川尻祐治

 

(12) 岩窟の仏

 

 日本各地を回っていると、岩屋堂・窟堂などとよばれる、仏を祀った小堂を見掛けることがある。しかしそれらの多くは小規模で、インドや中国のように、岩山を穿ち洞窟をつくって内部を荘厳化した、石窟寺院とよばれる大規模な遺構をもった例は全く見られない。

 外国に見られる、石窟寺院は、大別して奥壁にストゥパーを刻出した祠堂窟と、僧房にあたる僧院窟に別れ、一つの伽藍が形作られているが、時代が下ると共に、祠堂窟にはストゥパーがなくなり、代わりに方柱が彫り残され、仏龕・仏像などが彫られるようになる。

 また、石窟寺院は気候風土に関係しており、乾燥地帯にその遺構が多く残され、多湿地域の例は少ない。これはそこに生活する僧尼たちの、生活環境に適した気候の土地が選ばれたことが最大の原因であろうが、結果的には石仏や塑像彫刻あるいは窟内の壁画を保存することにもなった。

 わが国では石窟寺院とよばれる遺構が見られないことは、外国のような大規模な岩山がないことにもよるが、岩窟があっても岩肌に清水の滲み出すような環境が多く、大規模な石窟を造る条件としての岩山や、岩窟あるいは洞窟を見付けることが難しかった。逆に、その分建築用材としての木材が豊富で、あえて、作業に時間のかかる、岩石を利用することの必要がなかったことが最大の理由と考えられる。

 


 しかし、浅い岩窟内の露出した岩面に、仏像を刻み、やがて、これを保存しあるいは礼拝のために、その前面に庇(ひさし)状の屋根を差し掛けた、ささやかな覆い屋的な小堂が生まれ、そこで修法などが行われるなど、ごく自然に発達するが、僧房が造られるといった大規模なものは生まれず、日本での石窟寺院は初歩的な段階で止まり、これ以上に発達することはなかった。

 こうした堂を一般に岩屋堂(窟堂)などとよんでいる。

 岩屋堂の大きなものとして、一般に大岩不動で名高い富山県日石寺の不動堂、宇都宮市郊外の大谷寺や福島県泉沢薬師堂などがあり、中でも大谷寺の岩窟は、古代に住居して使用されていたことが知られている。また数多くの木彫の毘沙門像が安置される岩手達谷窟(たっこくのいわや)(図3)などが知られている。大分の仏像を巡っていると、そうした大きな堂ではなく岩窟に庇を掛けたような小堂をしばしば見ることが出来る。大分市元町磨崖仏・曲石仏・高瀬石仏をはじめ、犬飼石仏・菅生石仏など、当然のことながら磨崖仏に非常に多い。一方こうした石像以外の木彫の像を安置する例となると非常に少なく、大分県院内町大門の竜岩寺(図1)のほか、三躰の塑像と多数の一木造の破損仏が発見された宇佐市黒の天福寺奥ノ院(図2)などは、石仏以外の像を岩窟中に安置した珍しい例である。

 

 竜岩寺は奥深い山間の寺である。県東部宇佐郡で一番の大河である駅館川(やっかんがわ)、その上流恵良川(えらがわ)の支流、院内川の左岸にあるこの寺は、現在は曹洞宗の寺であるが、江戸時代の享保年間(1716〜35)までは天台宗の寺であった。

 享保20年(1735)の竜岩寺崎縁起(版木)によると、この寺は奈良時代、名僧行基が諸国を行脚し、宇佐八幡へ向かう途中で大雨にあって困っていると、どこからともなく童女が現れて、現在の竜岩寺の地まで行基を案内してくれ、ここに仏像を刻み、寺を建立して欲しいと頼んだといわれる。やがて行基は近くの祇園社で樟(すく)の大木を見付けると、童女の願いに応えるために、この木から薬師・阿弥陀・不動の三体の仏像を刻み、天平18年(746)に寺を建立して、三体の像を安置したことから始まると伝えている。このためにこの寺は行基が創建した49院の一つに数えられるともいわれ、院内の町名はこの伝承から生まれたともいわれている。もちろんこの伝説は後世に付加された話である。

 本堂には可愛らしい薬師十二神将立像(県指定文化財)が安置されている。いずれも木彫の50cm前後の小像であるが、彩色は剥落し素地を現している。頭部を大きくした人形を思い出す像容をもつ。制作は室町時代とされる。

 

 本堂の脇を回って裏手を上ると、やがて懸造(かけづくり)の奥の院岩屋堂の礼堂が現れる。岩屋の周囲は昼までも暗い濃い緑に包まれ、雨上がりにはもやが立ちこめ、神秘的で宗教的な霊気があり、一度でもこの寺を訪ねれば、容易に忘れることの出来ない印象を与える堂である。

