川尻祐治

(13) 出雲・大寺の御仏たち

 今夏の『目の眼』友の会の旅行は、松江・出雲の旅だった。仏谷寺.神魂神社.鰐淵寺・安食窯・荒神山遺跡・奥出雲たたら遺跡など、盛り沢山の内容豊富な旅で疲れた人も多かったと思われる。

 一日目に訪ねた出雲市東林本町の大寺(おおでら)は、斐伊川の近く、国道431号線から200m程入った平坦部にあり、辺りには古墳が点在するなど、古代にはおそらく出雲の豪族が住まいした土地と考えられる。
 大寺は寺号を万福寺というが、この辺りでは、大寺薬師の名の方が知られ、大寺奉賛会で管理される無住の寺である。

 薬師浄土を表す「瑠璃」の偏額のかかる山門をくぐれば、六体ほどの石仏が並ぶ明るい境内があり、正面に一段高く、大社造りをイメージしたコンクリート製の立派な収蔵庫が建ち、寺としての体裁が保たれている。
 この収蔵庫には本尊薬師如来をはじめ、脇侍の日光・月光菩薩の他、二体の伝観音菩薩と四天王像、そして朽損の進んだ四体の像が保管されている。

 パンフレットによれば、この寺の創建は推古天皇二年(594)、智春上人に遡る。天平13年(741)には全国巡錫中の行基が暫く留まり、「衆病悉除身心安楽」を祈願して、みずから薬師如来をはじめ、諸仏を彫り、七間×十二間の金堂・阿弥陀堂・釈迦堂・観音堂・七重大塔・一切経蔵などを建立して諸像を安置したと伝えている。

 寺伝はともあれ、推古天皇二年の智春上人創建といえば、当寺の奥、平田市の古刹鰐淵寺の創建縁起と一致しており、この寺と鰐淵寺との結び付きが推測される。
 その後、大寺の歴史を記す資料は見当たらないが、永禄七年(1564)になって、荒廃した大寺は極楽寺(平田市平田町)の住職心誉玄休によって復興される。玄休は鰐淵寺よりこの寺を貰い受け、現在地より数百mの奥になる広瀬に、六間四方の建物を建て、浄土宗の寺として再興したといわれている。
 しかし再建された寺も、慶安三年(1650)に大洪水が引き起こした山崩れにより、建物をはじめ諸仏が破壊、埋没してしまい、のちに万福寺境内に、三間四方の薬師堂が建てられ、残存の諸仏が集められて現在の大寺が再建されたと伝えられている。
 この再建以来、建物は幾度かの改修が加えられ、昭和50年に現在の収蔵庫が完成し、出雲様式と呼ばれる九体の像が安置された。

 前日訪ねた美保町仏谷寺の薬師如来をはじめとする諸仏、あるいは広瀬町禅定寺など、中央の平安初期彫刻を基本としているが、全体に不足する緊迫感や躍動感、衣制などの簡略化、また仏谷寺薬師像の腹部に見られる二重円弧、如来像の頭部や面相の表現、菩薩像の高い宝冠、あるいは下半身に重心を置いた体躯など、この地方の像に共通する特徴をとらえ、出雲様式の像と呼ばれている。

 薬師如来坐像(国指定重要文化財)

 一木造 彫眼 古色 像高133.7cm

 クスノキの一木から刻出されたこの像は、背中から内制を施して木割れを防ぎ、膝に横木を一材で当てるほか、両手首などに別材を使用している。頭部には大粒の螺髪(らほつ)を切付けとした高い肉髻をもつが、肉髻と地髪部の区分が明瞭ではない。面相は丸く鼻梁は大きく、口や口元も浅く彫り上げ、人きな耳朶が外側に向けて反りかえっているが、豊かな頬とあいまって全体に温和な表情に造られている。また肩幅は広い怒り肩で体躯の奥行きは深い。結跏趺坐の膝は、膝頭を高く正面中央の足首部を低くするために、安定感はあるが力を欠く結果となっている。

 着衣は襟元を、立てて抜き襟とし、右腕前に三角状の折り返し、左胸前には旋転文を造り、衣皺は全体に幅広に刻み、いわゆる平安初期彫刻にみられる翻波式衣文に倣うが、形式化して鑿跡の鋭さに欠けており、この像が平安時代の11世紀頃に制作されたことを窺わせている。

