川尻祐治

(9) 鎌倉の護り白山神社

 今更いうまでもないが、休祭日の鎌倉市内は史跡・社寺・文化財巡り、あるいはハイキング、海のレジャーの人々で膨れ上がる。そうした中でも九月初めは、比較的観光客の少ない静かな季節で、人影の少なくなった由比ケ浜の情景を、歌謡曲「誰もいない海」に例える人もいる。

 そんな九月の第一日曜日、大船に近い郊外の今泉地区にある白山神社では、秋の大祭が執り行われる。近年までは九月十八日に行われていたこの祭りは、次第に姿を消しつつある、素朴な村の鎮守の祭りを思い起こさせてくれる。

 この祭りで年に一回、それもわずか20分間程、鎌倉の守護神と伝えられ、鎌倉でも古い部類に入る、秘仏の毘沙門天像がご開帳される。

 鎌倉北東部の今泉地区は、円覚寺裏山の丘陵部を開いた北鎌倉台住宅街と今泉台住宅街、そして鎌倉カントリーから岩瀬に連なる丘陵地帯に挟まれた、東西に細長い「やと」にある。「やと」を流れる砂押川は、夏には蛍が舞う称名寺の奥から流れ出し、散在ヶ池からの流れを合わせて柏尾川に注ぐ。

 大船から砂押川に沿って「やと」を遡ると、最初の岩瀬地区には浄土宗の名刹大長寺や、かつてその末寺であった西念寺がある。大長寺は徳川家康の信任を得、芝増上寺の住持となった感誉存貞・観智国師・暁音源栄などが住職をした寺である。

 やがて今泉地区に入ると白山神社があり、さらには今泉不動ともよばれる称名寺が続いている。また今泉の北鎌倉台住宅地からは、あじさいで名高い明月院。今泉台住宅街から、鷲峰山の頂上を抜けて、「百八やぐら」を見ながら二階堂の覚園寺へおりるなど、比較的知られていないハイキングコースがある。

 「やと」の中ほど北側、丘陵中腹の神社が今泉地区の鎮守で、鎌倉唯一の白山神社である。この社は旧村社で毘沙門とも呼ばれる。

 バス通りに面した社の入り口には、白山神社の木柱が建ち、祭りのために結界を定めるように簡略な門が造られ、棟木の行灯には、毘沙門天を中心とした七福神がカラフルに描かれている。この祭りも最近次第に盛んとなってきたようだ。

 参道脇には市で建てた、江戸時代の狂歌師天廣丸(あめのひろまろ)(1756〜1828)の文学案内板がある。廣丸はこの今泉に生まれ、若い頃に江戸に出て、易学を修める傍ら狂歌を学び、高名な狂歌師になったという。大の酒好きで酒に因む狂歌が多く、案内板の歌も廣丸らしい狂歌が選句されている。

 「くむ酒は是風流の眼なり

月を見るにも花を見るにも」

 案内板の向い側に並ぶ数基の庚申塔の中、一基は市指定文化財。

 庚申塔(舟型碑 高さ108.5cm 寛文十二年-1671-銘)碑面に阿弥陀三尊の種字と、基部には顔面をそいだような、素朴な三猿を半肉彫りとしている。

 そこから直ぐに社殿まで真っ直ぐに急勾配の石段が四十数段も続く。途中左側の建物が今泉寺(きんせんじ)。由緒その他ははっきりしていないが、かつてあった毘沙門堂の別当寺であったといわれ、現在は最近建てられた建物に寺名を止めている。

 登り切ると由緒ありげな太い注連縄(しめなわ)をくぐる。注連縄は毎年一月取り替えられる。

 正面が白山神社の本殿。奈良時代泰澄が開いた加賀の白山に対する信仰は、山岳信仰を中心とする民間信仰から始まった。

 やがて十一、二世紀の頃に仏教や修験が加わり、その信仰が姿を変えて全国に広まった。

 社(やしろ)の数は稲荷・八幡・天満宮・加茂・神明・諏訪・熊野に次いで、全国で八番目に多い神社といわれている。関東では特に埼玉県に多いが、神奈川県下は比較的少なく、二十一社を数えるのみで、鎌倉ではこの今泉の社一社が見られるだけである。

 祭神は白山の神、菊理媛(くくりひめ一白山比神)である。日本書記は、伊弉諾尊が伊弉冉尊の姿に恐れをなして逃げ帰り、二神が泉平坂(よもつひらさか)で争った時、その仲介を執って治めたのが菊理媛と記している。菊埋媛を主神に脇神として伊弉諾尊が伊弉冉尊を配した三神形式の画像はよく見かける。

 毘沙門天のご開帳は例年午後二時頃から始まる。先立って神主の神楽が奉納される。この辺りでは鎌倉神楽とよばれる湯花神楽である。天狗の面をつけ、矛をもって笛に合わせて踊る。途中で面をはずし外に出て、本殿前の忌竹をめぐらし、中央に、湯をたぎらした釜を置き、この湯の中に笹を浸し、笹についた湯を神前と参詣者の頭上に放散する。