 戦国時代の天正年間(1573〜91)の頃、北九州の覇者でヤソ大名として知られる大友宗麟(そうりん)が、キリスト教布教のために、領内の寺々を焼き払ったとき、堂内の三体の仏堂と共にこの堂だけは焼討ちを免れたと伝えられている。しかし宗麟の領内の社寺焼討ちについては誇張されて伝えられているようで、本当にこの寺まで焼討ちの手が及んだのかどうかは疑問である。

 奥の院の礼堂は、岩窟に差し掛けるように建てられた岩屋堂で、懸造いわゆる舞台造りとよばれる高床の建物で、正面は蔀戸をいれ、桁行は三間(2.28m×三間)、奥行は梁間二間(1.82m×二間)ある(図4)。片流板葺きとした屋根は、外陣に庇状に掛けられ、純和様の礼堂建築である。舞台造りは京都・清水寺や鳥取・三仏寺投入堂など、眺望の優れた観音堂にしばしば使用される建築様式である。

 この建物は昭和33年に解体修理され、棟木の下端から「奉修造岩屋堂一宇□□・・・□□弘安九年歳次丙戌(1286)二月廿二日」の年記が発見され、鎌倉時代の古い建築であることが分かった。またこの調査から、礼堂の造られる以前に舞台用の施設があったことが確認された。

 

 現在は堂の横から入室できるようになっており、外陣部の奥行きが浅く、岩肌を見せた大きな窟を内陣とし、安置された三体の大きな像が目の前に追ってくる。当初からの建物としては滅多になく、九州地方に残る年代の知られる建物としては一、二を争う古建築であることが知られている。

 堂前に差し掛けられた梯子もまた古様で、町の文化財に指定されている(図4)。10mほどある樟の丸太を使い、これに刻みを入れて足掛けとした素朴なもので、まるで古代人が昨日まで使っていた梯子である。こうした梯子は伊勢神宮と鵜戸神宮(宮崎県)に見られるだけといわれている。

 内陣の仏壇には三躰の像が安置されている。中尊は阿弥陀如来坐像(木造 素地 293.0cm)、両脇に薬師如来坐像(木造 素地 303.3cm)・不動明王坐像(木造 素地 283.0cm)を安置する。いずれも樟の一木を使って彫刻された像で、一木による木割れを防ぐために背後から内剖を施している。平安後期藤原に入ってからの制作と見られ国指定重要文化財。

 いずれの地方にも中央で造像されてその地方にもたらされた、あるいは中央の作者がその地方に逗留して造像された、技術的に洗練された像と、その地方の作者によって制作された地方色の多い像があるが、この三体の像はいずれも後者の例である。

 


 阿弥陀如来坐像

 定印を結んだ大きな阿弥陀像で、頭部は高く、肉髻の螺髪は省略している。衲衣も細部は表さず、大掴みである。別木の膝は体躯に比べて幅を広く取り、その面均衡性を欠き地方的な像となっている。しかし深く刻出した髪際や陰影をもってはっきりと刻んだ眉や目、また身元・唇など、独特の簡略化された形法で表されており、地方的な像とはいっても高度な技術のもとに、腕の達者な仏師が造像したと見られる像である。

 

 薬師如来坐像

 窟内の一番手前に安置された像で、彫法は阿弥陀如来と目の刻出などが異なるが全体に同一であり、同一作者のもとに造像されたと見られる像である。この像もまた、意識的に螺髪は刻まず、肉髻部分を三段に刻んでいる点は、作者が全体に簡略化した意図的な形法と読み取ることができる。

 

 不動明王坐像

 この像もまた、前二尊と同様に同一作者が造像したと見られ、同じ作風をもつ像である。当然に不動明王本来の忿怒の相好をもつが、誇張が目立ち若干迫力に乏しいことなどは、本像の制作が藤原に入ってからということを物語っている。肘から先は別木であるが頭体部は一木で、頭部に簡略化した頂蓮を置き、正面に櫛をほりだしているが、髪筋は刻まず、肩にかかる垂髪もまた編み目のみ表すなど省略が多い。また条帛や裳の現し方も最小限にとどめ、簡潔に彫られた臂釧などと併せ、全体の彫刻は大まかである。

 

 

 三体の像はいずれも彩色のない、木地を表した素木の像であるが、表面の木肌は枯れ、像そのものが背後の岩肌に溶け込んだような、霊的な雰囲気を盛り上げ、この奥の院ならではの仏像という感じがある。恐らく真摯な仏道探求の修行者の意図に従って彫刻された像と考えられる。

 しかし寺の創建と共に何時、誰が、何のために造像したか、なぜこの岩屋に安置したのか、後世の縁起の他には何も伝えているものがなく、謎に包まれたままである。

 

 

 

 

 

 

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