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(28) 浜通りの磨崖仏達 |
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途中、双葉郡楢葉町の木戸川では、初めて鮭の遡上を見た。ここはもう北国だ。産卵のために岩を登り、石にぶつかり、鱗が禿げ落ちた白い鮭。子孫のために生死をかけた帰巣本能、網で引上げられた鮭に、豪快というよりは、人間の子育に共通する深い感動を受けた。 相馬郡に入ると最初の町が小高町。ここはもう古代の陸奥(むつ)ノ国行方(なめかた)郡である。相双地方には縄文や弥生の遺跡も多く、この地方は古墳時代から急速に開拓が進められ、大和朝廷は双葉郡と行方郡には染羽国造(そめはのくにのみやつこ)・浮田(うた)国造を置いた。また八世紀以前から行方軍団の存在が知られており、原町と鹿島町の間の金沢地区からは、七世紀後半から九世紀にかけての各時代の製鉄遺跡が発見されていて、早くからの開発が知られている。 小高町、小高郷は平安時代に入ると、行方隆行が支配していたといわれるが、詳細のことは不明である。しかし都の高僧徳一の会津での布教や、天台宗円仁の布教も知られ、特に天台宗はその教線を拡張した。また後期には陸奥の大豪族、平泉の藤原氏の影響下にあり、仏教が盛んに行われたと見られる。 国道六号線から常磐線をわたり、田畑の中を約二キロほど山間に入る。辺りは泉沢とよばれる地域で、大悲山ともよばれている。この地域は南北朝時代には相馬氏の分家である大悲氏が治めていた。 こうした歴史の中で、旧行方郡、現在の相馬郡には、真偽は別として、いずれも会津の高僧徳一自刻の像と伝えられる磨崖仏が見られる。鹿島町塩崎の岩屋堂には、多聞天・尊名不詳・薬師・聖観音・千手観音・十一面観音・阿弥陀・地蔵・毘沙門の九体の磨崖仏、小高町吉名三尊磨崖仏、そしてこの泉沢大悲山磨崖仏群がある。 大悲山地区の山裾には、古くから大悲山石仏群また泉沢薬師堂としてよばれてきた大きな三つの窟があり、薬師堂石仏・付阿弥陀堂石仏、観音堂石仏とよばれる大きな磨崖仏が、それぞれ龕の中に浮彫りとされている。 かってこの堂を管理する別当寺として、慈徳寺があったが、文和3年(1354)に寺が火災に遭って、由緒や沿革、宝物などすべてが失われ、磨崖仏の由来も失われた。
覆い堂に覆われる窟は、通常は管理者もいず、施錠されているから、拝観は町教育委員会に連絡の上、保存会に開扉をお願いしなくてはならない。現在、覆い堂の内部は奥行が約5mあり、1m程の高さで床が張られ、照明を備えるほか、像の湿気による剥落止めのために吸湿器を設備している。 正面の第三紀砂岩といわれる岸壁に、間口15.3m、奥行き5.2m、高さ5.45mの龕を造る。天井を水平に、後ろ壁を湾曲にした龕を穿ち、これに八体の諸仏を高肉彫りとしている。 |
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いずれの像も剥落が進み、面相がほとんど欠落し、また両手先も欠損している。従って諸尊の尊名の確定は難しいが、美術院国宝修理所作製の大悲山薬師堂磨崖仏復元想像図によると、中尊釈迦如来を中心に、二体の弥勒仏と薬師如来、阿弥陀如来(欠失)の坐像と、観音菩薩三体、地蔵菩薩像、飛天(二体)が彫られていたと想像されている。如来坐像は地付から1.37mの基壇が彫り出され、これに0.88mの蓮華の台座を刻み、二重円光背を負った像高2.81〜1.8mの、高肉彫とされた像である。 仏達の体躯や衣には彩色が残るほか、二重円光背の周縁部の線彫りや、身光部の連珠文、台座のおおぶりの蓮弁もはっきりと確認出来る。これらのうち、昭和41年の修理により、表面を覆っていた砂や埃を取り除いた結果、特に隠されていた彩色が浮かび上がったという。 いずれの像も肩幅があり、堂々とした豊かな肉付きの体躯、表情を知ることは出来ないが、大柄な顔立ちなど、拝観者を圧倒する迫力をもつ像で、平安の古様を伝える像ということがうなずける。 これらの群像の中で、とくに薬師如来は、人々の病を治すという信仰が集まり、「芽の出薬師」とよばれ、心願成就諸願満足、眼耳の霊験あらたかな像として知られてきた。 |
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薬師堂から200mも北東へ戻ってから、各戸の田舎道を辿ると後観音ともよばれる観音堂に出る。簡単な鉄格子で区切った鞘堂に覆われる。窟は間口約13m、奥行き約2.72m、高さ約12m。嘉承2年(1107)、鳥羽天皇の時に日本百観音の中、東国第二十七番札所に定められたとも伝えている。 |
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正面中央に像高約5.5mの十一面千手観音像が彫られていた。そのほとんどは剥落し、僅かに頭部の上の一部と、脇手の上方部の左右七臂、計一四臂のほか、その左右には、僅かに朱などの彩色が残された賢劫千仏(けんごうせんぶつ)と見られる小像が、薄肉彫りとされる。頭上で脇手を組み合わせ、化仏を頂くことから、本像がいわゆる清水寺様式とよばれる千手観音の坐像であることを知ることができる。この観音像は、関東、陸中、陸前を中心に講があったことが知られており、辺りが観音信仰の中心であったことが分かる。
泉沢と山を隔てた吉名にも、平安時代後期の制作と見られる三尊磨崖仏とよばれる風化した像がある。ここには石窟が連なり、岩窟寺院を思わせる、修行僧の行場であったとも考えられ、窟内の一つに残る三尊磨崖仏が、大悲山と同時代の制作と見られることから、修行僧が岩窟寺院建立に燃え、薬師堂と共に開窟したと考えたい。 |
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