川尻祐治

(14) 威徳寺と122躰の仏

 丹波の山間の町、福知山のこの寺の諸仏を訪ねたのは偶然のことからだった。

 丹波と但馬の古寺の仏像をめぐる旅先で、仲間の一人が盲腸になった。普段から控えめな女性ではあるが、新幹線の中から余り喋らず、丹波篠山に到着した時は腹を押さえており、翌日に緊急入院して手術を受けることとなった。
 こうしたことから但馬の旅の終わったあと、お見舞いのために篠山に一泊することになり、翌日の午前中に時間ができた。無為に過ごすこともないと思い、近隣の古寺、古仏を思い起こす内に、福知山の威徳寺の諸像を思い起こした。
 本誌220号「鳥冠の兜跋毘沙門たち」に挙げたように、若狭正楽寺・福知山威徳寺・兵庫氷上町達身寺そして八千代町楊柳寺に見られる兜跋毘沙門像には関心があった。(最近尋ねた愛媛県北条市の庄地区にも鳥冠の兜跋毘沙門があり、鳥冠の像は各地にまだあると思われる。お気付きの方がいたら、ご教示願いたい)
 ここから比較的近い達身寺の群像は何回か訪ねたが、威徳寺の諸像にはまだお目にかかっていない。篠山から福知山までは特急で一時間たらず、十分時間はある。

 翌朝、調べた地区の管理者に電話。不意の電話で許可を渋っている。関東から来て、今度はいつ来ることができるか分からないこと、お参りが数十年来の念願であったことをクドクドと説明した。しかし鍵は別の人が保管しており、その人の都合が分からない言うのを、ともあれそちらに向かうという事で、強引に拝観を申し入れた。今までの経験から仏様を拝みたいという気持ちは、少々の無理があっても管理する人に通じる筈だ。
 福知山駅前からのタクシーは、岩戸の威徳寺と言っても知らなかった。山陰本線に沿って流れる由良川の支流、牧川に平行して国道九号線を下る。周辺の山は大江山連峰の一角である。約9km、野笹の公会堂が目印。ここから宮坦地区の谷合いを上る。道は細く急坂である。
 上り詰める手前、左手高台の神社のような建物が威徳寺観音堂だった。現在は猪野々にある真言宗御室派安養寺に所属する無住の堂であるが、通常は岩戸地区の人々が年交替でお護りしているようだ。堂の前で、もと校長先生だったという鍵の保管者が待っていてくれた。

 観音堂は間口三間、奥行き四・五間、寺というには質素なこの堂の中に、平安の諸像が122躰も安置されていると思うと不思議な気持ちがする。

 現在の威徳寺は観音堂に寺名を伝えるだけだが、かつては相当人きな伽藍をもったこの辺りの大寺であったようだ。今では境内がどこにあったかなど、その所在地すらはっきりとしていない。
 山を挾んだ下佐々木地区の同宗威光寺には、平安時代の毘沙門像や、古記録などが多く伝えられている。その古記録の中には、天文四年(1535)この辺りが管領細川氏の支配下にあったことから、三好の兵が攻め込んで戦となり、兵火のために威徳寺をはじめ今安寺・威光寺が焼失したことを記している。さらに天正七年(1579)には明智光秀の福知山城普請のために、今安寺・威徳寺をはじめとする周辺三六ヶ寺が取り潰され、各寺の石塔類が城壁の石垣にするために持ち去られ、その後寺が再建されることはなかったという。中でも今安寺・威徳寺の二ヶ寺の僧侶たちは、反明智派のために憎まれたことが記されており、威徳寺はこれを境に歴史を失ったと考えられる。堂の前に建てられた福知山市教育委員会の説明板によれば、この時に取り壊された諸寺の仏たちが、心ある人によって集められ、今この堂内に安置されていると記される。

 堂内の仏像群は現在三室に分けられて安置されている。正面奥の内陣に、この堂の本尊千手観音立像と比較的大きな如来坐像や菩薩立像などが安置される。手前左の間には等身大の勢至菩薩立像、四天王など。さらに向かい側の室には100躰はあると思われる小像が、雛壇状にぎっしりと安置されている。

