川尻祐治

(24) 岡山県仏源寺の阿弥陀如来

 鎌倉の知人から、岡山の実家の仏像を見てもらえないかという話があった。実家は寺で弟さんが継いでおり、ご本尊が痛んでいるために、広島の仏壇屋に修理を頼もうと見てもらったが、自分の方では手に負えるお像ではないといって断られたという話である。機会があったら拝見しようと約束するうちに、写真が送られてきた。見る限りでは鎌倉時代、快慶風の優れた像で関心がわいた。

 いつごろの仏像か見て貰えないかといって、仏像が持ち込まれたり、写真を見せられたりすることがよくあるが、そのほとんどは所有者の思い入れが強い像で、近世以降の作であったり、模刻の像であることが多い。そうした中でこの像は間違いのない像のようである。話があって二年程経った昨年の夏、仲間と岡山の仏像巡礼の旅に出かける機会を得て、ようやくその寺を訪ねることが出来た。

明王寺 正観音立像
 旅は岡山市を振出に、備前・牛窓(うしまど)・英田(あいだ)・津山・落合・北房(ほくぼう)町、そして有漢(うかん)・井原(いぱら)・倉敷・総社・吉備と、県下全域を回る三泊四日の旅だった。

 今でこそ岡山県は、白桃とマスカットなど、果物王国のイメージが強いが、古代に遡れば、大和に対抗する有力豪族、吉備氏が支配していた地方であり、吉備地方を中心とする大規模古墳群や、鬼ノ城(きのじょう)などの古代遺跡を始め、吉備津彦神社の存在など、ここを除いては古代史を考えられない、といっていいほどの地方である。
 一方では刀剣や備前焼きが名高く、これに対して仏教美術としての仏像遺品は数も少なく、忘れられがちである。しかし今回の旅行では、邑久(おく)町の余慶寺像こそ拝見できなかったが、岡山の明王寺の優しく美しい聖観音像、牛窓東寿院の快慶作阿弥陀像、津山高野神社の門神である二体の特異な随神像など、質的にも優れた像を沢山拝観することができ、改めて岡山の旅が印象づけられ、多くの収穫があった。
 今回の旅の主要な目的の一つである仏像は、岡山県中西部の上房(じょうぼう)郡北房町下中津井、浄土真宗仏源寺の本尊像である。 

 上房郡はかつての備中国に属した山間地域で、現在は北房・賀陽(かよう)・有漢の三町に分かれているが、いずれも鉄道の走らない、過疎化された町である。、しかしもっとも北に位置した北房町は、その北部に中国自動車道の北房インターが設けられ、京阪方面からも容易にいかれるようになり、最近は町おこしが盛んである。

 町の歴史は古い。地域には横穴式の大型の古墳が多く、副葬品の多い定北(さだきた)古墳、東西に二基の方墳が並び、東塚から環などの金製品が出土している定(さだ)古墳、そして頭椎太刀(かぶつちのたち)などの出土した土井二号墳、さらに最近発掘された大谷(おおや)一号墳などがあり、七世紀以前に豪族の存在が考えられる。
 なかでも大谷一号墳は、町南部の上中津井地区の南西部、大谷の山中から昭和62年に発見された。その後の調査から、山の斜面を利用して、一辺の長さが約23mで、列石を階段状に五段に積み重ねた、全国的にも珍しい方形墳であることがわかった。全長約6mの横穴式石室は、切石積の羨(せん)道と玄室をもち、羨道の一部は盗掘のために破損している。玄室は幅約2m、長さは3mあり、木棺と陶棺が据えられ、奥壁付近から金銅製環頭太刀(長さ110.0cm)と、斧と推定される角型のシャベル状の金銅製品、そして長頸壷の須恵器などが発見されている。
 太刀は柄頭を金銅板金で環をつくり、中には向かい合って珠を喰わえた双竜を透かし彫りとし、木製の柄や鞘部分には金銅板をはり、唐草文や円文を打ち出すなど豪華である。古墳ともども七世紀後半の作と考えられている。
 水田地区赤茂には、白鳳時代の英資(あか)廃寺があり、瓦葺きの法起寺式伽藍配置が確認され、寺は平安時代まで存続していたとされる。また近くには郡衙(ぐんが)があったことも知られている。

