川尻祐治

(32) 秋田県道川神社の戌神将像


 四十五年以上に亘り、各地の仏像巡礼の旅を続けて来たが、東北地方の日本海側、山形・秋田・青森の三県には、ほとんど足を踏みいれたことが無かった。昨 夏、仲間と共に諸仏との出会いに胸を膨らませ、東北地方、日本海側の諸仏を尋ねた。

レンタカーを使った三泊四日の旅は、山形県米沢から始め、最上川を下り、遊佐町の万百羅漢を見学した後、秋田県をほぼ縦断して、津軽半 島の十三湖や下北半島の恐山、小川原湖の原風景をめぐり、三戸町から盛岡で解散した。この間約1250キロ。ドライバーは仲間で、中年のプロではあった が、地図を頼りに山道に入るなど、初めての田舎道の一人運転は、相当こたえたと思う。帰郷後に写真の交換金をかねて慰労会を開いた。この旅行では十四か所 の社寺や遺跡を回り、それぞれに印象深い出会いがあったが、中でも秋田市上新城道川愛染地区の道川神社の諸仏は印象度が強かった。

 旅の二日目の最後は道川神社を予定していた。昼食をとった山形県遊佐町の十六羅漢から、十五時頃に約束していた秋田市の全長寺に連絡 をとると、法事が入り十六時以降の拝観は難しいということだ。

全良寺 阿弥陀如来坐像

 全長寺の銅造阿弥陀如来坐像は、仏像では秋田県唯一の国指定重要文化財である。この像を見逃したら秋田の仏像を見学したことにはなら ない。昼食もそこそこに、午後の最初に予定していた象潟町金峰神社を目指した。

 鳥海山の登り口にある金峰神社には、藤原様式を残す鎌倉時代初期の造像と見られる一木造の巨像、観音菩薩立像(県指定 像高 380cm)や、木造蔵王権現像、室町時代の狛犬などが残されている。これらの像は神社境内の収蔵庫に安置されていたが、ガラス越しの見学となり、細部ま での見学は難しかった。見学もそこそこに、近くの芭蕉の『奥の細道』や司馬遠太郎の『街道を往く』で名高い蚶満寺(かんまんじ)にも立寄らず、そこそこに 全長寺を目指した。

 ひたすら五号線を秋田市に向けて走り、全長寺には十六時十分前に到着した。途中渋滞も無かったが、何よりもスピードを出しつつも安全 運転に努めるドライバーの技術が最高だった。

 市内中心部の臨済宗全長寺は大きな寺である。客仏の銅造阿弥陀如来坐像(像高132.0cm 鎌倉時代初期)は、本堂の片隅に安置さ れていた。本堂には法事の檀家さんが集まり始め、法要の始まる寸前にもかかわらず、自由に見学させて下さった住職の好意が嬉しかった。

 この像は雄物川から拾い上げられたといわれ、一部欠損があるほか、全身のこまかな傷は、参詣者が賽銭を投げた傷跡だという。全体に均 衡のとれた整った中央作の像である。

道川神社入口

 全良寺の見学を短時間で済ませ、次の目的地道川神社に向かう。十五分位で到着する筈だ。携帯電話で十六時半には到着することを伝え る。渋滞があっても7キロ程度の距離だから間違いがない。しかし田舎の道は近くて遠いというが、まさにその通りだった。秋田市内とはいえ、神社は一山越し た農村部にあり、途中で道を聞こうにも交番もなく、人も歩いていない。事前に市から送られてきたコースの略図が頼りだったが、いつのまにか反対方向に走 り、到着は十七時近かった。

 道川神社は山の中腹にあり、禰宜さんが麓の入り口、川にかかる橋の上で待っていて下さった。おそらく小一時間は待たれたことであろ う。恐縮しながら案内を乞う




 道川神社 毘沙門天立像            愛染明王座像

 神社は杉の大木の茂る広い境内をもち、途中から苔むした石段の続く愛染山の中腹にあった。 上り切ると僅かばかりの平場に、そまつな 社殿と集会所のような建物が建っている。早速に本殿に昇段し、仏像を拝観させて頂く。

 拝殿には、本尊愛染明王像の前立と伝えられる毘沙門天像(県指定 寄木造 彩色 像高147.6cm)が安置されている。平安時代後 期の制作とされるが迫力のある像である。宮城県で開かれた「東北地方の仏像展」の際、破損を修復して頂けるということで出展したという。肩部には宝相華文 が描かれているというが、はっきりしない。脛甲部には唐草模様が描かれるなど華麗である。左足を半歩踏み出した像容は体躯を捻り、獅噛(しかみ)を右に向 け、腹甲を右に流し、頭部を左正面に向けるなど動きのある中でも均衡がとれ、洗練された技法は、作者が中央の腕の確かな仏師であることを証明している。

