川尻祐治

(17) 鎌倉のやぐら(二)

 鎌倉の切通しを丹念に巡っていると、その辺りには「やぐら」が多いということに気が付く。
 大仏の切通しや名越の切通し、あるいは化粧坂、大堀割り、釈迦堂口、朝比奈の切通しなどがそうした例である。
 これらの古道を上り詰めると、頂上は岩を掘削した切通しが通っている。

 鎌倉七口とよばれる切通しは、西から極楽寺・大仏坂・化粧坂、亀ガ谷坂・巨福呂坂・朝比奈・名越の切通しである。この七口の他にも、極楽寺の切通しの開通によって廃道になったと考えられる稲村が崎海岸道。旧東海道である材木座光明寺の裏山から小坪に出て、やがて葉山から三浦半島を横断して、上総の富津に抜ける小坪坂。あるいは高原ガ丘の北側にあって、扇ガ谷海蔵寺の奥、梅ガ谷と山ノ内の奥の瓜ガ谷結び、今は埋められて土橋となっている大掘割。また大町と浄明寺を結ぶ釈迦堂口などの古道があり、特にこれらの中、大仏坂や朝比奈・名越の切通し・釈迦堂口には今では失われた当時の鎌倉を伝える趣があり、人を引付ける古道となっている。

  

 一方こうした切通しは、人々の交通以外に、防御施設の一端を担った重要な道であり、鎌倉が鎌倉城と呼ばれる所以となっている。切通しの上部は、武者が待機して攻め上る敵方の武者を崖上から弓矢で射かけるようになっており、付近には武者溜まりと見られる平場が設けられている。

 また名越の逗子側に見られるように、大規模な切り岸しと呼ばれる、攻め寄せる敵を立ち塞ぐ、十メートル以上もある切り立った崖が続き、容易に上がれないように工夫されている。さらに路面には、大仏坂や名越の切通しに見られるように、人馬の歩みを阻む大きな岩が埋められている。当時の馬は精々背高一メートル位で、現代の競争馬とは異なり、スピードこそ劣るが力のある馬であった筈だが、騎乗する武者の甲冑が32kgもあったというから、その重量を支えて坂道を越えることは困難であったと思われる。元弘3年(1333)5月の義貞による鎌倉攻めが、激戦であったことはこうした施設によることが大である。


 これらの古道の多くは、開幕以前からあったと思われるが、頼朝が館を構えた後、坂の頂上には切通しが設けられ、人の往来が盛んとなるにつれて、改修が重ねられ、かつては杣道に近かったような道が、次第に幅員が広げられ、また峠道の勾配をより少なくするために掘り下げられた。やがては近代の土木技術の発達に伴い、近くにトンネルが完成し、新道ができると忘れ去られ、旧道となって現在でみるハイキングコースに変わった。

こうした鎌倉と外部を結ぶ切通しは、鎌倉と周辺部の境をなしており、今でもその面影を残しているが、車の通る新道の開通、改修、そして土地開発が進むまでは、人影もなく、木立が鬱蒼と茂る、奥行きのある暗い山間の道であった。そうした周囲に、「やぐら」が数多く見られる。


 日本人には山間に神や仏の世界、霊場があると考える伝統的な信仰があることを前回に述べたが、私たちの祖先達が山間に他界観をもっていたことは、古くから知られている。この考え方は、日本固有の宗教である神道においては特に顕著である。山は神の住まいであり山麓には神社が設けられ、人々に崇拝された。山上の上社と山麓の下社がそうしたことを物語っている。やがてこの信仰は仏教と習合し、越中立山・加賀白山・津軽恐山・志摩朝熊山(あさまやま)あるいは高野山など、死者の住む来世の山として信仰されるようになり、民間ではお盆を迎えると、山間の祖霊が山中の盆花に乗って里に降りてくるといラような信仰が生まれてくる。平安時代に流行った山越阿弥陀の図などもその延長線上の信仰である。

