川尻祐治

(25) 愛媛県庄の仏


 仏像に詳しい人なら、誰でも愛媛県北条市庄地区の、あの古様の像を一度は拝観したいと思うであろう。私自身がそうした気持ちだった。そんなことから数年前に庄地区を尋ねた。

 県の中部、高縄(たかなわ)半島北西部の北条市は、西は斎灘(いつきなだ)に面し、漁業が営まれるが、東部は標高986mの高縄山を主峰とする恵良(えりょう)山、腰折(こしおれ)山、雄甲(おんご)山、雌甲(めんご)山など、2〜300mの山が囲み、平地では田畑が耕作され、山裾の傾斜地には蜜柑などの果樹栽培が営まれている。
 市域は、県都松山市に近いこともあって、都会のベッドタウンとしての都市化が進んでいる。この地方は伊予国風早(かざはや)郡に属し、早くから人々が住み着き、縄文時代から弥生時代までの貝塚が残される。また国造本紀(くにのみやつこ)によれば、応神天皇の頃には、物部連(もののべのむらじ)の神、伊香色雄四世の孫という阿佐利が、風早国造に任命されたことが見え、市内八反地の式内社国津比古今神社は、その阿佐利が創建したと伝えられている。こうしたことから、古代には物部系の氏族が広く定住していたと考えられている。奈良時代に入ると、法隆寺の荘園が二ヶ所、また東大寺の寺用に供するための封戸が置かれていたことが知られており、この頃から既に中央の影響を受けた土地であったことがわかる。

 中世に下ってこの地方の歴史を知るには、河野(こうの)氏の活躍を知らなければならない。
 河野氏は越智(おち)郡地方(現今治市)の古代豪族、越智氏より生れ武士化した。
 源平の争乱の時には、河野通清が反平氏となって高縄山城に籠って討ち死にするが、その子通信は水軍を率い、屋島の合戦などで戦功を挙げ、鎌倉のご家人となってこの地方に勢力を広げた。しかし承久ノ乱(1221)では、朝廷方に属したことから、敗れて所領が没収されたが、一族の中で通信の子、通久が一人幕府に味方したことから、久米郡石井郷の地頭として河野氏を伝えた。時宗を開いた一遍智真は通信の孫に当たる。
 この河野氏が再び歴史の表舞台に登場するのは、弘安の役である。弘安四年(1281)二度目の蒙古来襲の時、通久の二代後、通有の奮戦が高く賞賛され、これにより通有は旧領を回復したばかりでなく、肥前、肥後の国も所領として与えられた。
 さらに通有の第七子通盛は、本拠地を道後の湯築山城に移し、足利尊氏に味方し、観応二年(1351)この頃には、伊予国の守護職に任命された。
 しかし戦国時代の頃には河野氏の結束も衰え、通直は秀吉の四国征伐に反抗して、小早川隆景に攻められて降伏し、所領を没収された。
 この後、河野氏に代って来島氏が入国し、さらに加藤嘉明、蒲生と続き、やがて大洲領を経て、寛永十二年(1635)に松山藩の提案から大洲藩との替え地となり、当地は松山藩領となって明治を迎えた。

 市内の庄地区は、JR予讃線伊予北条駅の東、車で七分ほど走った純農村地帯である。
 辺りにはのどかな田園風景が広がり、人影もまばらである。かってこの辺りには庄府寺とよばれる寺があったといわれ、庄の集落は今でも庄府屋ともよばれているという。その集落から少し離れた所に薬師堂があり、かって薬師堂に安置されていた、仏達を保存するコンクリート製の収蔵庫が建つ。

庄の薬師堂 収蔵庫
 収蔵庫が開扉されると、彩色を失った二体の素地の菩薩立像が目に飛び込む。お目にかかりたかったあこがれの仏である。

 一体が像高204.0cmの木心乾漆造。材料はハルニレの木といわれる。頭部から足元の台座の蓮肉部まで、一本の木を使用し、背後に背刳りを施している。長身で頭部は小さく、肉取りには抑揚がない。両手もまた肘から先を失うなど損傷が激しい。また乾漆の多くが剥落して素地が現れているが、乾漆は顔から首にかけては厚く使われ、他の部分は薄い。これも乾漆で仕上げたと見られる胸飾などは失われている。
 よくみるとお顔は童顔で、親しみのもてる表情である。目鼻を始め、耳などは乾漆で仕上げられる。肩には張りがあるが、腰部で折り返した、裳端の柔らかな渦、大腿から足元にかけてU字を重ねた衣文、両足間に波を造る衣文などの線も柔らかい。裳裾を左右対称に仕上げるなど古様である。乾漆像でも木彫に近い木心乾漆の像で、奈良時代末の頃の制作と見られる。

