川尻祐治

(16) 鎌倉のやぐら(一)

  鎌倉は奥津城(おくつき)といわれる。万葉集でいう奥の城・祖廟であるが、現代でいえば墓所のことで、今でも鎌倉旧市内の工事現場などから、歴史的な白骨が出土したというような話は、ここでは珍しくもない。そうした中で、いかにも奥津城の名に相応しいのが、「やぐら」とよばれる鎌倉時代中頃から室町時代にかけて造られた横穴式の墓所である。

 今これらの「やぐら」の多くは、鎌倉を取り巻く山々や、周辺部とを結ぶ切り通し付近、あるいは寺院の境内や町中の崖部などにあって、鎌倉ハイキングに余所のハイキングコースとは異なった、いかにも鎌倉らしい印象を与えている。しかしそれも知らなければ、単なる横穴か防空壕とみて通り過ぎてしまうことが多い。

 「やぐら」の名称は鎌倉独自の呼び方といわれ、矢倉・矢蔵・屋蔵・窟などの字があてられているが、江戸時代の『鎌倉志』寿福寺の項には、畫窟、俗にえかきやぐらというとあり、また幕末の『鎌倉攬勝考』には、岩窟として十王窟(やぐら)、朱たるき窟(やぐら)などと図示し、これらは古墳であろうと推測し、いずれもやぐらとルビをふっている。こうした「やぐら」は山間や山裾の崖部に露出した岸壁を利用した横穴で、今でも旧市内の比較的知られた、寿福寺の政子と実朝のやぐら、明月院のやぐら、覚園寺裏山の百八やぐらなど、千数百も数えるといわれ、落葉に埋もれたり、埋没しているものを数えれば、五千以上はあるといわれている。しかしこれだけ多くの「やぐら」があっても、埋葬された主もわからず、なぜ鎌倉に限って多く造られたのかもはっきりとせず、謎を秘めて歴史の中に風化しつつある。


 この「やぐら」の中に入ってみると、鎌倉期の古いものでは、羨道と玄室が備わり、玄室内には祭壇が設けられるなど、「やぐら」が小型の石窟寺院の趣を備えた墳墓窟、あるいは供養堂であったことが分かる。

 大きな「やぐら」は、入口部に扉を付けた跡や、玄室への導入部に当たる羨道が造られており、納骨または供養に用いられる本体の玄室は矩形で、一辺が大きなもので約四メートル、小さなものでニメートル程で、大体は天井は平たく、人が十分立てる高さがある。埋葬者は一人のほか、複数の人の火葬骨を埋葬したと見られる埋葬穴が掘られている。壁面には五輪塔や層塔、梵字などを浮彫りとしたり、また仏像を彫刻したりする他、窟内全体に漆喰を施すなど、祖廟として荘厳化され、僧侶こそいないがミニ石窟寺院として造られたことがわかる。壁面に龕のある「やぐら」もあるが、これらは後世に埋葬穴が足りなくなって追窟されたとみられる。
 

 こうしたことから「やぐら」は鎌倉の歴史、石造美術品を勉強する人にとって、非常に興味深い遺跡であることがわかるが、房総の館山や仙台の松島などにも、同様な「やぐら」をみることができるというが、なぜ鎌倉に限って集中的に営まれるようになったかは、はっきりとせず、議論をよんでいる。

 「やぐら」の謎解きにヒントを与えてくれる一つが、『新御成敗状』に記された「仁治の禁令』である。

 仁治三年(1242)正月十五日に豊後(大分)の守護大名大友氏が自国の府中に布告した禁令で、これには

 「一府中墓所事 右 一切不可有、若有違乱之所者
          且改葬之由 被仰主、且可被召其屋地矣」

とあり、

 府内に一切の墓所があってはならないこと。もし在ったときは改葬し、その墓地を没収するという厳しい規制で、大友氏が幕府の禁止令を受けて公布した布告である。この「仁治の禁令」が、「やぐら」の誕生の大きな原因とするのが一般的な解釈である。しかしなぜ鎌倉にこうした規制が必要であったのだろうか。

 今さらいうまでもないが、鎌倉は三方が山、南は海に開けた鎌倉城とさえよばれる要害の地であることは、今も昔も変わりがない。その袋の中のような土地は平坦地が狭く、その狭い中に少なくとも五〜六万人、多ければ十万という人々が住んでいたと推測されている。

 現代、鎌倉時代の鎌倉に相当する地域の面積は、14.22平方キロあり、平成七年九月の調査によれば、そこには46,368人の人々が生活している。しかも山腹が削られ、山林が破壊され、また海岸部も改修が行われるなどして、現代は宅地化が大幅に進み、居住環境は大きく広がっている。こうしたことから当時の鎌倉が超過密都市であったことは十分に想像できる。