 さらに延喜式には、医薬以之乃知(いしのち)(石鍾乳)が採掘される土地と記され、古くから上房台の鍾乳穴が、備中鍾乳穴(びっちゅうかなちあな)として知られている。約3000m2の上房台は、比較的小規模な石灰岩台地で、全長800mの鍾乳穴には、夢の宮殿・堂内富士・二十二階層の五重塔などの見どころがあって観光地として知られている。

  

大谷一号墳


 下中津井の岩中山仏源寺は、北房町の浄土真宗二カ寺の一つで、土地の人に寺を尋ねると、わざわざ関東から、あの寺に何の用で行くのかと不思議がられた。

仏源寺の庭
 最初この寺は、文禄元年(1592)に現在の裏山、三本松の寺屋敷に開かれたが、まもなく現在地に移り、万治元年(1658)になって、宣海により浄土真宗仏光寺派の寺に改められたという。
 さらに寛政10年(1798)、一四代相誓の時代に西本願寺派に変わったが、この変更は本寺であった美作国鹿田村(現真庭郡落合町)の真光寺の怒りを買い、真光寺側が仏源寺に乱入し、寺の仏具その他をもち去ったといわれ、このためにそれまでの記録や資料などが、すべて失われることになった。本堂・庫裡(くり)・鐘楼・山門を備えた境内は、下中津井の町を見下ろす山の中腹にある。中腹といっても10mも上ったところで、裏山を取り込んだ庭には程よく岩が露出し、雅趣を醸し出している。

 数年前までの本堂は、天保四年(1833)の茅葺きの建物であったが、現在は木造瓦葺の本堂に建て替えられている。
 本尊の阿弥陀如来立像は、本堂の高い須弥壇に置かれたお厨子に安置されている。像高59cm。木造寄木造、玉眼、漆箔、面幅12cm、面奥8cm、肩幅16cm、奥行7cm。痛みは進んでいるが内部は見れない。全体に均衡のとれた美しく品のよい像である。頭部の螺髪(らほつ)は小粒で、丸く低い肉もと取り(にっけい)と地髪との差が少ない。髪際(はっさい)が僅かに弓を描く面相は、肉付きが引き締まり、男性的で緊張感の中に気品がある。印相は後補であるが、親指と人差し指を捻じた上品下生の印を結んでいる。
 衣文の刻出は深く整い、全体的には快慶作の奈良光林寺像(1221作)や岡山県牛窓の東寺院像(1211作)などと共通した法衣を纏うが、左肩に吊り袈裟の形をとるほか、法衣の衣端の処理や折り返し部分などに違いが見られ、またその形法は穏やかに、より柔らかく技巧的になり、快慶からは時代が進んでからの制作が知られる。足元は気持ちばかり右足を進める。台座に差し込む足柄(ほぞ)には墨書きはない。高さ11cmの台座は時代は下るようである。
 安阿弥様とよばれる快慶の様式を受け継いだ、洗練された中央風の像で、鎌倉時代中期、13世紀中頃に制作された像と見られる。
 体内を調べることは出来ないため、墨書や納入品の有無は不明である。したがって作者も分からないが、周辺にこうした像がないことからも、おそらく中央の技法を身に付けた、力量のある仏師が、よその場所で制作し、運ばれてきたと考えられる。 


 修理を依頼した時に辞退した仏具屋さんも、木像の重要さを分かってのことと思われるが、まだこの像は行政からの調査も行われていない。文化財遺品のレベルも高く、また豊富な県であるから、こうした指定文化財に値する像にまだ手が回らず、未調査で終わっているのであろう。

 それにしても、寺の創建より古い時代に造像された素晴らしい像が、岡山県の中でもまた、ローカルな下中津井という田舎になぜ伝えられているのか、裏山にあったという寺の本尊であったのか、開山の宣海がもたらしたのか、また以前は時宗の寺であったという言い伝えがあるなど、この像がなぜこの寺に伝えられたのか謎に包まれている。

 像の解体修理によって、あるいは手掛かりが発見出来るかも知れない。早いうちの修理、調査が待たれる像である。

 ほかに聖徳太子絵像・親鸞上人絵像・七高祖絵像・蓮如聖人絵像などが伝えられている。

 

「謎を秘めた仏たち」は、古美術月刊誌「目の眼」((株)里文出版発行)に好評連載中です。

 


inserted by FC2 system