 本尊千手観音立像 像高は2mを超す一木造の大きな像である。体躯には幅があり、その肉取りは厚く、威風堂々とした像である。四二臂は両肩で矧付けとしている。ボリュームのある両腿を包んだ裳の雛には、浅く翻波式衣文が刻まれるなど、九世紀頃の様式を伝える古様な像である。しかし頭上の化仏や全体の粗野な彩色は後のもので、特に厚い補彩は馨跡を覆い隠し、木像の威厳を損ねている。大きな鼻梁、分厚く突き出した唇などには、地方的な逞しさが感じられる。この堂の本尊に相応しい像である。
 光背は板光背であるが、像に比較して小さなことから、他の像から転用したと見られる。

 如来坐像 像高136.0cm 一木造 この像は威徳寺の本尊像に比定される。両手首とも後補のため尊名ははっきりしないが、言い伝えでは薬師如来とよんでいる。螺髪を切り付けとした大きな肉髪を頂き、彫眼は伏し目で、小鼻が広がり、突き出した口元には特徴がある。三道を太く刻出し、体躯も幅があり量感がある。衣の処理は大まかではあるが明確な形法で、全体に均衡のとれた11世紀頃の制作と見られる像である。

 如来立像 一木造 像高約100cm この寺には朽損仏をはじめ、錠彫りあるいは未完成とも見られる像が多数安置されているが、本像もまた頭部や面相の他、両手首から先を欠失するなど損傷が多い。しかし、原形を良くとどめた中央風の作風をもった完成像で、おそらく11世紀頃に制作された像と見られる。

 兜跋毘沙門天立像 一木造 像高 約100cm 内陣向かって左隅手前に毘沙門天、その後ろに兜跋毘沙門天の小像が安置されている。いずれも損傷が激しいが、毘沙門天が踏まえる邪鬼や兜跋毘沙門天の地天女が確認でき、尊名を知ることができる。特にこの堂内には四躰の兜跋毘沙門天像が安置されているが、写真の像は損傷が少ない像で、地天女の左右に配置する毘藍婆・尼藍婆を失う他、鳥冠の前部、鳥の頭と胴部を失ってはいるものの、左右の羽と尾羽が僅かに残り、この像が鳥を彫り出した正楽寺や達身寺、楊柳寺像に共通する鳥冠の兜跋毘沙門天像ということを確認できる。毘沙門天共々11世紀頃に制作されたと見られる。


 内陣には他にも多くの像を安置している。

 内陣の手前、向かい合って左右に脇陣がある。左室の前面には各々両肩より肘部を失った等身大の四天王と見られる二躰の武将像をはじめ、その後ろにはこれも等身大の伝勢至菩薩立像、法衣の襟に鉈彫り状に鑿跡を残し、両大腿間の衣文をY字型に刻出した古様の天部形立像が安置されている。これら四躰の像はいずれも一木の像で、足裏に柄があって台座に差し込むようになっている。恐らく11世紀に入ってからの制作と見られる。


 一方右室には一木の小像が、床上から天井まで、雛壇上に隙間なくギッシリと安置されている。それらの像の多くは朽ち果てる手前の像で尊名も定かではない。如来をはじめ菩薩・天・神将像など、その種類も様々で賑やかである。

 こうした122躰もの像の中、等身大の大きな像は、かつて明智光秀に破壊された三六の等々の堂塔の本尊像であったということから、それらの寺から移された像という考えもあるが、その中には未完成品とも見られる像も多いことや、同一系統の仏師の制作と見られる像もあることから、ここには達身寺にもいえるように地方仏師の工房があったという考え方もある。いずれにしても、これだけの像が、いつ誰の手によってこの観音堂に集められたのか、今では歴史の彼方に忘れ去られている。無住でしかも小像の多いことから盗難も多く、すでに十数躰の像が盗難などによって行方不明ということであった。

 (威徳寺の寺崎をはじめ諸仏については、仏教芸術六三号に「威徳寺の仏像群」と題した中野玄三氏の詳細な論文があるので、これを中心に参考とさせて項いた)  

 

 

 

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