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(26) 奥只見の仏 |
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しかし会津の仏教文化は、源平の争いにより、慧日寺を中心とした僧兵達が、平氏方に味方したことから多くの寺を失い、さらに下って伊達政宗の侵略などによって戦乱に巻き込まれ、数々の寺や文化財を失った。 そうした徳一創建伝説の寺の中に、只見町梁取(やなとり)の成法寺(じょうほうじ)がある。今この寺には、徳一の時代よりずっと下ってはいるが、鎌倉時代末期の美しい観音像がただお一人で安置されている。 険しい山越えに備え、新潟県小出町で名物「へぎそば」で昼食をとった後、只見をめざした。「へぎそば」は、隣町の小千谷市が名高い。「へぎ」とよばれる器に、そばが盛り付けられることからその名が起こったようだが、蕎麦のつなぎに海草を使っているのが特徴という。詳しいことは分からないが、この辺りの通という人達は、天麩羅に替えて、きんぴら牛蒡(ごぼう)を添えて蕎麦を食べると聞いた。 |
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昔は六十里越と呼ばれたこの難所は、今も冬季には豪雪のために閉鎖される険路だ。 江戸時代の越後志には「人跡越えたる大行路難の地故、一里の行程を十里に比べ、当六里の道を六十里と称す」とある。 人家もない、山また山、対向車も、追越しの車もない山の中の三桁(さんけた)国道は、めったに電車も見かけない只見線と平走している。渓谷を走る只見線は一度乗ってみたい電車である。 峠(標高863m)を越えると高い山々に囲まれた人造湖、田子湖の眺望が素晴らしい。国道から水面までは250mもあるという。 |
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ダムは電源開発を主目的としたダムで、約九年かけ、昭和36年11月に完成した。銀山平や檜枝岐(ひのえまた)の水を集め、只見川を堰止めたことによって出来たのが田子倉湖で、入り組んだ湖面は約10km2におよび、かっては日本一の規模を誇った。 ダムを過ぎるとようやく平地となり、只見町の中心部に入る。尾瀬方面から流れ出した支流の伊南(いな)川が合流し、川はますます水量を増して大河となる。 |
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徳一や空海創建の伝説をもつこの寺は、応長年間(1311〜12)に、領主長沼宗景が僧山秀に復興させたといわれ、これは本尊観音菩薩の墨書と一致している。さらに下って、若松の天寧寺の七世仁庵仁恕が中興した時に、曹洞宗に改められた。 境内中央の観音堂(国指定重要文化財)は、茅葺(かやぶ)き寄棟造(よせむねづくり)、正面三間(みま)側面三間、廻り縁(ふち)を巡らしたほぼ正方形の建物である。建物外部は、柱上部の粽(ちまき)部分や正面中央の間に両開きの唐棧戸(からさんと)をつける点などから唐様(からよう)といわれるが、軒が二軒(ふたのき-二重)の繁垂木(しげたるき)、柱の上下に長押(なげし)を回すこと、壁板を横に重ね、横羽目としている点などは、和様の特徴を表していて、和・唐両様の様式をもつ建物といわれている。 また堂内の床は総拭板張(そうふきいたばり)で、正面の長方形一間を内陣とし、その周囲の一間通りを外陣(げじん)としている。天井部は竿縁入鏡(さおぶちいりかがみ)天井、来迎壁と正面柱に大虹梁(こうりょう)を渡し、大瓶束(たいへいつか)を立てて内陣天井の重さを支えるなど、純唐様の建築様式といわれる。 |
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来迎壁の前には須弥壇(しゅみだん)が置かれ、応長元年(1311)の記年銘をもつ木造聖観音坐像が安置されている。 構造は頭体部を一材で刻出してから、両耳の後ろを通る線で前後に割矧とし、さらに頭部を首の三道下で割矧いでいる。 奥州伊北郷 大檀那藤原三河権守宗景は、当時南会津地方を治めた長沼氏の一族で、下野皆川庄を本拠地とした皆川宗景と考えられている。唐様の須弥壇もまた、像と同じ頃の制作と見られる。高欄(こうらん)は後補。 |
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しかし雪の多い只見川周辺でも、特にこの地域は3〜4mは積雪があるという豪雪地帯で、11月から翌年4月頃までは、雪で道路も鉄道も行く手が阻まれてしまう。かっては「只見川はただ見て通れ」といわれ、洪水による災害だけをもたらした只見川も、現代は電力開発の水資源として見直され、国道に沿ってダムが連続している。 |
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