川尻祐治

(31) 慶州の十二支神像を旅する


 韓国新羅独特の像として獣頭人身の十二支神像がある。この像を見るために何度か韓国に渡り慶州を訪ねた。

 平安時代から鎌倉時代にかけて金胎房覚禅(1143)が著した義軌、「覚禅抄」薬師法図像の十二神将には「世流布像」としての十二神将図と文官服を着けた獣頭人身の十二支神像が描かれているほか、醍醐寺本薬師十二神将図に武具を着けた坐像の獣頭人身の十二神将が著され、干支と神将名、また持物と神将の関連から、薬師十二神将を研究する上で、高野山桜池院蔵の薬師十二神将図(鎌倉時代)と共に重要な資料として知られている。この中、獣頭人身像はいずれも袍衣を纏い、持物は武器または仏具を執る像と、何も執らない像がある。

覚禅抄 十二神将図

道成寺 十二支神像
 この獣頭人身像は図像や彫刻の上で、「覚禅抄」と「醍醐寺本」以外にも隼人石があるといわれるが、わが国では殆ど例がなく、僅かに和歌山県道成寺の宝物館に例を見たが、これも何時、どこからもたらされたのか住職も分からないという話しで、恐らくは韓国よりもたらされた像ではないかと想像する。

 わが国では薬師十二神将は数多く造像され、また描かれているが、その尊名や像の形態も標識である干支も異なり、一定していない。このためその神将名は、寺の伝承などでよばれているのが一般的である。

 こうした中で韓国では、正月になると獣頭人身の十二支神像の拓本の中から、その年の干支を選んで家に飾る風習があるという話しを韓国の人から聞き、韓国に獣頭人身の十二支神像があることを知り、十二神将と干支の結び付きが、わが国の十二神将を解く手掛かりとなるかと思い、獣頭人身像を探し歩いたのが十二支神像に興味をもったきっかけだった。

 獣頭人身の十二支身像は中国、韓国に見られるが、中国では十二支が漢代から動物として表されるようになり、唐代の八世紀に入ってから獣頭人身の十二支像が成立したと考えられている。一方韓国では唐の影響下のもとに、独特な新羅彫刻として彫刻されるようになったのが統一新羅の時代(684〜935)で、王陵を始め、仏教建築や工芸品などにも表されるようになる。

 現在この新羅の遺品は、かっての首都慶州地方を中心に王陵などに彫刻されるが、十二支身像を大きく分けると平服像と武将像に分かれ、半肉の浮彫像と丸彫像があり、また立像と坐像に分かれる。袍衣像と武将像の違いは中国における葬儀の定め、生前の位階によっての規定から生まれ、変化したとも考えられている。これらの中、武将の立像は王陵の周囲、陵の土盛の裾部分、土留めの護石の間に挟まれた板石の表面に半肉で浮彫りとされている。像は東西南北に配置され、正面は必ず南に面し馬頭の獣頭人身像が彫られ、右に未、申、酉、戌、亥と順に配置され、真裏の北に子から丑、寅、卯、辰、巳の順番で十二支神が配置されている。また陵によっては護石を支えるように十二個の三角状の支石が置かれ、支石と支石の間に丸彫りの獣頭人身の武将の十二支神像が置かれている。

甘山寺建物基礎部分の十二支神像
 一方仏教遺品に見られる像は平服の立像、坐像など多種に亘っているが、国立慶州博物館の庭に置かれた甘山寺の建物基礎部分に彫刻された十二支神像などのように、比較的小さな十二支神像が残されている。これらもまた東西南北に従って配置されていたと見られるが、動かされていることから断定は難しい。

