川尻祐治

(23) 三浦七阿弥陀仏を尋ねて(無量寺の阿弥陀如来)

 友人から電話があった。「三浦のお寺の本尊さんを修理したら、書き付けが出てきた。和田義盛という侍の関係らしい。三浦七阿弥陀の一つと書いてある」すぐにでも駆け付けたかったが、お互いに忙しく、拝観ができたのは修理が終り、再び本尊として本堂に安置されてからだった。

 三浦七阿弥陀については、古くから関心をもっていた。まだ学生時代の若い頃、三浦半島芦名の浄楽寺に運慶の諸像を見学にいった。当時国立文化財研究所にいらした久野健博士の『三浦古寺の彫像』を読んだことがきっかけだったと思う。

浄楽寺 阿弥陀如来坐像
 この頃は本堂に安置されていた運慶作の阿弥陀三尊、そして脇室のまだ修復前の不動・毘沙門像も、ご住職にお願いすれば誰でも気軽に拝観することができた。三尊は後世の厚い金泥で、深い鑿跡も覆われているが、体躯は力強く、肉付きはピーンと張り詰めて充実し、運慶作にふさわしい威厳があった。いっぽう同じ運慶の不動・毘沙門の二尊は、江戸のまずい修復による彩色が剥げかけ、尊容は著しく損なわれ、素人目には運慶の作と見ることが難しかった。しかし今はこの二尊も古色仕上げによる修復がなされ、生気を取り戻し、三尊同様に国の重要文化財の指定を受け、三尊と共に本堂裏の収蔵庫に安置されており、拝観には前もっての許可が必要である。これ以後も写真撮影の手伝いなどもあって、寺を何回も尋ねたが、やはり本堂での最初の出会いがもっとも印象に残っている。

 寺は鎌倉の三大寺院の一つ、頼朝建立の勝長寿院が台風によって倒壊したために、これを和田義盛がもらい受け、妻小野氏と共に仏像を造立し、寺を建立したことが始まりと伝えている。このことは毘沙門・不動の体内から発見された月輪形の鑑札に「・・・文治五年三月廿日平義盛芳縁小野氏、大仏師興福寺内相応院勾当運慶、執筆尋西等」とあり、義盛が仏像の発願者であったことが墨書されている。
 また新編相模国風土記稿(1840)によれば、三浦郡蘆名村浄楽寺の項に「文治五年二月二十日和田義盛建立七阿弥陀堂の第二なりと云・・・」とあって、義盛が三浦半島に創建した七阿弥陀堂の一つであることが記録されている。

 この頃から三浦七阿弥陀がどこにあるのか、本当に存在したのか、どんな像が安置されているのか気になっていた。

 天保十二年(1841)に書かれた、戒珠蕃慧光の三浦諸仏寺院回詣記には、三浦半島の札所として、三浦三十三観音を初め、阿弥陀札所四十八院・地蔵菩薩札所ニ十八院・薬師如来十二院・不動明王札所十六院・毘沙門天札所七ケ院・聖徳太子札所六ケ院の札所寺院を上げているが、なぜか三浦七阿弥陀については何も触れていない。
 風土記稿は浄楽寺の他に、不入斗(いりやまず)の西来寺の楼門の項に、安置される阿弥陀像が運慶の作で、三浦七阿弥陀の一と記している。この寺は現在は浄土真宗の寺であるが、かっては浄土宗の寺で、市指定文化財の阿弥陀像は室町時代後半の制作と見られている。
 また逗子池子の東昌寺は、北条氏滅亡の地、鎌倉東勝寺の名跡を継いだ寺といわれているが、同寺の古文書には、阿弥陀堂の本尊、丈六の阿弥陀像が三浦七阿弥陀第一番の像ということが記される。かっての阿弥陀堂は別の場所にあったという。現存の阿弥陀堂の本尊は像高259.5cmの巨像で、北条政子が我子実朝の冥福を祈って運慶に造像させたという伝承があるが、制作は江戸時代である。


 したがって第一番東昌寺、第二番浄楽寺、そして何番か分からないが、横須賀不入斗(いりやまず)の西来寺が加わることが分かった。
 第二番の浄楽寺に近い横須賀市長沢の浄土宗金剛山長寿院無量寺は、三浦観音札所第二十九番の寺として知られている。今回本尊を修理した寺はこの無量寺であった。
 ヨットの繋留地で知られた佐島に近いこの辺りは、国道を一歩離れればまだ田舎風の風景がひろがる。寺では毎月の命日には、欠かさず檀家の仏壇に経をあげて回るという。
 この寺もまた文治五年(1189)に和田義盛が開いたと伝えている。中興開山が元譽上人。暦応三年(1340)に豊後守大友氏慶が、鎌倉浄智寺より中国僧竺仙梵僊(じくせんぼんせん)を招請して創建した無量寿寺を前身とするともいわれている。

