川尻祐治

 

(10) 立木(たちぎ)の仏

 

 誰でも近くの神社や寺、あるいは路傍で、しめ縄を巡らせた古木や大きな岩、井戸などを見掛けたことがあると思う。
 それらの多くは自治体の天然記念物などに指定されているが、神が降臨した、あるいは高僧にまつわる奇瑞が起きたなどの伝説があり、多くは民間の信仰対象とされている。
 昔の人々、科学が未発達の時代の人々にとって、自然の中の人知を超えたものは、すべて神々にまつわるものであり、それらには神が宿ると考えた。こうした自然崇拝の形を精霊信仰とよんでいる。
 このような信仰は日本に限らず世界各地に見られるが、日本の神道では今でも山や巨木、また巨岩そのものを信仰の対象としている。これに対して仏教では、それらの中に、顕現、あるいは作者自身が感得した神・仏を彫りおこし、これを信仰することが多い。
 このうち仏教に関するものを分けると、立木に彫刻された立木仏(たちぎふつ)、岩石に彫刻された磨崖仏の二つに分けることが出来る。
 このうち立木仏をみると、美術史でいう一般的な立木仏で、仏が顕現した霊木などに彫刻された歴史的な像と、生木の立木に彫刻され信仰そのものを語ってくれる野外の生木の仏がある、
 美術史上での立木仏は、素材が一木の木ということから、背が高く、横幅をとることが難しいため、腰のくびれのない変化に乏しい像が普通である。これに対して現在でも成長を続ける、大木、生木に彫られた生木仏は大木の空洞(うろ)に彫られた小像が多い。

 

 
hspace=15 美術史の立木仏としては、長野県上山田町知識寺の十一面観音像や茨城県八郷町西光院の十一面観音像、また立木の観音の名で親しまれる栃木県日光中禅寺の千手観音像、福島県会津恵隆寺の千手観音像、滋賀県大津の安養寺観音像などが有名である。これらは3mを超す大きな像が多く、制作も鎌倉時代以前と見られる。現在は堂に安置されており、立っていた木そのものに彫刻されたのか、倒木に彫刻されたのかは分からない。しかしいずれも根の部分は失われているというが、それが一旦切り離して彫刻したのか、朽損のために切り離されたのか、不明な点が多い。従って本来の土地にあったのか、移されたのかも分からない。

 一方、今でも成長を続けている立木、生木に彫刻された像は、木の幹に出来た空洞(うろ)の中の幹部に彫刻されており、空洞という制約から、1m前後の小さな像が多い。いずれも江戸時代に入ってからの近世の像で、制作は熱烈な信仰に裏付けられている。

 私は今までに生木の像に四回程お目にかかった。そのうち二回は昨年の夏である。

 一回目は七月の初め、目の眼友の会主催「山口・萩・津和野の旅」の際、萩から津和野にでる間に拝観した福栄村願行寺の、カヤの大木に彫られた木喰の菩薩立像である。帰京後何人かの参加者から、この旅行でもっとも印象に残ったのがこの木喰の立木仏であったと伺った。

 二回目は八月末の「香川・愛媛仏像の旅」である。香川県大野原町の町中にある「生木の地蔵」は、楠の大木の空洞に彫られており、今でも信仰の生きている像である。また他に、十数年前になるが、福井県の若狭、上中町諦応寺にある、銀杏の大木に彫刻された十一面観音像を参詣したことがある。

 さらに千葉県船橋の中山寺の境内には、昭和四十年代に入って、彫刻家の制作になった像があるが、ここでいう仏教的な生木の像とは若干異なっている。

 この他にも生木に彫った像は、全国各地にまだまだ多くあると思われる。

 

hspace=15hspace=15 願行寺は県道から500mも上がった山際にあり、畑が続き遮るものもなく、本堂前のカヤの大木が遠くからでも眺められる。木喰(享保三年〜文化七年−1718〜1810)は、寛政九年(1797)の4月、七年間を過ごした九州日向の国分寺を後にした。やがて山口に入り、その年の12月11日、萩の東隣りの福栄村福井下榎屋、浄土宗願行寺に到着し、ここに翌年の2月15日まで、約二カ月に亘って滞在した。

