川尻祐治

(30) 百済の仏を訪ねる


 慶州というと昨年他界した銀座一のバーテンといわれた一人の友人を思い出す。

 20年位前のことだったと思うが、十二支神の像を探して慶州の峠道を歩いていた時、その友人の靴先にぶつかる物があった。靴先で掘り起こすと鐙瓦の小片だった。僅かではあるが、唐草の文様の一部も見られ、統一新羅時代八世紀は下らない瓦の残片で、拾った本人は勿論、回りの友人たちもその幸運をうらやんだ。この後慶州の郊外毛火の遠願寺に出向き、その境内で、無数に散らばった瓦を見たが、どれもがはるかに時代の下ったもので、古い瓦を拾うことはできなかった。あの新羅瓦を拾った時の友人の嬉しそうな顔、そして彼の宝物となった瓦、長くなかった彼の生涯の中で、もっとも印象に残った旅だったと思う。
 そんな新羅の古都慶州も、今はすっかり整備され、瓦片を拾ったのはどの辺りだったか、見当すら付けられない。

 慶州が新羅千年の古都であり、韓国仏教美術の宝庫であることは今更紹介するまでもないが、中でも市域を流れる西川と南川の間、標高468mの南山には無数といえる仏教の石造遺品が散在し、慶州を語るときはこの南山を外しては語ることができない。
 韓国の歴史的な仏教遺品を見る時、その多くは出土品であり、また石仏が多い。この半島は中国大陸からそして日本から、また半島の覇権から、数えきれない戦乱の歴史があり、その都度多くの文化財が失われ、一千年以上たった現在まで、慶州などに磨崖仏などの石仏たちが数多く残ることすら不思議な気がする。

 慶州駅から車で十分足らずも走れば、もう農村の混じった地方的なローカルな風景に変わる。

 慶州国立博物館に展示される金銅薬師如来立像(統一新羅時代 八世紀後半)のあった栢栗寺の参道脇に、かって建物があったことを示す礎石が残り、その中央に一つだけ大きな独立した岩がある。
 岩の四方で五体投地を繰り返す人、一心不乱に経を唱える人、また供物を供える人など、地元の人の深い信仰を集めている岩であることが分かる。Z この岩の四面には、諸仏が彫刻され、掘佛寺跡四面石仏として名高い石仏である。
 四面石仏は、韓国では七仏庵や南山塔谷、あるいは礼山郡花田里などに見受けられるが、日本にはそうした例はない。
 こうした四面石仏は、金光明経の華厳世界を具象化したという思想のもとで造像されたと考えられ、岩そのものを毘盧舎那仏としてとらえ、その光明の中にある東方阿しゅく如来の妙喜国浄土、西方阿弥陀如来の極楽浄土そして南方の宝生如来の歓喜浄土、また北方の微妙声如来の蓮華荘厳国浄土の四方四仏浄土を現したという。日本では奈良東大寺の大仏がそうした例で、大仏の台座の蓮弁にそうした仏たちが毛彫りとされていることはよく知られている。

 掘佛寺の移された自然石(長幅約400cm、短幅約280cm、高350cm)に刻まれた四面石仏は三方が山に囲まれ、西に視界が広がっており、その西面には阿弥陀三尊と見られる三体の立像があって、中尊の阿弥陀如来(351cm)だけが岩に高肉彫りとされ、両脇侍像は岩から独立した丸彫りの像であるが、右脇侍の勢至菩薩像は頭部を欠いている。
 中尊は体躯に比べて頭部が大き目で、しかも別石に彫られ、うまく体躯に乗せているという状態である。左脇侍の観音と見られる像は、山型宝冠を頂いた頭部を大きく刻み、膝を僅かに屈折させ、上半身を後ろに反らし、胸に瓔珞をつけるなど大陸斉、隋の様式を伝える古様な像である。
 南面には摩耗の激しい三尊仏が見られる。東面は薬師如来坐像(206cm)が刻出され、北面には精緻な彫りを見せる菩薩立像(161cm)と、お顔を失ったこれも菩薩の二体の像が見られる。これらの像の制作は七世紀後半から八世紀初めとみられ、全てが同時代の制作ではないようである。南山東側の塔谷には、玉竜庵の奥にある仏岩(ほとけ)とよばれる大岩(高さ9m、周囲40m)があり、その四面にも興味の惹かれる彫刻がある。

