢(だんだとう)が置かれるなど、地獄を恐れた人々の民俗資料としても貴 重である。これらの像の多くは眼を失うなど、破損が痛ましいが制作が十四世紀頃まで遡ると見られる像もあり迫力がある。

地蔵堂 十王像

   
檀拏幢       倶生神        奪衣 婆         鬼卒   

 地蔵菩薩の体内には、長野善光寺に関係する僧が、正徳五年(1715)に再興した旨と、この像が行基作という墨書きや、数体の十王の 台座には、享保六年 (1721)に江戸横山町の商人の妻女が寄進した銘がある。

不動堂 不動明王坐像

 大日堂の奥の院とされている不動堂には、帰化人秦河勝の伝説をもつ、大きな木造不動明王坐像が安置されている。この不動明王は五大尊 ともよばれ、五大明 王の存在を推測させる像の一部も見つけられており、かつては五大明王を安置していたと考えられる。
 開発の進む首都圏の近くに、こうした大きな像が残されていることは貴重であり、日本の歴史の古さをしのばせている。


 


 



 

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