 神楽が終わると地域の敬老者の表彰が行われ、それも終わる頃、石段をかけ登り担ぎ手が息をはずませる御輿が到着し、それでも威勢をつけて社前を練り歩く。

 ようやくに世話役の老人達が脇の間に安置されたお前立の毘沙門天、妃の吉祥天・子供の善膩師(ぜんにし)童子の三尊と三体の一木の破損仏を移す。


 毘沙門大立像(市指定文化財 寄木造 玉眼 彩色 像高160.7cm)別拵えの兜は和様。右手を腰に当て、左手に矛を執る通形の毘沙門天像である。緊迫感の少ない体躯などから室町時代に入っての制作と見られる。

 吉祥天立像(市指定文化財 寄木造 玉眼 彩色 像高88.5cm 室町時代)肉厚の体躯に唐服を纏い、後補の宝棒と宝珠を持つ。女性らしい静かな像である。

 善膩師童子立像(市指定文化財 寄木造 玉眼 彩色 像高78.5cm 室町時代)毘沙門天と吉祥天の愛息であるこの像は、美豆良(みずら)を結い、唐服をまとった童子形の姿で制作されている。柄香炉(後補)を手にする姿から、恐らく聖徳太子の十六歳の孝養像を範として制作されたと考えられる。

 木造破損仏 三体(市指定文化財 1号 一木造 彫眼 像高 95.3cm 2号 一木造 彫眼 像高73.7cm 3号 寄木造 彫眼 78.3cm)1、2号像は菩薩形の像。3号像は天部の像と見られる。朽損のためはっきりとはしないが、平安時代の制作と見られる古様の像である。

 ようやく本尊の毘沙門天像が姿を現す。年一回だけのご開扉である。簡易な厨子から二人掛りで、台座部分ごと引きずり出すように表に移される。撮影は禁止。

 兜跋毘沙門天立像(市指定文化財 一木造 彫眼 像高162.0cm)

この像は、楠に奈良時代の高僧行基が彫刻したという伝説があるが、実際の制作は平安時代も末の頃。

 兜跋毘沙門天というが、通常はその足元を支える地天女がなく、邪鬼の背を踏み締めて毘沙門天の形をとる。もっとも邪鬼は後世の作であるから、本来は兜跋毘沙門天像として制作されたのかもしれない。

 宝髪を結い、髪を疎ら彫りとし、両眼を大きく見開く。甲冑を纏い、大袖を垂らす。右手に戟を執り、左手には宝塔をいただく。正面腹部獅子噛は、角の出た三角帽のような兜を被り、目が飛び出て、ヨーロッパの小人の悪魔を思い起こすような、一寸ユーモラスで特異な面で印象的である。一木の体躯にはどっしりとした重量感はあるが、反面動きが少なく、武将像のもつ迫力には欠けている。その分、地方的な素朴な像で、おそらく平安時代も進んでから、地方で制作されたと考えられる像である。

 鎌倉市文化財総合目録によれば、背中から内部りが施され、上下二枚の背板がはめ込まれているという。両腕は肩で矧付とする。また台座の裏には、江戸時代の宝永四年(1707)に、鎌倉扇谷の仏師加納数馬が修理した銘が見られるという。しかし祭りの管理達から細々と注意があって背面などの詳細を見ることは難しい。

 ほかにも享禄五年(1535)に名主永島彦左衛門が修理し、修理のあとはその時のものとも伝えられている。

 この像には行基制作の伝説と共に、源頼朝が上京した時、京都の鞍馬寺より勧請した像で、毘沙門天が北方の守護神であること、また国家を守護する仏であることから、幕府の北に当たる今泉の堂に、鎌倉の守護神として祀ったという伝説もあるが、頼朝の勧請など真偽は不明。

 もとは別に毘沙門堂があって、そちらの本尊像として安置されていたが、毘沙門堂の廃止と共に神社に併祭されるようになったという。いずれにしても鎌倉では、杉本寺十一面観音像や辻の薬師旧蔵の薬師・十二神将像と共に古い時代の像として貴重である。

 鎌倉といえば隅々まで知られているが、観光客の知らないこうした像が残されていること自体不思議な感じがする。

 他にこの辺りの頼朝に関連する伝承として、神社の南の山中にあるという塚が、頼朝の鷹を埋めた鷹塚といわれている。

 祭りの途中、神楽に飽きた子供達が、社殿の裏でにじみ出た水まじりの土を掻き回して、何匹も蟹を取っていた。ここにはまだ鎌倉の自然が残っていた。

 本尊兜跋毘沙門天像は、湯川晃敏(日本写真家協会会員)撮影

 

 

 

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