川尻祐治

(28) 浜通りの磨崖仏達


 今年の秋は福島県の浜通りを、十日の間に二度も訪ねることになった。国道六号線と常磐線は平行するように、南部のいわき市勿来(なこそ)から北上し、双葉郡、相馬郡そして仙台へと抜ける。この道は古代の関東と陸奥を結んだ重要道だった。

木戸川の鮭漁

 途中、双葉郡楢葉町の木戸川では、初めて鮭の遡上を見た。ここはもう北国だ。産卵のために岩を登り、石にぶつかり、鱗が禿げ落ちた白い鮭。子孫のために生死をかけた帰巣本能、網で引上げられた鮭に、豪快というよりは、人間の子育に共通する深い感動を受けた。

 相馬郡に入ると最初の町が小高町。ここはもう古代の陸奥(むつ)ノ国行方(なめかた)郡である。相双地方には縄文や弥生の遺跡も多く、この地方は古墳時代から急速に開拓が進められ、大和朝廷は双葉郡と行方郡には染羽国造(そめはのくにのみやつこ)・浮田(うた)国造を置いた。また八世紀以前から行方軍団の存在が知られており、原町と鹿島町の間の金沢地区からは、七世紀後半から九世紀にかけての各時代の製鉄遺跡が発見されていて、早くからの開発が知られている。
 近い海、丘陵状の低い山、その間に開けた平野など、そうした風土が人々の生活を豊かにしたのであろう。

 小高町、小高郷は平安時代に入ると、行方隆行が支配していたといわれるが、詳細のことは不明である。しかし都の高僧徳一の会津での布教や、天台宗円仁の布教も知られ、特に天台宗はその教線を拡張した。また後期には陸奥の大豪族、平泉の藤原氏の影響下にあり、仏教が盛んに行われたと見られる。
 鎌倉時代に入り、平泉の藤原氏が滅びると、下総(しもふさ)の豪族千葉常胤(つねたね)の二男師常(もろつね)が、奥州合戦の恩賞として行方郡の地頭職を与えられる。やがて師常から六代後の重胤が、元亨三年(1323)になって、下総から一族の岡田氏や大悲氏と共に行方に移り住み、奥州相馬氏の祖となった。重胤は最初原町市太田の太田別所館にはいり、まもなく小高に居を構え、以後三世紀に亘(わた)って相馬氏として発展していった。
 さらに南北朝の時代の一四世紀の頃になって、南朝方の北畠(きたぱたけ)顕家(あきいえ)と北朝方の斯波(しば)家長の抗争が起きると、相馬氏の多くは北朝方につき、辺りは奥州における北朝方の一大拠点となった。しかし今は何ごともなかったように、静かな農村風景を見せている。

 国道六号線から常磐線をわたり、田畑の中を約二キロほど山間に入る。辺りは泉沢とよばれる地域で、大悲山ともよばれている。この地域は南北朝時代には相馬氏の分家である大悲氏が治めていた。

 こうした歴史の中で、旧行方郡、現在の相馬郡には、真偽は別として、いずれも会津の高僧徳一自刻の像と伝えられる磨崖仏が見られる。鹿島町塩崎の岩屋堂には、多聞天・尊名不詳・薬師・聖観音・千手観音・十一面観音・阿弥陀・地蔵・毘沙門の九体の磨崖仏、小高町吉名三尊磨崖仏、そしてこの泉沢大悲山磨崖仏群がある。
 これらの像は、わが国の石仏史の中で、平安初期以前の、花崗岩などの堅い石を材料に、帰化人系の人々の手によると見られる第一期の像に対して、第二期の像は、平安時代も後半の、比較的柔らかい石、凝灰岩などを材料として、木彫作家が彫刻したと考えられる像、臼杵の磨崖仏などに共通する磨崖仏の石仏遺品であり、第二期の磨崖仏の最北限と考えられる。尚第三期に区別されるのは鎌倉時代の像で、東大寺大仏復興に伴う宋からの技術者の影響が現れる。
 この泉沢の大悲山磨崖仏群は、この地方の磨崖仏の中でも、像の数も多く、もっともよく形を止め、宇都宮大谷の磨崖仏に匹敵する像で、国史跡に指定されるなど、注目される像である。

 大悲山地区の山裾には、古くから大悲山石仏群また泉沢薬師堂としてよばれてきた大きな三つの窟があり、薬師堂石仏・付阿弥陀堂石仏、観音堂石仏とよばれる大きな磨崖仏が、それぞれ龕の中に浮彫りとされている。
 これらの堂は、奈良時代聖武天皇の天平13年(741)この国分寺建立の詔によって造られ、像は徳一大師の一刀三拝の作で、大同2年(807)に彫られたと伝えている。
 三カ所の磨崖仏のうち阿弥陀堂石仏は現在剥落が進んで、当初の面影を見ることはできないが、薬師堂には八体の磨崖仏と、観音堂には一体の磨崖仏を見ることができる。

