川尻祐治

(7) 播州平野の石仏1

 兵庫県中央部を流れる加古川は、山間の氷上郡山南町から西脇・加西・小野・三木市など、播磨平野の真ん中を全長86.5kmにわたってゆったりと下り、やがて河口で東岸加古川市と西岸の高砂市を分けて播磨灘に注いでいる。

 播磨平野の中核をつくるこの加古川流域は、低い丘陵と肥沃な農地をつくる平野部が続き、加えて天災地災も少ないこともあって、早くから人々の生活が始まり、古代文化の先進地方であったことが知られている。

 東播地方とよばれるこの地方で、特徴付けられる文化遺跡として、古代から中世までの石造遺品があげられる。

 播磨風土記で名高い、飛鳥時代の制作と見られる「石の宝殿」、白鳳時代の乎疑原(おぎはら)神社五尊石仏・古法華石仏、鎌倉から室町時代の石棺仏、近世の北条石仏などであり、それらの遺品は、他地方とは大きく異なった特色を見せている。中でも石棺仏はこの地方に集中し、全国の80%を占めるといわれ、その研究もまだまだこれからである。

 謡曲「高砂・相生の松」で知られた高砂市の阿弥陀町生石(おおしこ)は、今では埋め立てが進み、市の中央部に当たり海岸までの距離もあるが、かつては直ぐ近くにまで波が打ち寄せていた。この生石の宝殿山は、通称「石の宝殿」ともよばれている。山は龍山の一角をなす独立山塊で、周辺は龍山石の産地として知られており、現在でも採石が行われている。

 石の宝殿には生石神社(図−1)があって、この神社の御神体が露天掘りされた巨大な石の家形である。この石は現代でこそ知る人も少なくなったが、奈良の昔から知られており、江戸時代には司馬江漢やシーボルトもここに立寄り、その姿をスケッチするなど、「鎮(しずめ)の石屋」とよばれ、宮城県塩竃神社の「塩竃」、宮崎県霧島神社の「天の逆鉾」と併せ、日本三奇のつとして全国的に有名な遺跡であった(図−2)。

 おそらく、この石を初めて見た人は、その大きさや、この山頂の石をどのようにして運び出そうとしたか頭を捻るであろう。御神体は角型の池にある直方形に切出した石で、高さ5.7m、幅6.5m、奥行5.46m(全長7.0m)あり、背面には角型の突起を付け、遠くから眺めた時は、家を横倒しにしたような形に見えることから「石の宝殿」の地名が起こったといわれている(図−3)。

 この石の古い記録である、播磨風土記「印南郡大国里の条」には、「聖徳の御世、弓削の大連の造れる石なり」と述べられており、八世紀の風土記の時代からこの石があったことが知られている。

 また昔、大己貴命(おおむなちのみこと)と少彦名余(すくなひこなのみこと)の神が、国土を鎮めるために、一夜で宝殿を造ろうとしたが、途中で敵と戦ったために夜が明け、そのままにしたという伝説がある。

 しかしこの巨大な石造遺跡は、どういう人が何を目的として造ろうとしたのかが、まったく不明である。

 風土記にいう弓削の大連が、この辺りに勢力のあった物部守屋であることから、物部氏に関係した遺品と考えるほか、火葬墓という見方もある。しかし、龍山(たつやま)には古墳群があり、比較的加工のしやすい石英粗面岩である龍山石が、家形石棺や長持形石棺に使用されており、しかも龍山をはじめ加古川流域に限らず、遠く畿内古墳にまで使用されていることから、古墳の石棺という考え方が強い。

 加古川を遡ると内陸の町加西市であるが、加西盆地は古代遺跡の宝庫でもある。150基余の古墳の分布が見られるほか、白鳳時代の仏教寺院の遺跡としては、繁昌廃寺・殿原廃寺・吸谷廃寺、奈良時代の野条廃寺の四つの寺院跡が確認されている。これらの寺は、繁昌廃寺が南から塔・金堂・講堂を一直線に並べた四天王寺式伽藍配置であったように、本格的な寺であったと考えられる。

