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(23) 三浦七阿弥陀仏を尋ねて(無量寺の阿弥陀如来) |
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友人から電話があった。「三浦のお寺の本尊さんを修理したら、書き付けが出てきた。和田義盛という侍の関係らしい。三浦七阿弥陀の一つと書いてある」すぐにでも駆け付けたかったが、お互いに忙しく、拝観ができたのは修理が終り、再び本尊として本堂に安置されてからだった。 三浦七阿弥陀については、古くから関心をもっていた。まだ学生時代の若い頃、三浦半島芦名の浄楽寺に運慶の諸像を見学にいった。当時国立文化財研究所にいらした久野健博士の『三浦古寺の彫像』を読んだことがきっかけだったと思う。
寺は鎌倉の三大寺院の一つ、頼朝建立の勝長寿院が台風によって倒壊したために、これを和田義盛がもらい受け、妻小野氏と共に仏像を造立し、寺を建立したことが始まりと伝えている。このことは毘沙門・不動の体内から発見された月輪形の鑑札に「・・・文治五年三月廿日平義盛芳縁小野氏、大仏師興福寺内相応院勾当運慶、執筆尋西等」とあり、義盛が仏像の発願者であったことが墨書されている。 この頃から三浦七阿弥陀がどこにあるのか、本当に存在したのか、どんな像が安置されているのか気になっていた。 天保十二年(1841)に書かれた、戒珠蕃慧光の三浦諸仏寺院回詣記には、三浦半島の札所として、三浦三十三観音を初め、阿弥陀札所四十八院・地蔵菩薩札所ニ十八院・薬師如来十二院・不動明王札所十六院・毘沙門天札所七ケ院・聖徳太子札所六ケ院の札所寺院を上げているが、なぜか三浦七阿弥陀については何も触れていない。 |
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本堂には修理の終わった金色に輝く来迎三尊形式阿弥陀三尊が安置されていた。中尊阿弥陀如来坐像は、上品下生印を結ぶ来迎三尊形式の坐像である。像高は96.0cmの寄木造、玉眼、肉身部金泥、着衣部漆箔。面相には威厳があり、全体の肉付きにも張りがある。修理前の写真をみると前後に矧合わせた体躯に、頭部をホゾ差しとし、これに両腕と三材で寄せた膝部を矧合わせた像である。全体の彫りは、衣の折り返しや前裾部などに形式的な面が見られるものの、衣雛の彫り込みも深く、技量をもった仏師の作品ということがうなずける。中尊に対して観音(像高87.0cm)、勢至(像高96.5cm)(各漆箔)の両脇侍菩薩像は、裳の折り返しなどには誇張が目立ち、作者が異なるとも見られる。 |
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無量寺 阿弥陀三尊像 阿弥陀如来坐像 |
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勘弥(也)は現在鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の社頭にある博古堂運慶の末孫という後藤氏の先祖と考えられる仏師で、寛永五年(1628)に制作した大船大長寺の阿弥陀如来像を初め、鎌倉円応寺初江王像の修理、藤沢二伝寺観音・勢至菩薩像の造立が知られ、十七世紀中葉から十八世紀初頭にかけて鎌倉周辺を中心に活躍した、後藤派の重鎮と考えられる仏師である。無量寺像から見る限りにおいて、その作風は中世の宋元風の作風を伝え、当時の正統な仏師と考えられる。 |
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無量寺 体躯修理時 阿弥陀如来体内納入銘札 |
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この結果、無量寺が三浦七阿弥陀のうち、第三番にあたることが分かった。しかしあと三ケ寺が分からない。無量寺のご住職に三浦市三崎の光念寺が第五番と記憶しているが、横須賀市教育委員会の上杉氏ならご存知のはずだといわれる。そこで上杉氏に問い合わせたところ、 第一番 逗子市池子 東昌寺 真言宗 というご教示を頂戴した。 第五番三浦市の光念寺は浄土宗の寺。和田義盛の開基と伝えるほか、天井画の竜などで知られている。 これら浄楽寺を除いた寺では、当初の像が失われているが、その真否は別としていずれも運慶制作にかかわる伝承をもつほか、和田義盛(久安三年〜建保元年 1147〜1213)の開基伝説を伝えている。義盛は三浦半島の豪族三浦義明の孫にあたり、直情径行の坂東武士の風貌をもっていたようである。その義盛がどの程度の宗教心をもって浄楽寺などを建立したかは分からないが、茨城県笠間地方に残された笠間時朝発願の六仏の例など、この時代の多くの武将達と同様、戦乱による罪障に恐れおののき、作善の功徳を願い、死後の阿弥陀極楽浄土への再生を願って三浦七阿弥陀堂を完成させたのではなかろうか。 しかし北条氏の策略に乗って兵を揚げ、同族三浦氏の裏切りにより、鎌倉由比ヶ浜で一族共々滅びるという修羅道に落ちたが、発願の七阿弥陀の仏達はどのように見つめていたであろうか。人の歴史には余りにも謎が多すぎる。 |
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