川尻祐治

(26) 奥只見の仏


 会津といえば戊申(ぼしん)戦争の激しい戦が知られ、その中心となった会津若松や、白虎隊の墓、そして観光地としての裏磐梯が思い起こされる。
 しかし平安の昔、奈良から会津に下った法相宗の第一人者、高僧徳一とその徳を慕った人々により、都から遠く離れた、僻地というベきこの地方に、仏教文化の花が咲いたことは余り知られていない。このことは、会津若松から一歩離れ、会津盆地の真ん中、中央薬師ともよばれる湯川村勝常寺の、あの素晴らしい平安初期の仏像群を前にしたとき、誰しも納得するに違いない。
 また一方では、盆地のはずれ、喜多方市熊野神社の長床拝殿を見たとき、神秘的に、そして豪快に建ち並ぶ四十四本の円柱が、この地方に独特の文化が育っていたことを物語ってくれる。

 しかし会津の仏教文化は、源平の争いにより、慧日寺を中心とした僧兵達が、平氏方に味方したことから多くの寺を失い、さらに下って伊達政宗の侵略などによって戦乱に巻き込まれ、数々の寺や文化財を失った。
 藤原仲麻呂(恵美押勝-えみのおしかつ)の子ともいわれる名僧徳一は、生役不詳とされるが、天平宝字四年(760)から承和七年(840)頃の人と考えられ、二十歳の頃に会津に下ったと伝えられている。空海はその下に弟子を遣わし、真言の布教を依頼したという。また徳一は最澄の天台教学・一乗思想を激しく批判したことが知られている。
 その徳一が開いたという伝説をもつ寺は、会津・常陸などに70カ寺以上もあるが、その中心が大寺(おおでら)ともよばれる慧日寺で、最盛時には堂塔子院三千八百を超え、会津四郡のほとんどが寺領であったと伝えられている。

 そうした徳一創建伝説の寺の中に、只見町梁取(やなとり)の成法寺(じょうほうじ)がある。今この寺には、徳一の時代よりずっと下ってはいるが、鎌倉時代末期の美しい観音像がただお一人で安置されている。
 只見地方は会津といっても、若松から遠く離れ、今でも人の訪れの少ない地方である。現在首都圏から只見に向かうには、新潟県の魚沼地方から、越後三山只見国定公園の山々を縫って出るのが近い。

 険しい山越えに備え、新潟県小出町で名物「へぎそば」で昼食をとった後、只見をめざした。「へぎそば」は、隣町の小千谷市が名高い。「へぎ」とよばれる器に、そばが盛り付けられることからその名が起こったようだが、蕎麦のつなぎに海草を使っているのが特徴という。詳しいことは分からないが、この辺りの通という人達は、天麩羅に替えて、きんぴら牛蒡(ごぼう)を添えて蕎麦を食べると聞いた。

六十里越から見る田子倉湖
 蕎麦屋の前から二五二号線を走り、守門村・入広瀬村を過ぎ、ヘアピンカーブを繰り返しながら県境の六十里越に向かう。
 昔は六十里越と呼ばれたこの難所は、今も冬季には豪雪のために閉鎖される険路だ。
 江戸時代の越後志には「人跡越えたる大行路難の地故、一里の行程を十里に比べ、当六里の道を六十里と称す」とある。
 人家もない、山また山、対向車も、追越しの車もない山の中の三桁(さんけた)国道は、めったに電車も見かけない只見線と平走している。渓谷を走る只見線は一度乗ってみたい電車である。
 峠(標高863m)を越えると高い山々に囲まれた人造湖、田子湖の眺望が素晴らしい。国道から水面までは250mもあるという。

「山の神」の社
 左手の山は浅草岳(標高一五八六m)に続く。右手には次第に広がりを見せる湖面が近づく。曲りくねった国道は、やがて遊覧船の発着所に到着する。小出町から60km、約1時間30分かけて田子倉ダムに到着した。ここはもう福島県只見町である。  

 ダムは電源開発を主目的としたダムで、約九年かけ、昭和36年11月に完成した。銀山平や檜枝岐(ひのえまた)の水を集め、只見川を堰止めたことによって出来たのが田子倉湖で、入り組んだ湖面は約10km2におよび、かっては日本一の規模を誇った。
 ダムの建設に伴い、湖底には狩猟を生業(なりわい)としていた、「またぎ」集落、50戸の田子倉集落が沈んでいる。湖畔の脇に「またぎ」達の守り神である「山の神」が移されている。

 ダムを過ぎるとようやく平地となり、只見町の中心部に入る。尾瀬方面から流れ出した支流の伊南(いな)川が合流し、川はますます水量を増して大河となる。
 その伊前川を梁取(やなどり)まで、川沿いに走る国道二八九号線を、約30分、20kmほど遡る。両側の山間の幅は約1km程、途中国道に沿って集落が点在している。