 「仁治の禁令」の仁治三年(1242)といえば、北条義時の子、執権北条泰時の時代で、承久の乱(1221)を経て20年、鎌倉幕府の基本法典である貞永式目(1232)の制定も終り、幕府は充実安定した時代であった。そうした鎌倉に全国から人々が集まり、狭い土地の利用には限度があり、住宅事情は非常に悪かったことが十分予想される。

 こうした中で、平安時代の末頃から貴族や上級武士の間では、仏教の広まりと共に、法華堂や持仏堂とよばれる墳墓堂が数多く建てられるようになった。頼朝の法華堂がよく知られる他、その父義朝の小堂、あるいは頼朝の子三幡の墳墓堂、北条義時の新法華堂などが知られており、こうした風習がやがて後家人など武士階級の中に広まっていったと考えられる。

 なお高僧達の墓所は五輪塔などが多く、その寺院境内の平場に築かれることが多かった。一方火葬のための薪すら買うことのできない一般庶民は、浜地や山間にその遺体を放置したようで、由比が浜の海岸近い砂地から、中世の白骨が多数発見されるのもこうした事情と見られる。

 このような状況の中で、現代と同様に、権力者達は自らの地位、権力を誇示することもあって、墳墓室としての廟堂の建立を競ったと考えられ、狭い鎌倉の土地利用の制限は、広い面積を必要とする墓所の制限という都市計画から始まったと考えられる。

 しかも仏教の教える作善の一つ、親の供養、祖先の供養という、来世安穏・追善の信仰、あるいは浄土信仰の一般への浸透などから墳墓室建設は止まることはなかった。こうした要求に応えたのが、新たな平地を必要としない岩壁や、崖を利用した横穴の墳墓室あるいは供養堂としての「やぐら」であったと考えられる。百八やぐらに見られる仏の世界を現す種字曼陀羅や岩壁に彫られた種字、地蔵などの諸仏の彫刻などが、そうした状況を物語っている。

 

 そしてその多くは、山間に神や仏の世界、霊場があると考える伝統的な日本の信仰に基づいて選地され、加えて鎌倉という新都市の建設、社寺の建立などもあって、石工やその集団など、多数の石造技術者が存在し、「やぐら」の掘削も容易であったと考えられる。

 一方今まで「やぐら」は鎌倉に集中的に見られ、独自のものとして見られてきたが、決して鎌倉だけのものではない。

 昨年読売新聞に-「やぐら」房総に500基-の見出しで、房総半島館山を中心に500基もの「やぐら」の存在が確認されたことが報じられて話題となった。もちろん房総半島は、土地が狭いとはいえないが、鎌倉とは頼朝の旗揚げ以来、関係の深い土地であって、「仁治の禁令」が忠実に受け止められたと考えられる。

 また「仁治の禁令」を記す大友氏の場合、その領地である大分には、石窟内に彫られた磨崖仏が多く残されているが、石窟の形態や、磨崖仏の様式的な時代の違いなどもあって、詳細の調査をしなければ結論は出せないが、その多くは石窟寺院ともいうべき規模の大きな窟堂で、荘厳化という意味合いでは「やぐら」との共通点が見られるほか、鎌倉期の磨崖仏や、納骨穴とも見られる穴の開くものもある。こうした地域では鎌倉の上地利用とは異なった意味合いから窟が発生したと考えられ、加えて木造の仏堂建設より経済的なことなどもあって、各々がそれぞれの理由によって「やぐら」というベき墳墓堂が造られたと考えられる。それでは鎌倉の「やぐら」が、「仁治の禁令」から始まったかというと、必ずしもそうではないようである。この地域の岩は砂岩の凝灰石で、材質は柔らかく、風化が進みやすいこともあって、「やぐら」そのものからは、製作の年代を知ることは非常に難しいが、中には出土品から製作年代の推定できるものもある。

 もっとも古いとされる出土品は、朝夷奈切通しの「やぐら」から発見された弘安九年(1286)二月銘の板碑であるが、制作と禁令との間には40年以上の間があって、この空白期間が長すぎるという指摘もあり、「仁治の禁令」と「やぐら」の誕生を結付けることに疑問視する意見が多い。

 しかし識者が指摘するように『吾妻鏡』の、建保三年九月(1215)の項には佐藤伊賀前司朝光が頓死した時、山城前司行政の家の後山に葬ったとある。山中にどのように葬られたかは分からないが、行政が二階堂氏を名乗ることや、二階堂が永福寺のことであるなどから、その後山を永福寺の裏と考えたとき、覚園寺の裏山でもある「百八やぐら」のことが推測され、禁止令以前から山中に葬る風習のあったことを示唆している。このことから、「やぐら」の発生は鎌倉時代初期まで遡るとも考えることもできる。

 一方その衰退は十四世紀の中頃、鎌倉の衰退する室町時代に入ってからで、鎌倉から政治が離れ、武士達が鎌倉に在住することなく、自分達の本貫の土地に定着すると共に姿を消していったと見られる。 

 (つづく)

 

 

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