川尻祐治

(15) 達谷窟(たっこくのいわや)

 十一月初め、鎌倉の飲み仲間たちと紅葉と名所を見ようと、久方振りに平泉を訪ねた。朝七時に貸切りバスで鎌倉をたち、中尊寺に到着したのが午後三時。超特急で見学を終えて毛越寺(もうつうじ)にまわり、あわてて同じ平泉町の達谷窟を訪ねた時はもう五時に近く、杉木立ちの境内は暗く、うっすらと見える磨崖仏の顔・形も判然としなかった。懸崖造の毘沙門堂では住職が声高に夜のお勤めの経を上げていた。

 観光旅行の途中、この窟を訪ねたのは、今から二十年も前だったと思う。薄暗い窟の中に数十体の毘沙門天が安置されており異様な雰囲気に驚いた記憶がある。
 それからも中尊寺や毛越寺は何回か訪ねたが、この窟を見学する機会には恵まれず、その都度、今一度この窟を訪ねてみたいと念願していた。しかし今回も夜となって十分の見学ができない。半ば諦めて厳美渓の旅館に入った。
 翌日朝食が終わった後、旅館出立前に一時間程時間ができた。思いを達するために達谷窟ヘタクシーを飛ばした。天気は快晴、山裾の紅葉も見事であった。


 窟の開門は午前八時ということでまだ入り口が開いていなかったが、準備中の受付所のご婦人に無理をいって境内に入れて項く。

 昨夜も誰かに聞かれたが、何故か参道の途中に鳥居が建っている。神社と仏堂が同じ境内にあるのはしばしば見られるが、鳥居をくぐって仏殿に詣るのは確かに珍しい。特に左右に稚児柱を設けたこの鳥居は、厳島神社などに見られる両部鳥居で、華やかに朱で彩られて鮮やかである。東北人は寺で拍手をうつという話を思い起こした。
 窟の毘沙門堂を管理する寺は、真鏡山広照院西光寺とよぶ天台宗の寺で、現代では東北三十六不動尊二十三番霊場とされる。一般に開基は智証大師円珍と伝えるが、寺では奥真上人を開基としている。


 窟の初見は文治五年(1189)九月二十八日、平泉の藤原泰衡を平定した頼朝が、鎌倉に帰る途中で「田谷窟」を遠望して、側近に尋ねたことが『吾妻鏡』に記されている。
 これによれば、達谷窟は延暦二十一年(802)、坂上田村麿、あるいは利仁将軍の蝦夷征伐の時、蝦夷の頭主悪路王(阿弖流為-あてるい)や高丸・赤頭(あかがしら)が砦を造った跡といわれる。これは悪路王等が勢力を強め、三千余人の手兵を率いて駿河国まで進出したために、田村麿が討伐に派遣され、討伐の後田村麿が窟の前に九間四面の精舎を建立して西光寺と名付け、京都の鞍馬寺を模して百八体の多聞天(毘沙門天)を安置し、東西三十余里、南北二十余里という広大な水田を寺領に寄進したとある。
 この悪路王は、元亨釈書の駿河国に遠征した奥州の高丸と同一人物とされ、攻められて奥州に逃げた後で殺されたとみえる。あるいは抵抗した後で、田村麿に降伏し、延暦二十一年(802)に河内で処刑された阿弖流為(あてるい)が伝説化したともいわれる。
 田村麿創建伝説の後、前九年、後三年(1051〜62)の役の時にも、源頼義・義家が戦勝祈願のために寺領を寄進したといわれるほか、藤原清衡・基衡も七堂伽藍を建立したなどと伝え、最盛時には三十坊を数える伽藍であったと語り継がれている。


 しかし延徳二年(1382)の兵火のために伽藍を失い、再建された建物も天正年間の戦乱で、毘沙門堂を除いてすべてが失われた。江戸時代に入ると慶長二十年(1615)には、毘沙門堂が伊達政宗の援助で再建され、伊達家の祈願所として寺領が寄進された。しかしその建物も近隣の人家からの出火で再び失われ、復興された建物もまた、昭和二十一年の火災によって焼失し、昭和三十六年になってようやく現在の建物が再建された。したがって詳細な記録は何も残されないが、昭和二十一年の火災の時にも運び出された、本尊の毘沙門三尊をはじめとする諸像が往時の毘沙門堂の面影を現在に伝えている。