 拝殿に続く本殿奥には、県指定文化財の本尊愛染明王坐像、伝金剛夜叉明王坐像、不動明王立像が安置されているがいずれも破損が進んで 痛ましい。

 大きな円光背を負った愛染明王坐像(寄木造 彩色 像高100.0cm)もまた破損がひどい。かつて神殿の裏山の頂きにあった愛染堂 の本尊像であったといわれ、この辺りの字名の愛染もこの像によると考えられる。江戸時代の後補が多いが、鎌倉時代制作と見られる。両腕は肩より失われ、左 右の脇面も後補と見られるほか、裳先なども欠いている。

 伝金剛夜叉明王坐像(寄木造 彩色 像高100.0cm)は、愛染明王像と共に、両本尊とされる像である。この像も破損が多いが、愛 染明王像よりは形状がよい。もとは青色に彩色されていたというが、今は黒色に彩色されている。体内には正徳四年(1714)の修理銘のある六角柱が納めら れている。

 不動明王立像(寄木造 彩色剥落 像高111.8cm)は金剛夜叉明王像の前立といわれるが、かつてあった不動堂の本尊と見られ、毘 沙門天像に共通する形法から、同じ頃の制作と見られる。しかし全体に矧ぎ寄せ部分が緩むなど損傷が痛ましい。腹部に制作当初の彩色が見られる。これらの像 の材料はヒノキ材という。

 いずれも神社の御神体として安置されていたのであろうが、該当する神の名は不明である。

  
不動明王立像     伝金剛夜叉明王座像     戌神の祠     

 現在神社の祭神は、伊那那岐命(いざなぎのみこと)・伊那那美命(いざなみのみこと)のほか、三神というが、昔の火事によって古記録 が失われ、縁起をはじめ神社の歴史など詳細は不明であるが、江戸時代の道川には、愛染堂、不動堂があったことが知られている。

 宮司伊藤徳憲氏の迫川神社御神宝解説によれば、現在の神社は明治時代以前には愛染神社とよばれ、淳和天皇(786〜840)の天長年 間(824〜34)に慈覚大師が草創したという。後に正徳四年(1714)になって秋田市添川字添川の曹洞宗湯沢山乗福寺(秋田市山内の曹洞の大寺、補陀 寺の末寺)の第七世如月和尚によって諸尊が再興された。別当愛染院の愛染堂が造営されたのはこれより古く、寛永五年(1628)と伝え、神社は享保四年 (1719)に鳥居が建立され、同九年には本社が再築され、また延享四年(1733)にも再々築されるなど、藩の信仰もあって盛んであったという。明治四 十二年になると周辺の諸社を神明社に合併して愛染堂に移転した。この時に諸社の別当寺から諸仏が移されたと考えられる。さらに大正四年には神殿を増築し、 村社道川神社と改称したという。

 本殿の像の拝観が終り、階段を下って神社の前の広場に出る手前、鳥居の近くの右、参道脇の小さな祠の扉を開けてみた。ここで興味のわ く石像を見つけ、先を行く仲間を呼び戻した。丸彫りの五頭の犬の上に立つ、60cmたらずの彩色された武人の像が安置されていた。墨書によれば明治に入っ てからの造像である。可愛らしい五頭の子犬を台座として立つ神将像であるが、将名は分からない。禰宜さんも知らないという。

 この辺りの言い伝えでは、道川の近くに温泉があり、昔は子宝を願う夫婦が、その温泉の湯の脇で睦みあうと、子宝が授かると信じられ、 子供を授かった夫婦が、この祠にお礼参りをしたという。石像に巻かれた白い帯は妊婦が巻く腹帯であり、台座の犬は安産の象徴である。

 帰郷してから、醍醐寺の薬師十二神将図に獣座に立つ十二神将があることを思い出し、図像を調べたところ、親犬を中央に、五頭の犬を台 座とする戌神があった。道川神社の石像は、神将の像容には違いがあるものの、安産の守り神である戌神に違いない。十二神将の中の戌神の信仰は、鎌倉覚園寺 をはじめ各所にあるが、彫刻化され独尊として安置し、単独で信仰される像にお会いするのは初めてで、古い像でもなく、来歴も分からない像だが改めて感激が 広がった。

  
醍醐本 薬師十二神将戌神像        戌神将像    

 道川神社の拝観が終わるともう辺りは暗く、六時半を過ぎていた。境内入り口の温泉に宿泊したかったが、本道まで禰宜さんの誘導で走 り、夜道の285号線、五城目街道から宿泊地の大館に向かった。



 

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