 この岩の正面は北面で、高さ9m、幅5.7mの絶壁状となるが、ここには如来が菩薩や羅漢に説法を行っている情景、霊山浄土の世界が彫刻されており、中央には飛天が舞い、その下に如来が座り、左右に七重の西塔と九重の東塔が薄肉彫りにされ、獅子が向き合っている。
 西面の岩は岩面が狭く、禅定の如来一体と、蓮華や柳、竹などが刻まれ、東方の薬師如来の瑠璃光浄土という説もある。南の部分は高台となり土に埋もれるが、岩の露出面が高さ2.7m、幅約6mあり東半分に如来を中心に二菩薩を半肉彫りとし、西半分には浅く龕を造り坐像を彫っている。また龕の前の独立した岩には立像(210cm)を丸彫りとし、手前の岩には瞑想する僧形の像が半肉彫りとされている。
 幅約13mある東側はもっとも大きな面で、華やかな世界が現されるが、南北が傾斜となるために、高さ10mから4mの高低差があり三面に別れる。向かって右面が最も大きく、中央に、如来の三尊坐像を彫刻する。三尊の下には敷物に座り、香炉をささげ、三尊を供養する僧の姿が彫られるほか、天女の姿が刻出されている。次の面には菩提樹と沙羅双樹の下に瞑想する僧侶が見られる。左側の面にもまた、瞑想する僧侶の姿が半肉彫りとされている。これらの像は比較的素朴な像で、全て同時代の制作と見られないが、統一新羅時代末、10世紀に入ってからの像と見られる。
 南山七仏庵の磨崖仏は日本の滋賀県狛坂廃寺の磨崖仏を彷佛させる像である。

 南山里を過ぎ、車を降りてから歩き易い山道を約4kmも歩き、ようやく仏の前に立つことが出来る。途中で渓流の側を通る。初めて七仏庵を尋ねた帰り、五月八日だった。この日は韓国の花祭り、釈迦の誕生会が日本より一月遅れで行われる。

 川の近くにゴザを敷き、一二、三人の中年の男女が賑やかに飲食をしていた。通り抜けようとすると声がかかった。「何処から来たの、何処へいくの」、通訳が答えた。「日本から七仏庵の見学に来た」「随分速くから来たんだね、自分達もお参りして来た帰りだ。お寺にいったんだったら昔お釈迦様の子供だよ。皆兄弟だよ。一緒に食べていきなよ。」そんなやり取りの後、誘われるままに座に加わり、丼につがれたマッカリを回し飲みした。「日本人が俺たちの酒を飲んだ」といって声を立てて笑う。持っていた飴韓国を差し出すと、皆が笑いながら口に入れて何かを話す。韓国の人達が飴をしゃぶらず、かみ砕いてしまうことを初めて知った。また差し出された餅がカルカンということもこの時初めて知った。

 五月八日、この地方の仏教徒達は、親類の庭で、あるいは寺の境内などに親族が集まって会食をし、太鼓をたたき、踊りを踊って一日を楽しむ。その日のために、親族が毎月積立てをしているのだという。いまでもそんな風習が続いているのだろうか。20年も前の話しである。

 さらに進むとやがて道を塞ぐように大きな岩が現れる。七仏庵の磨崖仏だ。
 前面に四方四仏の岩があり、その奥の大岩に薬師如来坐像が浮彫りとされている。石材の時代鑑定は非常に難しく、この磨崖仏もまた覆いもなく、風雨にさらされているにもかかわらず、まるで近年の彫刻のように見える。
 しかし充実した体躯など、様式的に本像もまた石窟庵の石像とさほど隔たりのない、統一新羅時代七世紀後半の制作と見られる像である。

