川尻祐治

(18) 鎌倉のやぐら(三)

  やぐら内部の壁面に彫刻された仏像は、地蔵菩薩の像が目につくが、ほかに如来や十王の像など、やぐらの性格上からか死後の世界を象徴する像が多い。

 鎌倉の数多いやぐらの中で、数の上でも形の上でも、やぐらが一番多く集まっているのが、覚園寺裏山の百八やぐら群で、その製作の年代も鎌倉から室町時代にかけて幅が広い。

 このやぐらは、鎌倉ハイキングに人気のある天国コースの直ぐ下にあるが、ほとんどの人は気付かずに通り過ぎてしまう。窟はいずれもほぼ南面し、標高差30m位の崖面に、階段状に六段位に造られ、その数は177を数えるという鎌倉の代表的なやぐら群である。現代的にいえばお墓のマンションというところであろう。

 このやぐら群は、江戸時代の鎌倉勝攬考(文政12年−1829−編)にも梵字窟・筥窟・五輪窟などと記されている。そしてその大部分は羨道が省略され、一坪たらずの小さい玄室を備え、正面壁には半肉彫りの五輪塔や、薬研彫りの種字を刻む例が多い。

 中でももっとも、下に位置し、ちょっとした平地を前にした20号窟は、寺院の本堂内部を思わせる大きなやぐらで、奥行き約80cmの羨道部は、一部の岩が崩れ落ちているものの、充分当初の形態を残している。

 玄室の間口は約420cm、奥行きは約290cm、天井の高さも約260cmあって、他の小規模なやぐらとは異なって、納骨穴は造られず、窟内で祭祀を営むことの出来る規模をもっている。

 正面壁には、本尊として直径100cmもある月輪形を左右に上下二つずつ刻み、仏を現す種字を円の中一杯に豪快に薬研彫りで現している。向かって左上がアーンク、胎蔵界曼荼羅の主尊、胎蔵界大日如来の種字で、その下の種字は釈迦を現すバクであろうか。右側の二つの種字は、上が金剛界大日のバン、下が阿弥陀のキリークと見られている。また左右の壁側面にも同様に各二つずつの種字が薬研彫りとされるが、右の種字が宝生如来と毘沙門天、左が勢至菩薩で下は失われている。

 この側面壁の正面壁に近い端に、向き合うように光背をかたどった、高さ100cm、幅60cmの舟型が彫りくぼめられ、中に各々像高100cmの均衡のとれた如来の立像が半肉彫りとされている。二体の像は法量をはじめ、全く同じ姿で彫られ、釈迦か阿弥陀如来の像と見られるが、風化のために印相もはっきりせず、尊名も制作年代も確定できない。また左の側面壁には、種字を挟んで入口近くに、さらに一体の立像が刻まれていたが、彫りだし部分が剥離して、白くその像を止めているだけである。右側入口部分も同様と見られるが、壁面が崩壊して失われている。いずれにしても規模の大きな荘厳化されたやぐらで、寺の本堂の代わりに祭祀が営まれたと推定される。

 崖面の上から二段目の中程にある二号窟は、勝攬考でいう団子窟であろうか。玄室の間口は約180cm、奥行210cm、高さ167cmのやぐらであるが、正面の壁面中央に等身大(像高80cm・膝張り73cm)の、重量感ある地蔵菩薩の坐像が安置されている。彫刻は固さが目立つ素朴な作風であるが制作年代ははっきりとはしない。地蔵の前には方100cm、深さ55cmの納骨窟が掘られている。78号窟の奥壁には、風化が著しいが高さ約163cmの犬きな宝篋印塔を一杯に刻出している。宝篋印塔の刻出は鎌倉のやぐらの中でも珍しく、他に一例が知られるだけである。

 百八やぐらの上部のやぐら内には、明治の初年に江戸神田の講中によって寄進された、四国八十八カ所霊場を模した小さな弘法大師の石像が安置されるが、いずれも首を失っている。百八やぐらの名は、八十八カ所巡礼によって、人間の百八煩悩を消滅させるということから起こったという。

 他に木喰仏を思わせるような若い丸彫りの薬師如来坐像を安置するやぐらや、五輪塔を壁面に浮彫りとするやぐらが数多くみられるが、中でも46号窟は、高さ267cm、幅120cmもある鎌倉期の大きな五輪塔を刻出している。

 また他に直径70cm程の月輪の中に、種字を薬研彫りとして金泥を塗り、その金泥が墨のように黒ずんでいるやぐらも多い。昭和36年にこのやぐら群は、神奈川県の史跡に指定されている。

  

 

 百八やぐらから天国ハイキングコースに出て、建長寺の方向へ進むとまもなく見晴らし台に出る。この脇に十王岩と呼ばれる岩がある。この岩から俯瞰すると、正面遠くに鶴ヶ岡八幡宮、その先に真っ直ぐ若宮大路が伸びて由比が浜へと続く。かつて鎌倉の都市建設にあたり、起点となったとも考えられる謎を秘めている岩である。この岩がやぐらに利用されていたかどうかは不明であるが、鎌倉の町を見下ろすように、五体の像が半肉彫りとされている。中央主尊の如来坐像の左右に、二天または力士と見られる立像を刻み、さらにその外側に各一尊の坐像が刻出され、右の一体は十王岩の由来となった像で、道服を纏い宋風の冠を項いた十王の一人と見られる像である。これらの像も風化が著しく、制作年代をはじめ尊名の確定も出来ない。