 毘沙門堂は、30mほどの岩壁の中ほどにある高さ7、8m、幅20m、奥行き5mくらいの窟を、覆うように建てられた懸崖造とよばれる舞台造りの礼堂である。堂には左右から階段を上るようになっている。
 内陣の窟は格子戸で仕切られ、正面には伊達家寄進の厨子が置かれ、中には本尊毘沙門天並びに妃の吉祥天・子供の善膩師童子の三尊が安置されているというが、秘仏のために拝観はできない。
 厨子を挾んだその左右の脇壇は、各々二列に各十数体もの仏像が安置されるが、その大多数の二十数体が毘沙門天像である。田村麿の創建持には、百八体の毘沙門像を都より安置したというが、現在の像は室町以降の制作と見られる、いずれも像高60cmたらずの立像で、その殆どの像が持物を失ったり、腕を失ったりして何らかの損傷を持つほか、後世の彩色が施されている。これらの像は様式も異なり、制作も同一時期ではないことから、長い間に他所から移されて来たり、また新たに制作追加されたと考えられるが、なぜここに毘沙門天像のみが多数残されるのか謎に包まれている。

 岩手県内には毘沙門像の名作が多く残されていることはよく知られている。5mに近い大きな像で、足元に地天女や毘藍婆、尼藍婆が完全な形で残された東和町成島の毘沙門天像。鉈彫りで名高い江刺藤里の毘沙門天像。あるいは北上市満福寺の立花の毘沙門天像などが名高い。

 平安時代の昔、阿部氏や清原氏など、蝦夷と呼ばれた東国の豪族達を平定するために、中央の政府はしばしば討伐の軍を進めた。本来四天王の中、北方の守護神である多聞天と同体といわれる毘沙門天は、そうした政府軍の鎮護国家の祈りをこめて安置されたともいわれる。こうした祈りは、東北地方への仏教の土着と共に一般民衆の中にも溶け込み、室町時代以後になって、戦乱を避ける民衆の中に、敵国退散の願いをかなえる郷土の守護神として、その信仰が広がったと思われる。窟内の毘沙門天像は戦火で失われた周辺の寺や堂から持ち寄られた像と考えられる。


 達谷の窟に続く岩壁には、前九年の役の永承六年(1051)に、源頼義が戦没者の供養のために弓の頭(弓はず)で彫ったという、岩面大仏とよばれる大日如来の磨崖仏がある。この像は窟の西、30mにも及ぶ垂直の凝灰岩の岩壁に、高さ9m、お顔だけでも2.7mあるという大きな磨崖仏である。風化が進んでいるが、顔面ははっきりと残されており、境内の前を走る県道から眺めるとその全容がよく分かるが、肩から下は不明である。
 また肉髻部や目なども、剥落や風化のため全体にはっきりとは確認できないが、深く切込んだ両肩や大きな鼻、厚い唇、これも大きな耳など、茫洋とした中にも素朴な農夫のような力強さが見られる。寺側では同じ岩面の下に刻まれた文保の古碑(1317)に阿弥陀の種子が刻出されていることから阿弥陀如来としている。稚拙な面相などから制作は鎌倉時代後半から室町時代にかけてと見られている。恐らくは本来の彫刻家ではなく、修験僧の宗教的な発想から造像されたと見られる。

 この寺にはこれだけ多くの像があるが、文化財指定の像としては、窟の手前の杉木立の中にある不動堂の本尊不動明王像のみが県の文化財に指定されている。

 この堂には、本尊不動明王像と二躯の獅子頭(室町・江戸時代)、そしてかつて百八体あったという毘沙門天を補うために、住職が制作中という毘沙門天像が安置されている。

 不動明王坐像(像高275.7cm 寄木造 カツラ)

 火炎光背を負い、岩座に坐る大師様とよばれる大きな像で平安時代の制作と考えられており、円珍の制作と伝えている。顔面や胸部に制作当初の一部が残されているというが、後世の拙劣な補修のために確認することは難しく、光背、台座、頭部後半面などもヒノキ・ハルニレなどを使った江戸時代の補修で、制作当時の面影は失われている。


 堂は藤原秀衡が境内の姫待滝の傍らに不動堂を造ったことがはじまりといわれ、悪路王が都より姫君をさらってきて達谷の窟の上方に姫を閉じ込めて、花見を催したといわれ、逃げようとする姫の行く手を塞いだのが姫待滝であったいう伝説がある。
 姫待ち不動の奥に平成七年に完成した金堂が建つ。正面五間、奥行き六間の大堂で、本尊は薬師如来。
 また窟の前にある小さな池は蝦蟆ヶ池とよばれ、その旧護岸からは平安時代の瓦片が出土している。中の島には弁天堂が建てられ、本尊八臂弁財天像も円珍作の伝承をもつが、この像は近世の作と見られる。

 近くの中尊寺や毛越寺とは異なり、訪ねる人も少ない寺ではあるが、それだけに古刹としての面影を残し、しかも東北に多い毘沙門天像を数多く伝える寺として是非一度足をのばすことをお勧めしたい。

 

 

 

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