川尻祐治

(8) 播州平野の石仏2

 兵庫県加西市は古文化財の宝庫である。

 法道仙人開創の伝説をもつ一乗寺と数々の文化財。古法華の石仏や繁昌の五尊石仏。また150基を超えるという古墳、あるいは石棺仏や独特な北条の石仏など、文化財が豊富に残されている。

 代表的な古墳としては、針間鴨国造の墓とみられ、眉びさし付兜をはじめ鏡や刀など、数々の副葬品の出土した亀山古墳、また全長105mの前方後円墳で、周壕と陪塚を持つほか、県内最古の長持ち形石棺のある玉丘古墳がある。

 中でも玉丘古墳は、記紀の時代から知られた有名な古墳である。雄略天皇に殺害された履中天皇の皇子で、各地を逃げ回っていた億計上(おけのみこ)・弘計上(おけのみこ)(顕宗天皇)の兄弟が、身分を隠して牛飼いになって、この土地の忍海部造細目(おしぬめべのみやつこ)に仕えていた時、二人は針間鴨国造許麻の女根日女(ねひめ)に恋し、それぞれが求婚してその承諾をとったが、互いに譲り合ううちに時が過ぎ、根日女は亡くなってしまったという。

 根日女を哀れんだ二人は、やがて朝日・夕日に陰らない土地を見付け、山部小楯に作らせた墓が、玉丘古墳と伝えている。

 こうした多くの古墳は、一般的にはその築造からまもなく副葬品を目当ての盗掘が始まるほか、自然災害などもあって、長い年月の間には古墳を覆った土砂が崩れ、埋められていた石棺が露出したりすると、石棺自体が石垣などの材料として使われるようになる。そうした利用方法の一つに石棺仏がある。

 石棺仏の遺品は播磨だけに限られるものではないが、特に播磨地方には数多く残されている。これは加古川の竜山石と同様、加西の辺りにも長石(おさいし)・高室石(たかむろいし)とよばれる、加工しやすい凝灰岩を産出したことによるものである。

 この石棺仏とよばれる石仏の多いことが、他の地方の石仏とは異なった特色とされており、遺品の数は68基を数えるといわれている。

 石棺には、一村を割り抜いたものと、数材を組み合わせた棺があり、その形から長持ち形石棺・家形石棺・箱形石棺に分けられる。

 狭義の石棺仏はそうした石棺の部材、蓋石や側面石、底石などの裏側に仏像を彫ったものである。ここでは仏像以外に、仏の種字を浮彫り、線彫り、薬研彫りとした石棺もまた石棺仏と呼ぶことにする。

 こうした中で、石棺仏の特徴一つで、しかも印象深い像として、主に蓋石を利用した像に見られるが、石の左右に古墳の築造当時、運搬のしやすいように削り出した縄掛け突起を残した像がある。突起は全体の均衡を破り石棺仏をローカル色の強い形にし、特に先端部を丸くした古い型の石棺を利用した像は、親しみを感じさせてくれる。

 この石棺を利用して仏像が刻出されるようになったのは、様式的にみて、鎌倉時代から始まり、室町時代に終わる。

 しかし何故、鎌倉時代から石棺の利用が始まるのか。

 鎌倉時代は鎌倉を中心に守護や地頭が全国に散った時代であり、荒野の開拓も飛躍的に進み、加えて鎌倉仏教の勃興した時代でもあり、京都中心の文化・精神構造に大変革を起こし、仏教が民衆に近付いた時代である。

 この頃加西市に隣接する小野市(大部庄)には、東大寺大仏殿の再建で名高い真言僧南無阿弥陀仏俊乗坊重源が、弥陀来迎で知られる播磨浄土寺を創建(建久三年-1192)している。

 真言僧とはいえ、重源もまたこの時代の風潮と同様、当時流行した浄土教に強い関心を寄せ、自らも南無阿弥陀仏を号し専修念仏に努めた。こうした中で、民衆の中には重源を中心した念仏結社が育ったと考えらえる。

 浄土寺を継いだ弟子達も如阿弥陀仏・観阿弥陀仏を名乗り、寺は念仏道場として盛んとなり、その信仰は浄土寺を中心に周辺民衆へと広がっていった。

 吸谷町吸谷廃寺跡の層塔には、弘安六年(1283)の念仏結衆造立の銘があり、石棺仏の成立もそうした事情によるものであろう。

 一方浄土寺の建立に当たって重源は、各種の技能集団を引き連れていたが、そうした中には当然、仏師や石工が合まれ、信仰と経済そして彫刻技術が噛み合い、災害や開墾によって露出した素材としての石棺が、この地方では比較的容易に求められ、これに阿弥陀如来や地蔵菩薩の像が制作されたのではないかと考えられる(写真2)。