 紫陽花の名所で知られた北鎌倉明月院境内のやぐらもまた、彫刻のあるやぐらとして知られている。今は羨道部を失い、自然窟を思わせるようなやぐらであるが、幅は七m、奥行き六m、高さ三mもある大きなやぐらで、中央に安置される宝篋印塔は、山内上杉の祖上杉憲方の墓と伝えられている。

 奥壁の舟形光背をもつ二体の浮彫り如来坐像は、寺伝によれば釈迦如来と多宝如来とするが、一体は智拳印を結ぶ金剛界の大日如来と見られる。また壁面に刻出される像は十六羅漢と伝えるが、このやぐらもまた風化が進み、尊名の確定は難しい。

 北鎌倉大堀割りの近く、瓜ヶ谷やぐら群の一号窟は、地蔵やぐらとも呼ばれている。幅470cm・奥行き700cm・高さ190cmもある矩形状の大きなやぐらであるが、壁面に彫刻の多いことが知られている。玄室中央部には地山から掘り起した損傷の激しい像がある。また奥壁の主部分にもややいびつな二重輪光背をもち、細部の省略された如来坐像(167cm)が厚肉彫りとされている。衣制などから見て室町時代も初めの頃の制作てあろう。

 さらに向かって右の壁面には、方形の浅い龕を造り、その中に道服に冠を項いた見るからに道教的な四人の神像を浮彫りとする。うち二体は正面を向き、他の二体は左斜めに頭を傾ける。製作の時代は不明。他に五輪塔や、追刻と見られる地蔵菩薩を始め、これも追刻の鳥居と社殿、その石段などが彫られている。

 朝比奈の切り通しの頂上には比較的新しい素朴な薬師如来の立像が見られる。回りを彫りくぼめて像を刻み、残した岩に仏を彫り、像の表面を平滑に仕上げている。細長いお顔、通肩にまとった法衣の襟元をはだけ、長い袖を足首近くにまで垂らすなど、洗練されていないが印象に残る像である。

 

 坂東三十三カ所観音霊場第一番杉本寺から第二番の逗子岩殿寺に通じる鎌倉観音古道は、報国寺の前から湘南ハイランドまでの約30分間は、ちょっとした秘境気分を味わえる手軽な山道である。途中には札所巡礼の石碑や庚申の小さな石碑が置かれるなど、いかにもそれらしい雰囲気をもっている。報国寺を眺めながら5〜6分ほど石段を上ると、上り切る手前の僅かばかりの平地を前にした自然の岩に光背型の龕を彫り、その中に磨崖仏とも見られる、大きな等身大の石造の地蔵菩薩立像が刻出されている。この像もまた風化が進み細部は摩滅しているが、肩幅もあり堂々とした肉厚の体躯をもつ像で、一般人の礼拝の対象であったと思われる。恐らくその制作は室町の初めの頃までは遡るのではないかと見られる。

 他に扇ケ谷浄光明寺裏山にあるやぐらには、網引地蔵とよばれる正和二年(1313)の刻銘をもつ丸彫りの石造地蔵菩薩坐像(85.5cm)が安置され、像の上の天井部は円形に彫りこまれ、天蓋を付けていたと見られる。

 最後に彫刻こそ無いが、鎌倉の昔を彷佛させるやぐらを紹介しておこう。西御門の奥、住宅街の中の急勾配の坂道を上りつめ、山道に入るとすぐ十字路に出る。真っ直ぐ進めば建長寿最奥の塔頭回春院の境内。左は鶴岡八幡宮の方向となり、あるいは源実朝の首を持った公暁が、この道を通って三浦屋敷に入ったとも考えられる。

 右に折れて天国ハイキングコースを目指すと、道は林の中を上り下りしながら進み、やがて天国ハイキングのハイカーのざわめきが聞こえるようになった頃、南面して並ぶ二十程のやぐらの前に出る。そのほぼ中央の朱だるきやぐらは、寺院を意識して造られたと考えられるやぐらである。この朱だるきやぐらは、羨道と玄室からなり、羨道の間口は約350cm、高さ約170cm、奥行き210cmほどあり、左右の上端部には扉の軸部を取り付けた矩形の彫り込みがのこる、また向かって左側壁面には、二基の位牌型を浮彫りとしている。玄室の間口は約370cm、奥行きが約175cm、高さ163cmの矩形で、内部は全体に漆喰が施されて荘厳化されていたと見られる。正面壁の中央には、幅87cmの大きな舟型の光背が浮彫りとされ、一段高く彫り上げた天井部に、その先端部が届いている。現在この光背は主の仏を失っているが、かすかに唐草文様と見られる装飾の一部の着色が確認できる。しかしなんといってもこのやぐらの最大の特徴は、朱だるきの呼び名が生まれた羨道天井部にある。建築物の天井垂木を意識した、ベンガラによる50本の線、3cmから5cm幅の朱色の線が鮮やかに描かれ、このやぐらが仏堂を意識していることが分かる。制作は鎌倉時代と見られ、納骨穴も見られないことから、このやぐらが周辺のやぐらの中心であり、祭祀を執り行なうために造られたと見られるやぐらである。

 このように鎌倉のやぐらには、仏像を初め多くの仏教遺跡が残されるが、その多くは墓所であり、いずれも死者の冥福を祈った遺跡である。

 そしてここに挙げたやぐらの多くは山中にあり、道もない急斜面を上り下りしながら、初めてたどり着くような場所が多く、鎌倉の歴史が静かに眠っている土地でもあることから、何時までも大事に保存したいものである。

 参考「鎌倉のやぐら」 大三輪竜彦著 かまくら春秋社刊

 

 

 

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