 慶州の観光旅行の時、比較的行きやすいのが掛陵や九政洞方形墳、あるいは金庚信の墓である。
 掛陵は新羅387代元聖王(785〜98)の陵として知られ、入り口には向き合って胡人や官人、獅子の石像が立ち、建立当時の姿を比較的よく残した陵である。陵の周囲は約76mあり、丸く盛り上げた封土の裾部には高さ1.5mの護石が巡らされ、さらに1.6mの床石が敷かれ、これに42本の石造欄干が巡らされている。護石の間の板石には、鎧を着け武具を執った、浮彫の武人の獣頭人身の十二支神像が配置されている。
 慶州から掛陵に進む途中、仏国寺に折れる所に九政洞方形墳がある。高さが約3m、一辺が9.5mあり、埋葬者は仏国寺を造営した金大城の墓ともいうが、はっきりしていない。この古墳は新羅では珍しい方形の古墳で、正面中央に内部の石室に入る入口と通路があり、誰でも入室出来る。古墳の裾部の両端に石柱を建て、束石の間に二段の護石を積み、その間の板石に浮彫の武具を執った武人姿の十二支神像を配置している。

  

掛陵全景             掛陵 申神      掛陵 午神

  

九政洞方形墳 申神  九政洞方形墳 辰神       九政洞方形墳全景      

 この方形墳より市街地によった、道路よりちょっと入った所に新羅第33代聖徳王(702〜33)の陵がある。十二支神像のある慶州の古墳の中で統一新羅の初期に築造された最も古く、王陵の形式を最初に完備した陵と考えられている。
 陵には掛陵と同様に胡人や官人が陵の前に立ち、前後四方に獅子が配置されている。陵の裾部の護石は板石を使い、これに三角状の支石を置き、一つおきに護石から独立した丸彫りの十二支神像を配置し、陵の外側には石造欄干を巡らせている。しかしこの十二支神像の多くは、その頭部を破壊され、わずかに慶州国立博物館に保存の良い申像(116cm)が展示されている。この像は肉取りも厚く、重厚な力強い体躯をもち、武人の十二支神像では古い像の一つと考えられている。
 南川の西、京城釜山高速道路を潜ると新羅第35代景徳王陵(742〜65)がある。王の時代、新羅が最盛期を迎え仏国寺が完成したのもこの時代である。円球の陵は裾部に束石を建て板石を巡らせ、他の王陵と同様に浮彫りとした武将の十二支神像(約1m)を挟み、これを石の欄干が囲んでいる。この十二支神像は保存状況が良い。

   

  聖徳王陵 申神    聖徳王陵 十二支神    景徳王陵 未神     景徳王陵 申神
 (中央国立博物館蔵)

 景徳王陵の見学は思い出が深い。慶州郊外で地理的に分からないこともあって、この時は国立慶州博物館のOBをガイドに依頼して見学した。現在は変わったかも知れないが十数年前のこの辺りは農村地帯で、その王陵は一段高く、周囲には遮るものも少なく、かなり遠くまで見渡すことが出来た。到着してまもなく、向こうから自転車に乗った若い男性が近付いてきた。写真を撮ろうとしている私たちに何か叫ぶ。通訳によれば国宝だから写真を撮るなといっているという。間に入ったOBのガイドが「そんな法律はない。何でそんなことをいうのだ」と厳しくいう。若者は「私はこの陵の管理を任されているのだ」という。この後が驚いた。

 「君は年長者の私に向かって無礼だろう。その靴の履きかたはなんだ」と0Bが若者の足元を指さした。なるほど若者はズックを踵を踏みつぶしサンダルのように履いていた。
 指摘された若者は慌ててズックを履き直し、今度は直立した姿勢をとり、再び写真は撮らせないと、激しく早口で言い立てた。
 これ以上言い争うと暴力沙汰になり兼ねないので写真の撮影は諦めた。後で聞くと韓国人の口論は言葉こそ激しいが、暴力沙汰に発展することは殆どないということだった。韓国を旅行するうちに、何度か喧嘩も目にしたが、この時の若者が靴を履き直して、年長者と再び口論する姿は印象深い。韓国の長幼序列、儒教の心をこうした状態で目の辺りにしたのは、後にも先にもこの時限りである。