 日光菩薩・月光菩薩立像(国指定重要文化財)

 一木造 彫眼 古色 像高 日光161.7cm 月光160.3cm

 いずれもヒノキの一木から刻出された像で、各々日輪・月輪を持ち、古様を残す像である。二体の像の制作はほぼ同時代と見られるが、様式的には相違があり、制作者が違うことがわかる。

 日光像は左膝部を僅かに屈折して膨らませるのに対して、月光菩薩が直立の姿勢を保つ。また日光像の相好は、伏し目とし全体におおらかであるのに対し、月光像は目鼻立ちもこじんまりとまとまり、気品のある表情に造られている。いずれも筒型宝冠を項くが、日光像のそれはより高く、項き部に単髻の上部を表す。地髪部の天冠台は幅広く、地髪は疎彫りである。月光像は耳朶に髪が一条かかる。画像の天衣や裳の刻出など詳細は異なるが、月光像の方がより技巧的な彫刻となっている。持物や両足首先の他、肩や前博部などに補修がある。

 いずれも本尊薬師如来と同様に平安初期様を伝えた11世紀頃の制作と見られる像である。

 観音菩薩立像 二躰(国指定重要文化財)

 一木造 彫眼 彩色剥落 像高 小像148.0cm 持蓮華像161.5cm 

 二体ともやつれ、あるいは慶安三年の大洪水の時に、土中した像かもしれない。ヒノキの一材から刻出された像で、当寺の日光・月光菩薩像に通じる古様を示している。小像は奉蓮の形をとるが、体躯には動きがなく、静かな雰囲気を伝えている。持蓮華の像は右足を遊足とし、宝冠をかぶらず、単髻のみ刻まれている。この二躰の像もまた、11世紀の制作と見られる。


 四天王立像 四躰(国指定重要文化財)

 一木造 彫眼 彩色剥落 像高 持国天187.0cm 増長天193.0cm 広目天像182.4cm 多聞天189.0cm 

 大寺の諸仏の中で、識者から高い評価を受ける像がこの四天王像で十二神将像の一部とも考えられている。写真でみると上半身がやや細身で迫力に欠けるようにも見られるが、いざその前に立つと迫力が迫ってくる。いずれも唐風の鐙に籠手・腰当てを付け、右ないし左前方を睨み据え、裳裾を重々しく垂れるなど、全体の動きこそ少ないが、それなりに調和がとれている。いずれも奈良から平安初期の様式を伝えた像で、他の薬師をはじめ四菩薩像より、時代が遡ると見られ、九世紀頃の制作と見られている像である。

 管理者の話によれば、見学者のある人は、この像がロシアのエリツィンの顔に似ているから、昔の渤海、今のオホーツク海沿岸にいたロシア人が造ったに相違ないといったといい、管理者もまた信じているようだが、古代の謎を秘めた出雲ならではの話かもしれない。

 持国天 左に三叉矛をつき、左足を半歩踏み出して右前方を睨み据えた像で、多聞天像とほぼ同形の像である。正面腹甲の帯に旋転文を刻出する。

 増長天は右手を頭上に振り上げて剣をかざし、右足に体重をかけて、わずかに首を傾けて右前方下を睨む。丸く高い宝髻を結い上げて、地髪の前には正面と左右を囲む透かし彫り風の宝冠を項く。腹部には獅噛(しかみ)を付け、腹前に垂らした天衣の下に旋転文を刻出している。

 広目天もまた持国天と同様な像であるが、左手に経巻を執り、視線はこれに当てる。腹前の獅噛も繊細にならず好ましい。左鰭袖には旋転文を刻出している。

 多聞天 持国天と同形の像であるが、宝髻前に山形の三面宝冠を刻出するほか、腹部正面に獅噛を大きく刻出している。
 多聞天は毘沙門天と同体といわれ、本像もまた腹前で右手掌に宝塔を奉持している。

 他に伝役ノ行者、朽損像三体が残されている。朽損像の中一体は、兜跋毘沙門天に似た西域風の鎧をつけていると見られる像であるが、摩耗が進む他、足下も失われ尊名は不明である。
 いずれにしてもこの辺りに、平安時代にこうした諸像を安置していた大きな伽藍が存在し、自然災害があったとはいえ、今では記録も残らない幻の寺となってしまったことは、不思議なことである。

 

 

 

 

 

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