川尻祐治

(22) 宿根木の磨崖仏

 今夏、「目の眼」友の会で佐渡に旅行をした。以前から尋ねてみたかった念願の小木町宿根木の磨崖仏にお会いすることができた。以前に高名な美術史家がここを尋ねた時に、お籠(こも)りをしていた女性の行者から、この岩屋さんには霊が渦巻いており、恐らく日本で一番霊が籠る霊場ではないか、と聞かされたという話を聞いたことがあった。しかもそれは、名高い青森下北半島の恐山より凄いという話である。

 そんなことから宿根木の岩屋さんは、磨崖仏もさることながら、霊の籠る岩屋とはどんな所かと以前から関心を持っていた。

 霊の話と言えば佐渡から帰って二週間過ぎた後の話である。ある写真家と鎌倉の町なかの寺を歩いた。三浦大介義明の家臣の墓が、墓地造成で移されたという話を聞き、どんなに変わったのか見てみようということになった。かっては山裾の草の茂る広い敷地の中に、小さな五輪塔群が隠れるようにあって、そこだけに昔が保存されてきたような、古い鎌倉の雰囲気が残されていた。立ち寄ってみると、五輪塔群は山裾から移転され、一カ所に小さくギッシリと纏められ、かっての風情は失われていた。ここで変った出会いがあった。

 その五輪塔群の中に、何故か華やかな和服を着た若い女性が手を合わせている。三浦氏の末蕎かと思って尋ねてみると、縁者ではなく東京から来たのだという。一、二カ月前から、夢の中にいくたびも、老婆と烏帽子(えぽし)に鎧(よろい)を付けた武者が現れ、その老婆が「自分は三浦の一族で、大きな合戦の後に人知れず突き殺された。しかし、一族は滅亡して供養をする人もないので、供養をして欲しい」と頼み、そのために三浦氏ゆかりの土地を尋ね歩いているが、供養の場所がどこか分からないで困っているのだという。和服は日舞を習っているので普段から着なれているそうだ。仏像を尋ねて旅行を重ねていると、時々こうした霊にまつわる話を聞くことがある。しかもそのすべてが女性からの話だ。尼僧さんから、私は今、祀りごとが絶えてしまった無縁仏を五人も背負い、肩がはってしょうがない。男性にはこうしたことは分からないでしょうね、と伺ったこともある。女性には、男性には分からない不思議な能力をもった人がいるようだ。

宿根木の集落
 佐渡には石仏が多いが、その多くは江戸時代以降の像であって、これを遡る像は少なく、より古いと見られる宿根木の磨崖仏は珍しい。磨崖仏のある宿根木は、佐渡の南端小木町にあり、町の中心部から西へ4kmほど進んだ小さな入江に面した静かな集落である。宿根木(しゅくねぎ)の地名は鎌倉時代の昔から知られており、この変わった地名は宿禰宜とも書かれているが、室町時代の頃から現在の宿根木が定着するようになったようだ。この辺りは早くから開けており、江戸時代以前は回船業を営む人々を中心に船大工などが住み、港の主力が佐渡金山の発達と共に小木港に移ってからも船主が船頭となって全国各地を回り、和船の里、千石船の里として栄えたという。

 集落は海風を避けるように密集して建ち、今でもかっての集落形態を残しており、宿根木集落群として県の町並み保存地区に指定されている。母屋をはじめ納屋、土蔵が軒を並べる状況は、同船による出稼ぎから、やがて農林漁業に転換していったという地域の歴史を伝えている。

岩屋さん入口 参道
 集落のはずれにある時宗の称光寺は、正安三年(1301)に開かれ、永享十年(1438)に重阿弥が再興したと伝える古刹である。その間、正平十年(1355・文和四年)には、遊行八代渡船上人が三崎を訪れ、そこにあった草堂に滞在したことが知られており、その草堂が佐渡第一の時宗の道場、三崎道場で、これが称光寺の前身となったともいわれている。  

 宿根木地区の北側の山は神奈備で知られた十上山(とがみさん)である。その麓に称光寺の奥の院とされる、岩屋山(いわやさん)とよばれる大きな洞窟がある。

 洞窟は100m近い山道の参道を上った海抜、100mの山腹にある占い海蝕洞窟である。間口は12m、高さ6m程、奥行きははっきりとしてないが、言い伝えでは佐渡東の外海府、岩屋口洞窟まで続いているといわれる。磨崖仏はこの大きな岩窟の壁面に刻出されている。

 