 慶州盆地の西部地域、西川橋を渡り興都路を進み、遠足の小中学生で溢れる金庚信の墓に行く。庚信は第29代武烈王(654〜61)のもとで百済や高句麗と戦い、これを滅ぼして三国統一を成し遂げた新羅の英雄である。
 この陵(周囲約55m)は王陵ではないが、他の王陵と同一形式の陵で、裾部の護石には獣頭人身の十二支神像が浮彫とされている。しかしこの十二支神は、王陵の像が式服を纏うのに対して長袖を翻した文官の衣装で、他の王陵とは異なっている。庚信の死後、第42代興徳王(826〜36)の時代になって再び庚信の功績を称えて叙勲したことから、古墳は九世紀に入ってからの造築とも考えられ、彫刻も九世紀の制作と見られる。
 この古墳からは他にも十二支神像が発見されている。現在中央国立博物館や慶州国立博物館に展示されている武人の十二支神像がこれで、この像はろう石(縦約39.5cm、横22cm、厚さ9.5cm)を素材に用い、これに高肉彫りとしていて陵の周囲に見られる十二支神像を遥かに凌駕した美しさと技術を見せている作品である。

    

       金庚信陵 申神      金庚信陵 午神      金庚信陵 午神
                             (ろう石製 中央国立博物館蔵)

 こうした陵に見られる十二支神像の他、仏教の建造物には平服の坐像の獣頭人身の十二支神像が見られる。慶州国立博物館の野外展示に見られる甘山寺建物基壇などである。

 仏教遺跡の十二支神像として完全な形で残されているのが毛火の郊外、山中の遠願寺の二基の石造塔である。

 この遠願寺を訪れた時にこんなことがあった。荒れた境内で塔を見学していると、60代と見られる僧が現れた。我々に近付き「日本の方々ですか?」と尋ね、「私の日本語分かりますか?」と語りかけてきた。たどたどしくはあったがよく分かる。「私、大東亜戦争が終わってから日本語を話すのは初めてなんですよ」といいつつ、仲間の60代の年配者をとらえ、従軍の経験があるのかと聞く。
 南方に従軍していたことを答えると、「あなたは私の戦友だ。私は戦犯で四年間もマレーシアに抑留されていた」といって、その人の手を両手で握り涙をこぼした。悲惨な第二次大戦、戦争の罪の深さに緊張した光景だった。

 この遠願寺には、九世紀初めの造塔と考えられている三層の石塔(各高さ7.2m)が二基あり、いずれも塔の基礎部の四方に、蓮華座に座り天衣を光背状に、あるいは翻した平服の十二支神像(約70cm)が彫刻され、塔身部には四天王が彫られている。
 この塔は新羅後期の典型的な塔といわれ、博物館は別として十二支神像を彫刻した唯一の当初からの塔である。

  

遠願寺 東塔     遠願寺 東塔 申神   遠願寺 東塔 酉神

 慶州中心部に戻れば皇福寺北地の畠の中には板石に浮彫した十二支神像がみられるが、これはよそから移されたといわれる。また陵只塔址とよばれる遺跡にも同様な十二支神像が残されている。このような新羅の獣頭人身の十二支神像を見ていくと、新羅の十二支神は薬師十二神将とは異なる信仰であることがわかる。恐らくは大葉経に説く十二獣が、一時間ごとに人間世界に出向いて人々を教化するという時間としての守護神、陵に祀られた死者、あるいは仏教建物を四六時中守護するという信仰、仏教と道教が習合して生まれたのではないかと考えられる。

 

皇福寺址 金堂跡                 陵只塔址  

 

 参考文献 「新羅の十二支像」姜友邦(近藤出版)

 

「謎を秘めた仏たち」は、古美術月刊誌「目の眼」((株)里文出版発行)に好評連載中です。

 


inserted by FC2 system