 石棺仏遺品の古い例としては、姫路市真禅寺像が知られている。家形石棺の蓋を利用した、文永六年銘(1265)阿弥陀坐像で、像の回りを彫りくぼめた素朴な像である。

 加西市の周辺には特に石棺仏が多いが、中でも倉谷町薬師堂境内の阿弥陀像が古く、鎌倉時代後半の像とみられる。

 また鎌倉から室町時代初めの頃と見られる像に、玉野町田中の豊倉石棺仏がある(写真3)。高さ176cm、幅103cm、厚さ27cmの家形石棺の蓋の内側に、法衣を左右相称に纏う、整った阿弥陀如来坐像(仏身57cm)を半肉彫りしている。光背の上部には朱が残るが、これは後のもの。

 上宮木町の路傍にある阿弥陀如来坐像の石棺仏(高さ210cm、幅76cm)は、家形石棺の底石を使用した例である(写真4)。磨滅の多い像の中にあっては、比較的保存の良い像で、全身は大きな光背に包まれ、像をほぼ等辺三角形の中に半肉彫りとしている。室町時代も早い頃の制作であろう。

 池上町の春岡寺は、車も入らない田畑の中を進む。本堂の前に池が広がる見晴らしの良いつつましやかな尼寺である。

 この寺の阿弥陀石棺仏(高さ182cm、幅98cm、厚さ30cm、仏身30cm)は、縄掛け突起のある家形石棺の内側に半肉で彫刻された像で、室町時代も進んでからの制作とみられる(写真5)。この石棺仏は惜しいことに倒れたために阿弥陀の台座の上部で折れている。

  

 玉野町の山伏峠は低い丘陵の峠である。静寂な松林の中に二基の石棺仏と一基の石仏が建ち、石棺仏巡礼の中では最も雰囲気があり、絵になる場所でもある(写真6)。

 入口の阿弥陀坐像は、角型の幾何学的な縄掛け突起のついた、家形石棺の蓋(高さ219cm、幅124cm、厚さ42cm)を利用した大きな石棺仏である(写真7)。地蔵とも見られる素朴な阿弥陀像を半肉彫りとし、先端部が外周部にまではみ出した大きな光背が彫られている。銘文により建武四年(1337)の制作と知られている。

 峠を上った正面奥の石棺仏は、先端を丸めた縄掛け突起をもつ長持ち形石棺の蓋(高さ74cm、幅98cm、厚さ18cm)に、いわゆる延命地蔵とよばれる地蔵菩薩の半跏像と、その左右に各三躰の地蔵の立像、六地蔵を薄肉彫りとしている(写真8)。制作は暦応元年(1338)。

 石棺の縄掛け突起は古い時代のものは、丸みのある素朴な形で、時代が下るにつれて整った角形となり、やがて姿を消していく。正面奥右側の小さな一基は地蔵菩薩を刻出している。

 

 これらの他にも石棺仏は数多く残され、この地方には他地方のような、一般的な切り出し石を素材とした像は少ない。

 加西市北条町の中心部、多宝塔で名高い酒見寺に隣接する天台宗羅漢寺には、石棺仏とは異なった、ここだけに見られる独特の羅漢像が見られる。

 境内の五百羅漢は

 「親がみたけりゃ北条の西の五百羅漢の堂にござれ」

と俗謡に歌われ、古くから北条の石仏として親しまれてきた像である。

 境内奥の一段高い方形の土壇の中央に、釈迦三尊を置き、両脇に金剛界の大日如来と阿弥陀如来、さらに閻魔や倶主神が並んでいる。数にして四百数十躰もの石像が肩を寄せ合うように並んでいる(写真9)。

 羅漢達はいずれも1m程度の方形の石柱に、その頭部のみを丸く刻み、目の下、鼻の周囲を削って表し、口元を線彫りとする他、柱状の体躯には線彫り、または回りを穿いて、申し訳程度に両手を表現するなど、他に例のない彫法によって制作された像である(写真10)。

 おおよそ仏像制作の際の約束事を無視したこの抽象的な像は、誰が何時、何の理由で彫ったのか、まったく不明である。しかし幾つかの像には慶長年間の刻銘があるほか、江戸末期の記録には、慶長十五年(1610)に五百羅漢が再興されたことが記されているが、この地方の歴史的背景などから、赤松祐尚が、嘉吉の乱(1441)の戦没者を供養して、天文年間(1532〜54)に造像させたと考える説が有力である。

*石仏探訪は目印がなく、地名の呼び方も統一されていない。また土地の人でも知らないことが多いから、事前に市の教育委員会などに問合わせてから訪ねる方が良い。

 

 

 

 

「謎を秘めた仏たち」は、古美術月刊誌「目の眼」((株)里文出版発行)に好評連載中です。

 


inserted by FC2 system