成法寺 観音堂
 川の右岸、山裾の無住の寺が曹洞宗仏地山成法寺である。背後には空海の九十九谷伝説を秘めた、籠岩とよばれる奇怪な奇岩の山が、屏風のように連なり、山上には虚空蔵堂があるという。
 徳一や空海創建の伝説をもつこの寺は、応長年間(1311〜12)に、領主長沼宗景が僧山秀に復興させたといわれ、これは本尊観音菩薩の墨書と一致している。さらに下って、若松の天寧寺の七世仁庵仁恕が中興した時に、曹洞宗に改められた。
 境内中央の観音堂(国指定重要文化財)は、茅葺(かやぶ)き寄棟造(よせむねづくり)、正面三間(みま)側面三間、廻り縁(ふち)を巡らしたほぼ正方形の建物である。建物外部は、柱上部の粽(ちまき)部分や正面中央の間に両開きの唐棧戸(からさんと)をつける点などから唐様(からよう)といわれるが、軒が二軒(ふたのき-二重)の繁垂木(しげたるき)、柱の上下に長押(なげし)を回すこと、壁板を横に重ね、横羽目としている点などは、和様の特徴を表していて、和・唐両様の様式をもつ建物といわれている。
 また堂内の床は総拭板張(そうふきいたばり)で、正面の長方形一間を内陣とし、その周囲の一間通りを外陣(げじん)としている。天井部は竿縁入鏡(さおぶちいりかがみ)天井、来迎壁と正面柱に大虹梁(こうりょう)を渡し、大瓶束(たいへいつか)を立てて内陣天井の重さを支えるなど、純唐様の建築様式といわれる。

 来迎壁の前には須弥壇(しゅみだん)が置かれ、応長元年(1311)の記年銘をもつ木造聖観音坐像が安置されている。
 木造型観音坐像(県指定文化財 割矧造(わりはぎづくり) 彫眼 彩色 像高 76.1cm
 肉取りは厚く、彫法は深く正確で、全体に調和のとれた中央風の洗練された像である。
 像容は宝髻を単髻に高く結い上げ、天冠台を彫り出しとする。切れ長の吊り上がった目は鋭く、稟とした気品がある。耳に髪がかかるのも珍しい。矧付けとした腕は、左手に未開敷(みかいふ)の蓮華を執り、右手でその蕾の花弁をつまみ、結跏趺坐する。
 この像には当初の彩色がよく残り、肉身部には白土の下地に金泥を塗り、人肌観音の異称がある。
 条帛(じようはく)には麻葉つなぎ文、天衣には蓮華唐草文(からくさもん)など、また裳には卍つなぎ文を切金(きりがね)で描くなど、華麗な菩薩像である。

 構造は頭体部を一材で刻出してから、両耳の後ろを通る線で前後に割矧とし、さらに頭部を首の三道下で割矧いでいる。
 複雑な線を描く衣文の表現などからも、時代の特色である、宋様の影響が色濃く現れていることが分かる。
 この像は像内左膝裏に墨書があり、製作年代を知ることが出来て貴重である。

奥州伊北郷
梁取村成法寺
応長元年太歳辛卯七月廿八日
            日
大檀那藤原三河権守宗
          景
住持遍照金剛仏子良信
採色小輔公永賢
   円秀

 大檀那藤原三河権守宗景は、当時南会津地方を治めた長沼氏の一族で、下野皆川庄を本拠地とした皆川宗景と考えられている。唐様の須弥壇もまた、像と同じ頃の制作と見られる。高欄(こうらん)は後補。

 
成法寺境内                   成法寺裏山


 拝観を終えて本堂を出る。土地の人は裏手の奇怪な岩山に、仏の姿が現れることがあるという。人々は古くからこの山に霊地を感じ、寺を創建して仏を祀ったのではなかろうか。
 二八九号線を再び只見の町までもどり、二五二号線を只見川に沿って下る。途中の河井継之助記念館は、八十里越えをして若松を目指した、越後長岡藩の家老、河井継之助が息を引き取った家である。
 金山町に入る。中川地区の中川堂には、鎌倉時代の造像とみられる聖観音坐像(県指定重要文化財)が伝えられている。
 国道は左右の川岸段丘の間に御津・坂下へと続いている。脇道にそれた山間には、ひなびた湯治宿のような温泉が多く、旅の気分を満喫させてくれる。春には鮎の稚魚が放流されるのも、この辺りの谷川である。

 しかし雪の多い只見川周辺でも、特にこの地域は3〜4mは積雪があるという豪雪地帯で、11月から翌年4月頃までは、雪で道路も鉄道も行く手が阻まれてしまう。かっては「只見川はただ見て通れ」といわれ、洪水による災害だけをもたらした只見川も、現代は電力開発の水資源として見直され、国道に沿ってダムが連続している。

 

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