 そうしたことにからみ、峠の信仰が生まれる。峠の信仰はまた村境の信仰でもある。行政的に線引きされた境ではなく、村人達の心意的な境で、疫病神送りや、旅立つ人を見送ったり、迎えたり、また福神が来る境で、しばしば小説の舞台となったりする。普通そこには道祖神や地蔵、二十三夜塔などの石塔、あるいは庚申塚などがある。またそこを一歩踏み出せばその辺りには死者の世界があり、祖霊が住んでいた。箱根精進池を中心とする辺り、池畔の宝篋印塔や曽我兄弟の墓、あるいは二十五菩薩、六道地蔵の石仏などもそうしたことを物語っている。峠は悪神が余所から来る入り口であり、祖霊達が子孫を守る場所でもあった。鎌倉七口、切通しには古くからそうした信仰もあったと考える。

 こうした信仰があってこそ、鎌倉市内に墓所を営むことを禁止された高級武士や幕府の高級官僚達が、山間に祖霊を祭ることは至極当然のことであったであろう。また祖先崇拝ということから、墓所は当然に家族を中心とした氏族単位で営まれることとなり、「やぐら」に残る幾つもの納骨穴からも充分に想像がつく。「やぐら」の発生には、こうした日本人の来世観が流れていると考えられる。

 そしてここに営まれる「やぐら」は、その壁面に仏像、梵字、五輪塔、板碑、例は少ないが宝筐印塔などが半肉彫りとされたり、また置かれたりして、祖霊のいます窟内は荘厳化されている。鎌倉の石造美術を探る時にこれを見逃すことはできない。


 「やぐら」に彫られた仏像は地蔵菩薩像がもっとも多く、ついで阿弥陀如来と見られる如来像、十王像、羅漢像などがある。中には線彫りもあるが、多くは半肉彫りとされている。これは平安時代の後半から盛んとなった浄土信仰に関係する仏で、阿弥陀如来が姿を変えた仏が地蔵菩薩、地蔵菩薩が姿を変えた仏が閻魔大王(十王像)といわれ、十王の遺品は室町時代に入り地獄の十王信仰が盛んとなるにしたがって多くなるが、極楽浄土への再生を願う人々の信仰を物語る遺品である。地獄で死者の生前の罪悪を裁く裁判官、閻魔大王をはじめとする十人の冥官達であるが、十王全員を彫刻した「やぐら」は見られない。

       


 また仏を梵字、種字で現す「やぐら」も多く、百八やぐらに見られるように、窟壁面一杯に種字曼陀羅を薬研彫りとして仏の世界を現す「やぐら」も見られる。

 墓に石標を建てるのは十世紀の頃からと考えられているが、中世において権力者の墓標、あるいは追善供養の碑として五輪塔や宝篋印塔が建てられるようになる。

 その流行からか「やぐら」には多数の五輪塔が見られる。これには窟壁面に半肉彫りとするものと、独立して制作され、窟床面に置かれた小さなものがあるが、床面に置かれたものは当初から置かれていたか、移され集められたものかは疑問であるが、その大多数は鎌倉時代末期から室町時代の制作と見られる。

 宝篋印塔は本来宝篋印陀羅尼を収めた塔であって、現代ではその形の美しいことから観賞用として庭園などに置かれたりするが、鎌倉時代も末になると、これに遺骨を収めた例も見られるようになる。江戸時代には大名の墓塔として制作されるようになった。

 板碑は十三世紀の頃から十六世紀の頃まで、盛んに制作された。細長い板状の石(関東では緑泥片岩を使用する)の頂上を三角形として、その下に二段の線刻を入れ、塔身には梵字や種字、本尊の仏を刻出し、さらにこれに願文や願主名、年紀などを刻んでいる。また板碑には二種類あって、壁面に彫られたものと、独立して制作されたものがある他、全国的には関西形式、というべきか、あるいは律宗形式というべきかはっきりとしないが、横幅の広いものもある。次回はこうした「やぐら」を歩くことにしよう。

 

 (つづく)

 

 

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