 なぜ木喰がこの寺に逗留したかは不明であるが、この寺では生木の像をはじめ、如意輪観音坐像、阿弥陀如来立像、また今は近くの上堂ケ迫の宝宗寺に移された延命地蔵菩薩立像・不動明王立像を制作している。八十歳の老齢とはいえ、その制作意欲は並々盛んであった。

 山門を潜った右側、カヤの根元に簡単なヒサシ状の屋根が設けられ、大木の根元に出来た空洞を保護している。空洞の奥には観音とも、また女身の天部の像ともみられる立像が半肉で彫刻されている。宝髻は大きめに丸くまとめられ、垂髪は長く両肩に落としている。まるで天の岩戸から姿を現そうとする天照大神を想い起こさせるような像である。雨露に長い間晒されてきたため全体に朽損、風化が進んでいるが、半月を作る眉や半眼の目、可愛らしい団子鼻など、木喰仏のそれと分かり、微かに残る口元の朱が、これも微かに浮かんだ微笑みと共に印象的である。頭光に墨で書かれた梵字もはっきりと読み取ることが出来る。木喰がこの寺に滞在したのは、恐らくこの大木に仏を感得し、宗教的な情熱から制作意欲を燃やしたためと思いたい。他に本堂には同じ木喰の如意輪観音坐像、阿弥陀如来立像が安置されている。

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hspace=15hspace=15 若狭諦応寺の山門脇にある銀杏は、目通り4.3m、高さ31mという大木であるが、根元から1m程の高さに出来た空洞に十一面観音の立像が彫刻されている。空洞の外周は舟形に手が加えられている。

 この像は文政年間(1818〜30)に住職仏山恵隆和尚が制作した、あるいは三十三世仏海和尚の制作とも伝えられるが、はっきりしたことは不明である。

 像の足元は朽損しているが、細面の顔、瞑想をするかのような沈欝な表情は、若狭の人の表情が想い起こされ、この土地の人によって制作されたことがうなずける。胸の部分が四角く切り込まれているのは、経巻でも収めていたのであろうか。人々に仏教の貴さを教えるために制作されたとも伝えられ、伝道にかける僧侶の真剣さが感じられる。

 


hspace=15 香川県大野原町大野原辻の生木の像は、「生木(いきき)の地蔵さん」として、今でも生きた信仰を集めている像である。

 地蔵の彫られた楠は、幹回り10m、高さ30mといわれ、広げた枝葉は二百坪からの土地を覆う大木である。樹齢は千二百年といわれるが、今も樹勢は盛んで、地蔵の彫られた空洞も、制作の頃は根元から150cmの高さにあったが、今では10cm程高くなっているという。

 この長方形の空洞を包むように小堂が建てられ、堂内から地蔵菩薩をガラス越しに参詣するようになっている。像は熱い信仰を物語るように、体部に金襴の法衣が張り付けられ、彫刻としての詳細を観察することは出来ないが、大きな耳をもつ小作りの面相が、穏やかで優しく、この像にまつわる乙女の伝説を物語るようである。天保七年(1837)中姫村の森安利左衛門は、娘のナオの健廉を祈り四国八十八カ所巡礼をしている時、伊予の正善寺で立木仏を見て、生木の仏の制作を発願したといわれる。ようやく地蔵が完成して開眼供養をしていると、どこからともなく老僧が現れ、錫杖を鳴らし経を読んで入魂の行を執行すると、地蔵が瞬きをしたという。このことからこの地蔵に「またたき地蔵」の名が起こり、人々の間に信仰が高まったと伝えられている。制作者の利左衛門は慶応二年(1886)に86歳で逝き、地蔵のモデルとなった娘のナオは、百歳になった大正八年まで長寿を保ったという。

 これら三体の生木の像はいずれも江戸時代の後半、近世の制作像で、本格的な仏師の手になる像ではないが、特に彫刻の難しい生木を選んでいる点に特徴がある。空洞が選ばれたのは、幹の一部が枯れて空洞となり、その部分が木材化し、比較的彫刻がしやすくなっているためと考えられる。

 しかし鎌倉時代以前の立木仏にしても、この生木仏にしても、制作者が立木の中に顕現した仏、あるいは感得した仏を彫刻したという点は共通し、いずれも激しく熱い信仰に裏付けられている点に特徴がある。そうした制作に駆り立てる意欲、信仰とは一体なんであろうか、現代人の私にとっては言葉では理解できても、頭の中には謎が残るだけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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