 6世紀の仏教伝来以後、わが国では他国に比べて、石に仏を刻むことは比較的少なかった。その理由として石材に恵まれなかったことなどがあげられているが、そうした遺品の少ない中で、7〜8世紀の白鳳時代に制作されたと見られる像が、加西市西長(にしおさ)の古法華石仏、同市繁昌町乎疑原神社の五尊石仏(奈良国立博物館寄託)であり、奈良県桜井市忍坂の石位寺三尊石仏である。

 古法華(ふるぼっけ)は名刹一乗寺に近い笠松山(244m)と善防山(251m)の峰合いにあり、兵庫県古法華自然公園の中心をなしており、登山道の端には可愛らしい石仏が置かれ、現在加西市が石仏公園として環境整備に努めている。

 近年造られたこの古法華の小堂には、石龕に安置されて白鳳の古様を伝える浮彫の三尊石仏(図−4、5、6)が遺されている。

 国指定重要文化財 浮彫如来及び両脇侍像 付石造厨子屋蓋 凝灰岩 全長154.2cm(基壇 後補)板石高さ102cm、幅72cm、奥行20〜21cm、屋蓋正面122cm、側面84cm、高さ約50cm(西長など八ケ町共有)。

 古法華の浮彫の三尊石仏は白鳳期の像に多い倚像とよばれる像で、奈良法隆寺の玉虫の厨子によく似た屋根をもつ石造の龕に安置されている。

 龕の奥壁を造る板状切石の中央に、椅子に掛けた中尊(像高約46cm)を刻出し、左右に腰を捻り蓮華座に立つ二躰の脇侍像を肉厚に彫り、各尊には頭光を配している。また中尊の頭上には天蓋、両脇侍の上には各々三重塔を彫るほか、三尊の間には浄瓶、中尊足元には香炉、これを挾んで両脇侍の足元には、仏の尊厳を表す獅子を各々刻出するなど、多彩な彫刻は大陸的である。

 全体に火災に遭ったと見られ、三尊をはじめ浮彫り部分は損傷が多く、特に三尊の面相は剥ぎ取られたように剥落し、ただ白くその跡を残すだけで惜しまれる。 

 中尊のいわゆる倚像と呼ばれる姿や、頭上に天蓋をおいた三尊の表現など、いずれも奈良法隆寺金堂壁画をはじめ、白鳳時代から奈良時代の押出し仏やせ仏(せんぶつ)に共通する様式をもっていることや、三尊石仏の材質が、この地方で採掘される長石(おさいし)と呼ばれる石であることから、この像はこの地方で制作されたと見られる。おそらく制作の頃、この辺りにいた帰化人の手になったと考えられる。

 三尊を安置する石龕もまた古い。屋蓋のみ残し、側面の壁、正面扉を失っているが、屋蓋は一石で刻出されている。錣(しころ)葺きの屋根は、入母屋造の行基葺きで、瓦を一つずつ刻み、切妻の降棟と寄棟の隅棟など、いずれもはっきりと力強く刻出しており、その様式もまた法隆寺玉虫の厨子に共通している(図−7)。

 この古法華の地には、昔堂塔伽藍が建ち並んでいたというが、戦火によって焼失したといわれ、付近からは古瓦片が発掘されるなど、古代寺院の存在を裏付けている。

 同市繁昌町の乎疑原神社の境内から発掘されたという五尊石仏は、一石に中尊坐像を中心に左右に各々二尊の菩薩立像を配置したと見られる五尊像で、やはり中尊頭上には天蓋を刻出している。しかしこの石仏は、中尊の面相に当たる部分から上下に破損し、一部を欠いている。

 この像もまた白鳳時代の押出し仏や仏に共通しており、同時代の制作とみて差支えない像である。

 こうした古様の像がなぜこの辺りに残されているのか。古代の仏像の多くが帰化人またはその子孫達の手になったことを考えれば、大陸あるいは半島から渡来した人々が、加古川を遡りこの地に定住して比較的良質の石材を得ることができたために、仏教伝来初期の頃から、この地で制作したと考えられるが、それを証明できるものは現在何も残されていない。 

 

 

 

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