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(19) 日蓮の舎利を収めた祖師像 |
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数か月前、知人が日蓮さんの像を我が家まで運んできた。像高45cm、襟元の厚い茶褐色の法衣を纏い袈裟を着けた像で、しばしばある十羅刹女を背後に従え、経巻を広げて読む「読経の祖師」と呼ばれる像である。知人によれば伊豆のある寺の像だという。
像を底から見ると、差し込んだ首ほぞと体躯の間に、隙間を埋めるように紙片が見えている。金箔を張るときに使う、長い竹製のピンセットで取出そうとしたが取れない。無理にやると紙を切ってしまうので諦めた。
初め、知人はなかなかこの像を安置する寺の名を明かさなかったが、ようやく伊豆大仁浮橋にある日蓮宗本道寺の像で、補彩を落とすなど修理のために運び出したことを教えてくれた。 こうした話はよくある。以前に北陸のある無住の寺を訪ねた時、昨日塗ったように像が金色に輝いており、不思議に思って案内の人に尋ねたが、口ごもったまま要領を得ない。しつこく問い質したところ、お像の彩色が剥落してみすぼらしかったので、土地の船専門のペンキ屋に頼んでペンキを吹き付けたと、ようやく口を開いた。このために平安時代中期の像が台無しにされてしまい、県の教育委員会からコッテリとしぼられ、また怒られるのが嫌だから話したくなかったということだった。しかし信仰する人達にとっては仏達が光輝いているのが当然のことである。ましてや日蓮宗では祖師像を特に大事にしており、寺として大事なお祖師様を美しくするのは当然でこれをせめることはできない。 本道寺の日蓮像もまた、北陸の寺ほど極端な補彩ではなかったが、華美な彩色が尊容を著しく傷つける結果となっていた。ともあれ補彩を落とした時の写真、像を解体した時に取り出した文書を見せて欲しい旨、頼んでおいた。 それから約一か月程たって体内から納入品が出てきたのでお目にかけたいという連絡があり、数日後、補彩を落とした写真と、頭部に収められていたという納入品が持ち込まれた。
修理中の日蓮像 修理後の日蓮像 彩色を落とした像は、涼しげな表情をもち、温和な雰囲気をかもしだしていた。これは強靭な意思を秘めた日蓮とは異なるが、発願者の日蓮への慕情、宗教的な祈りの現れで、本像が日蓮歿後そうとうな年月を過ぎ歴史的な像として制作されたことによると考えられる。そして頭部に収められていた、舎利瓶と見られる7cmほどの、破損した小さな濃い青色のビール瓶状のガラス瓶と木製の蓋、瓶に収められていたと見られる小指先程の白い骨片、舎利。他に制作当初のもので、江戸時代の修理の時に収められたと見られる、長さ1.5cm、幅8mm程度の二個の玉眼。この玉眼は線香の汚れで曇り、当初の透明さは失われている。そして古文書があった。 日蓮上人の古い像としては、正応元年(1288)制作の東京池上本門寺の祖師像が名高い。この像の底には、つまみ蓋付きの円筒形銅器が埋め込まれ、これに火葬の際の灰などが納められており、本道寺像も同様に祈りを籠めた像ということがわかる。 東光山本道寺は日蓮宗身延派に属した寺で、伊豆大仁の奥、伊豆スカイラインの亀石峠を下ってまもない、韮山町大仁浮橋にあり、日蓮宗韮山本立寺を本山として「焼き栗の霊跡」で知られる寺である。 この本道寺と日蓮の関わりは、この流罪の間に起きたことで「焼き栗の霊跡」として寺に伝えられている。 さて、江川氏(この頃は十六代英親の時代と考えられる)の招請に応じた日蓮が韮山に向かう途中、亀石峠を越え、浮橋にさしかかった辺りで日が暮れてしまった。宿を探すと山間にあばら屋があって、そこには男が一人住まっており、事情を聞いて日蓮を泊めてくれた。食べ物もないまま、日蓮は一夜を明かしたが、朝になると男はどこかへ出かけてしまった。 やがて戦国の頃、天正年間になって日蓮宗の中道院日栖がこの地方を教化した時、この伝説を聞いた日栖は、ここにあった真言宗の寺を、日蓮宗本道寺に改めたのが寺の始まりと伝えられている。
集落を見下ろす境内に、現住職などの努力による真新しい祖師堂が建立され、修復のなった日蓮上人の像が安置されていた。朱の法衣を纏い、修復前に比べて面相は意思的である。制作が日親作か否かは別として、恐らくは、日親活躍の頃、十五世紀中頃を下らない制作として間違いのないようにみられる。 この日蓮像を拝していると、制作年代は勿論のこと、像の発願者、納入品のお舎利様が本当に日蓮の舎利なのか、また開山さんのことなど、後から後から疑問がわいてくるが、今までにお祖師様の像を拝観する機会も少なく、そうした疑問を解決するにはまだまだ時間がかかるようである。 |
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