 隣の菩薩像は、像高215.0cmのサクラ材をもちいた一木彫の像で、一部に漆下地が見られる。体躯は左足を屈し、全体を左に傾けている。木像もまた左手先や、両足の脛のあたりから先を失うなど損傷が激しいが、頭部には高い単髻を残すほか、共木から刻出された胸飾や腕釧(わんせん)、臂釧(ひせん)なども見られる。
 この像は、隣の菩薩像に比べ、上半身の肉取りは厚く、胴部には三段のクビレを入れ、全体に動きも見られる。腰部の折り返した裳の端の線は柔らかく複雑であるが、両足間の衣文はタテに垂直に刻出され、腿上の波形の衣文とともに形式的である。
 この像で特に日立つのが目と唇に浮かぶ微笑で、前の像に比べ、より一層明確で、印象的である。木像もまた奈良時代末期ないしは平安時代初期の像と見られる。彫刻技術は洗練されてはいないが、この地方で制作されたと見られ、古い時代のおおらかさを伝える像である。

 二体の像は、県内ではもっとも古い像とされ、四国の中でも古い彫刻である。ほかにここには、平安時代後半の制作と見られる40体程の像が安置されており、帝釈天・吉祥天の他、十二神将像などがいらっしゃるということであったが、防虫駆除のために余所に移されていた。
 これらの像は、かってこの辺りにあったという庁府寺を初め、周囲の廃寺となった等々から集められた像と見られるが、現在その来歴は全く不明である。

 薬師堂の本尊薬師如未坐像は、像高250cmの丈六像で、県下でもっとも大きな像と言われ、市の文化財に指定されている。頭部の形は若干ギコチなさが見られ、通肩に纏った法衣の胸元を狭くするなど、制作年代は下がり、室町時代も後半の制作と見られている。
 お堂は昔兵火にあったほか、享保7年(1722)と明治19年(1886)に大洪水の被害にあっており、収蔵庫の諸仏もまた、こうした被害を受けて朽損が進んだのであろう。

  

薬師堂 菩薩立像
像高204.0cm 
古い時代の像というばかりでなく、地方には、乾漆像の遺品が少なく貴重である。四国地方の乾漆像としては、他に香川県願興寺の聖観音坐像(脱乾漆造)があるが、願興寺像のより洗練された作風に対して、本像は木心乾漆造という他、地方的な像である。

                              

薬師堂 菩薩立像
像高215.0cm サクラ材
木心乾漆の菩薩像に対して、時代が下ってからの制作と見られる。
より古い時代の像を手本にして、八世紀後半に制作された像と考えられている。

毘沙門堂
 諸仏の拝観を終え、毘沙門天のあるという集落の中に入る。奥の山裾に一段高く、毘沙門天を安置する小堂がある。ご開扉された像は、地天女(ちてんめ)の手の掌(ひら)に立つ兜跋(とばつ)毘沙門天像の木造であった。宝冠から地天女までを一木で彫成した(像高182cm)像で、両腕から先を失い、朽損が進んでいる。
 筒型の宝冠には、兜跋毘沙門天の象徴である、羽を広げた金翅鳥が薄肉彫りとされる他、鎧、腹帯、獅子喰、脛甲などが確認できる。見開いた眼には迫力があり、体躯も太く力のある像で、平安時代も中頃の造像とみられ、古くから地域の信仰を集めている像である。この像もまた、庄府寺の像であったのかも知れない。

 兜跋毘沙門天像の信仰は、かっては東北方面に多く見られるといわれていたが、九州にも、また中国にも、そして四国にも、その遺品が全国的にみられることから、東西を問わず各地にその信仰があったと考えられる、そうした中で、木像は西国地方の古い像として注目される。

 かってこの地方が、伊予の中心部であったと考えられるが、歴史の中に埋もれてしまった仏達である。

    

毘沙門堂 兜跋毘沙門天立像

 

 『目の眼』4月号掲載、岡山県北房町中津井の仏源寺「阿弥陀如来立像」が、連載記事をきっかけに、町指定有形文化財に登録されました。

 

「謎を秘めた仏たち」は、古美術月刊誌「目の眼」((株)里文出版発行)に好評連載中です。

 


inserted by FC2 system