 南山の石造遺品の中でも拝里の三尊石仏は、慶州観光の日本人ツアー客もよく尋ねる場所である。松林のなかにあって以前は覆屋もなく、低い土塀の中に2mを超す三体の丸彫りの石仏立像が置かれ、祈る土地の人達も見掛けられた。現在は保存の立場から吹抜けの覆屋が造られている。 三体の像はもとは別々に近くの渓谷の中に転がっていた像という。中央の中尊如来像(約270cm)は、釈迦如来とも阿弥陀如来像ともいわれる。脇侍の菩薩像の尊名は不明であるが、左脇侍像(観音菩薩 約240cm)のみ彫法がやや硬直化し、様式的にも異なる制作年代であろう。三体共体躯は短躯であるが、肉付きが豊満で、首は短い。中尊や右脇侍の表情にはテライのない幼児のような微笑が浮かび印象的である。いずれも七世紀初め、古新羅時代の様式を伝える像といわれている。

 韓国仏教彫刻の中で、もっとも優れた像として称賛され、新羅の石仏の最高傑作とされる像が仏国寺の裏、吐含山中にある石窟庵(そっくらむ)の本尊釈迦如来像や九面観音像(普通は十一面観音とよばれる)などである。
 山間の比較的高低差のない、整えられた山道を五百mも歩く。林間の道は夏は涼しく歩きやすい。やがて正面に高く小さく見える建物が石窟庵である。
 名高い石窟庵は花崗岩の切石を積み上げた前方後円式の窟で、これを蓋石で覆い、その上に封土を掛けた石窟寺院である。現在は前室前に礼拝のための覆堂が設けられ、窟はガラスで仕切られている。長方形の前室(奥行480cm、幅860cm)は、床にせんを敷き詰め、左右壁面には釈迦を護持する天龍八部衆が各四体づつ板石に半肉の浮彫りとされている。
 前室と後室の主室を繋ぐ廊下に相当する羨道部には、正面の左右に金剛力士が浮彫りされ、側面壁に四天王像が刻出されている。

 主室前部には二本の八角形の柱が設けられ、これをアーチ型の虹梁が結んでいる。主室(直径7.2m)は円形で、天井をドーム型とし、中央には一石から刻出された本尊釈迦如来坐像(380cm 八角台座高さ180cm)が安置されているほか、壁面には約200cmの梵天・帝釈天、文殊・普賢菩薩、十大弟子像が本尊を囲んでいる。また円形壁面の上部には、五つの龕が設けられ、維摩居士や菩薩達が安置されている。さらに本尊の裏壁面には法隆寺檀像九面観音像と比較される、正面をむいた美しい九面観音立像が浮彫とされるが、この像は本尊に隠れて、窟の内部に入らないと拝観が出来ないのは残念である。

 本尊は衲衣を偏担右肩に纏い、右手を蝕地印とし、洗練された彫法はとても材質を石材とは感じさせない。また観音像の上部に蓮華文の頭光を造り、参詣者の視覚から本尊の真上に位置するように造られるなど、仏国寺の石橋などに見られるような、新羅時代の石工の優れた技巧や計算に驚かされる。ふっくらとしたお顔、充実した体躯など、いずれも中国盛唐の様式を踏え、新羅の石仏の頂点に立つ像と見られる。

 この人工の石窟は、おそらく石質が堅く、半島ではインドや中国のように石そのものを開鑿する石窟寺院の建設が難しいことから生まれたと考えられる。窟の制作は統一新羅時代、景徳王10年(751)こに仏国寺を建立した、新羅の宰相金大城が完成させたことが知られている。

 慶州の見るべき石仏は何件もあるが、現在慶州国立博物舘に展示され、土地の人から「赤ちゃん仏」の名で親しまれる丸彫り像で、南山.三花嶺出土の弥勒三尊像(中尊160cm、脇侍100cm前後)は典型的な新羅の石仏として知られている。中尊の倚像の姿は韓国唯一の例とされ、大きく造った頭部に短躯、微かに微笑を浮かべる姿は、拝里の三尊石仏中尊や右脇侍に通じる親しみがある。本像もまた七世紀中葉頃の制作と見られる。

 

 

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