 本堂には修理の終わった金色に輝く来迎三尊形式阿弥陀三尊が安置されていた。中尊阿弥陀如来坐像は、上品下生印を結ぶ来迎三尊形式の坐像である。像高は96.0cmの寄木造、玉眼、肉身部金泥、着衣部漆箔。面相には威厳があり、全体の肉付きにも張りがある。修理前の写真をみると前後に矧合わせた体躯に、頭部をホゾ差しとし、これに両腕と三材で寄せた膝部を矧合わせた像である。全体の彫りは、衣の折り返しや前裾部などに形式的な面が見られるものの、衣雛の彫り込みも深く、技量をもった仏師の作品ということがうなずける。中尊に対して観音(像高87.0cm)、勢至(像高96.5cm)(各漆箔)の両脇侍菩薩像は、裳の折り返しなどには誇張が目立ち、作者が異なるとも見られる。

    
  無量寺 阿弥陀三尊像        阿弥陀如来坐像 

無量寺 頭部修理時
 修理の時に中尊の体内から発見された銘札の写真を見ると、文治五年に運慶が制作した和田義盛祈願の七阿弥陀の像が、寛文九年(1669)に火災によって焼失したために、第六世曠譽南慶上人が貞享二年(1685)に再興造像したこと、作者は運慶流の鎌倉扇谷大仏師後藤勘弥であることが記されている。これにより三浦七阿弥陀の札所がこれ以前には成立していたことが分かる。

 勘弥(也)は現在鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の社頭にある博古堂運慶の末孫という後藤氏の先祖と考えられる仏師で、寛永五年(1628)に制作した大船大長寺の阿弥陀如来像を初め、鎌倉円応寺初江王像の修理、藤沢二伝寺観音・勢至菩薩像の造立が知られ、十七世紀中葉から十八世紀初頭にかけて鎌倉周辺を中心に活躍した、後藤派の重鎮と考えられる仏師である。無量寺像から見る限りにおいて、その作風は中世の宋元風の作風を伝え、当時の正統な仏師と考えられる。

   
無量寺 体躯修理時      阿弥陀如来体内納入銘札

無量寺 聖観音坐像
 この寺にはほかに、三浦三十三ヶ所観音札所の本尊とされる聖観音の坐像が残されている。この像はもと近くの観音山上の観音堂に安置されていたが、関東大震災の後に当寺の本堂に移された客仏である。像高62cm、玉眼、寄木造、漆箔の像で、温和な造りは鎌倉時代末頃の制作と見られる。

  この結果、無量寺が三浦七阿弥陀のうち、第三番にあたることが分かった。しかしあと三ケ寺が分からない。無量寺のご住職に三浦市三崎の光念寺が第五番と記憶しているが、横須賀市教育委員会の上杉氏ならご存知のはずだといわれる。そこで上杉氏に問い合わせたところ、

 第一番 逗子市池子 東昌寺 真言宗
 第二番 横須賀市芦名 浄楽寺 浄土宗
 第三番 横須賀市長坂 無量寺 浄土宗
 第四番 横須賀市不入斗 西来寺 浄土真宗
 第五番 三浦市三崎 光念寺 浄土宗
 第六番 横須賀市津久井 往生院 単立
 第七番 横須賀市根岸 正観寺 廃寺

 というご教示を頂戴した。

 第五番三浦市の光念寺は浄土宗の寺。和田義盛の開基と伝えるほか、天井画の竜などで知られている。
 第六番横須賀市津久井往生院の阿弥陀三尊像は、永禄元年(1558)の制作が知られ、かっての像は平(和田)義盛の発願により、運慶が造像したと伝えている。
 第七番は横須賀市根岸の正観寺で、鎌倉時代の僧で鎌倉建長寺や円覚寺、寿福寺の住持を勤めた南山士雲を開山とし、運慶の制作による阿弥陀如来を本尊としていたと伝えるが、現在は廃寺となっている。

 これら浄楽寺を除いた寺では、当初の像が失われているが、その真否は別としていずれも運慶制作にかかわる伝承をもつほか、和田義盛(久安三年〜建保元年 1147〜1213)の開基伝説を伝えている。義盛は三浦半島の豪族三浦義明の孫にあたり、直情径行の坂東武士の風貌をもっていたようである。その義盛がどの程度の宗教心をもって浄楽寺などを建立したかは分からないが、茨城県笠間地方に残された笠間時朝発願の六仏の例など、この時代の多くの武将達と同様、戦乱による罪障に恐れおののき、作善の功徳を願い、死後の阿弥陀極楽浄土への再生を願って三浦七阿弥陀堂を完成させたのではなかろうか。

 しかし北条氏の策略に乗って兵を揚げ、同族三浦氏の裏切りにより、鎌倉由比ヶ浜で一族共々滅びるという修羅道に落ちたが、発願の七阿弥陀の仏達はどのように見つめていたであろうか。人の歴史には余りにも謎が多すぎる。 

 

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