岩屋さん 八十八体仏
 窟の前は広場となり、四国八十八カ所の本尊を写した、50cmたらずの石仏が、広場を半円形に取り巻いている。ここでは夏になると四国八十八ケ所巡礼になぞらえた「ねまり遍路」とよばれる行事が行われる。また窟内では念仏講が開かれるなど、信仰が今に続いていることが知られる。石仏は、椿尾の石工五兵衛の作である。

 佐渡には梨ノ木地蔵を始め石仏が多い。こうした像は、江戸時代から石工の里として知られた小泊(羽茂町)や椿尾(真野町)で盛んに制作された。

 慶長年間(1596〜1615)には、小泊の石屋惣左衛門が、蓮華峰寺(小木町)の住職、快宥の五輪塔を制作しているほか、文化・文政年間(180〜30)に活躍した椿尾の石工五兵衛や重太郎は、名工として知られており、その作品は能登や越中にまで広がっている。しかしその石工の活躍も、明治時代に入ると次第に衰え、昭和に入ってからは、小泊で石臼などの年産が行なわれていた程度となった。

      

窟内入口              入口付近の石像      

 岩屋さんの窟内は、一歩入ると外陣と内陣に分けるように門構えの結界が設けられ、外陣部分の左壁面には小さな石仏や碑塔が建てられている。石仏の中には地獄の十王や奪衣婆(だつえぱ)のほか死者の諸行の善悪を計るという業秤(ごうびょう)や、善悪を判断する人頭杖など、地獄の道具を浮彫りにする碑もあって珍しい。いずれも江戸時代後半以降の制作と見られる。

 内陣には電気もなく真っ暗で、目がなれるまでには時間がかかる。広さは30〜40坪もあろうか、正面奥に小さな堂が設けられている。堂までの深さは20m位で、中央にはお籠りの行者のための囲炉裏を設けた簡単な桟敷がある。

 かって窟の調査が行われたとき、舎利容器と見られる中世の珠洲焼きの大瓶が発掘されており、ここが古くから信仰の場であったことが知られている。

 磨崖仏は八体あり、入り口直ぐ脇の左右の岩壁上部、2m位の高さに半肉彫りにされている。最初は分らなかったが、目が慣れるにしたがって、黒い岩壁に溶け込んでいたような仏達が、幻のように浮かび上がってくる。石窟寺院を意識したのであろうか、如来形像の前には柱が立てられ、須弥壇が設けられている。これらの像を地元では弘法大師の作と伝えている。

 向かって左の岩壁には、約150cm位の如来坐像と見られる三体の像が彫られているが、風化のために尊名や詳細の確認は難しい。一番手前の像と中尊像の間に、龕(がん)の縁(ふち)を思わせる彫りが残り、像の周囲が彫り残されたのかも知れない。

 

羅漢形 磨崖仏
 右側の突き出した岩壁にも、半肉彫りで像高約70cm位の二体の羅漢形の坐像が彫られるほか、別に小さな寵の中にも像が見られるがこれは分りにくい。羅漢形の像は、いずれも頭部を円頂(剃髪)とし、眉や目、衣文などに墨書が見られ、もともとは装飾のあったことも推測される。入り口近くにも天部像と見られる宝冠をかぶったような立像が確認でき、この像は顔の部分のみがそれと分かるが、体躯は摩滅し、そこに像が刻出されているということも分りにくい。これらの像は頭部が高く、肩幅が広く肉厚もあり、また腰高も高いなど、その特色から平安時代末から鎌倉時代にかけての制作ともいわれるが、各像の衲衣の胸前襟元を狭くする点や、如来像のどちらかといえば面長な面相などからみて、各々制作年代には若干の違いがあるようだが、鎌倉時代も後半から室町時代にかけて制作されたのではなかろうか。

 

 

 いずれも衲衣の襟元を太く表現し、細部にこだわりを持たない素朴な像で、この地方の仏教心をもった石工の手になる像と見られるが、制作の理由も目的も全く知られていない磨崖仏である。もしこの岩屋に一人でお籠りをしたとすると、おそらくこれらの像が行者に何かを語り掛けて来るように思われる。しかし暑い中を訪れた団体さんには、霊も話しかけを遠慮したのであろうか、霊の体験をした人もいなかったようだ。

 岩屋を下って山裾沿いに東に進むと、最近建てられた巨大な地蔵の前に出る。幸福地蔵と名付けられた目下売り出し中の観光地蔵である。

  天部形 磨崖仏

 

 

 

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