 かってこの堂を管理する別当寺として、慈徳寺があったが、文和3年(1354)に寺が火災に遭って、由緒や沿革、宝物などすべてが失われ、磨崖仏の由来も失われた。

泉沢薬師堂入口
 前薬師(前岩屋)ともよばれる最大の薬師堂の磨崖仏群は、数段の石段を上る。左に幹回り目通り8.4m、高さ約45mという「大悲山の大杉」(県指定天然記念物)が茂り、歴史の古さを物語っている。樹木で薄暗い堂前の境内には、九輪草(くりんそう)が一面に生え、五月末から六月頃にはピンクの美しい花を見せてくれる。窟を覆う大きな覆い堂は、貞和元年(1345)に再建され、}これ以後、時の権力者を初め、土地の篤志家などから保護され再建を繰り返したが、貞享元年(1684)に窟の前端部分の崩壊によって覆い堂を失い、この後、磨崖仏は明治時代まで風雨に晒されていたという。
 覆い堂に覆われる窟は、通常は管理者もいず、施錠されているから、拝観は町教育委員会に連絡の上、保存会に開扉をお願いしなくてはならない。現在、覆い堂の内部は奥行が約5mあり、1m程の高さで床が張られ、照明を備えるほか、像の湿気による剥落止めのために吸湿器を設備している。
 正面の第三紀砂岩といわれる岸壁に、間口15.3m、奥行き5.2m、高さ5.45mの龕を造る。天井を水平に、後ろ壁を湾曲にした龕を穿ち、これに八体の諸仏を高肉彫りとしている。

大悲山薬師堂磨崖仏復元想像図(美術院国宝修理所製作)
 岩壁には剥落が多く、最初は像の大きな姿だけが目にはいるが、慣れるに従って詳細が浮かび上がってくる。もとは五体あったという如来坐像のうち、現在は一体を欠落し四体のみが確認される。他に四体の菩薩立像、そして中尊如来像の左右には各一体の飛天が確認されている。

 いずれの像も剥落が進み、面相がほとんど欠落し、また両手先も欠損している。従って諸尊の尊名の確定は難しいが、美術院国宝修理所作製の大悲山薬師堂磨崖仏復元想像図によると、中尊釈迦如来を中心に、二体の弥勒仏と薬師如来、阿弥陀如来(欠失)の坐像と、観音菩薩三体、地蔵菩薩像、飛天(二体)が彫られていたと想像されている。如来坐像は地付から1.37mの基壇が彫り出され、これに0.88mの蓮華の台座を刻み、二重円光背を負った像高2.81〜1.8mの、高肉彫とされた像である。

 仏達の体躯や衣には彩色が残るほか、二重円光背の周縁部の線彫りや、身光部の連珠文、台座のおおぶりの蓮弁もはっきりと確認出来る。これらのうち、昭和41年の修理により、表面を覆っていた砂や埃を取り除いた結果、特に隠されていた彩色が浮かび上がったという。

 いずれの像も肩幅があり、堂々とした豊かな肉付きの体躯、表情を知ることは出来ないが、大柄な顔立ちなど、拝観者を圧倒する迫力をもつ像で、平安の古様を伝える像ということがうなずける。

 これらの群像の中で、とくに薬師如来は、人々の病を治すという信仰が集まり、「芽の出薬師」とよばれ、心願成就諸願満足、眼耳の霊験あらたかな像として知られてきた。

  
薬師堂 磨崖仏 


 薬師堂から山に沿って北東へ100mも歩けば阿弥陀堂がある。3mを超す中尊の阿弥陀如来と、脇侍の二菩薩像が刻出されていたと伝えられる。現在は岸壁の中央に刻出されていたという約1.8mばかりの阿弥陀如来像の跡が、凸状に残されているが、剥落がひどくかっての状況は不明である。
 これらの像は、徳一の制作という伝承があるが、密教の儀軌とも異なり、誰が何のために制作したものかは全く分からない。

観音堂の谷戸
 一旦、薬師堂の下まで戻る。直ぐ前の駐車場の辺りは、大悲山大蛇物語公園として整備されている。南北朝時代の頃から、この辺りに伝えられた盲人玉都と大蛇の伝説に因んだ公園と案内板にある。

 薬師堂から200mも北東へ戻ってから、各戸の田舎道を辿ると後観音ともよばれる観音堂に出る。簡単な鉄格子で区切った鞘堂に覆われる。窟は間口約13m、奥行き約2.72m、高さ約12m。嘉承2年(1107)、鳥羽天皇の時に日本百観音の中、東国第二十七番札所に定められたとも伝えている。

観音堂
 大悲山の地名は、この大悲大慈の観音から生れ、相馬氏の一族大悲氏の姓もこれに由来している。
 正面中央に像高約5.5mの十一面千手観音像が彫られていた。そのほとんどは剥落し、僅かに頭部の上の一部と、脇手の上方部の左右七臂、計一四臂のほか、その左右には、僅かに朱などの彩色が残された賢劫千仏(けんごうせんぶつ)と見られる小像が、薄肉彫りとされる。頭上で脇手を組み合わせ、化仏を頂くことから、本像がいわゆる清水寺様式とよばれる千手観音の坐像であることを知ることができる。この観音像は、関東、陸中、陸前を中心に講があったことが知られており、辺りが観音信仰の中心であったことが分かる。

大悲山観音堂石仏復元図(美術院国宝修理所作製)        観音堂千手観音像         

 泉沢と山を隔てた吉名にも、平安時代後期の制作と見られる三尊磨崖仏とよばれる風化した像がある。ここには石窟が連なり、岩窟寺院を思わせる、修行僧の行場であったとも考えられ、窟内の一つに残る三尊磨崖仏が、大悲山と同時代の制作と見られることから、修行僧が岩窟寺院建立に燃え、薬師堂と共に開窟したと考えたい。

 

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