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(6) 戒長寺 十二神将が護る寺 |
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五月ともなると我家の庭に芽を吹き出すのが九輪草である(図-1)。日本の桜草の原種といわれるこの草は、茎が60cmにも伸び、ピンクの可愛らしい花が、五重ノ塔の九輪のようにつくつことから名前が起こったといわれる。 深山の湿地を好み、都会に移植しても2〜3年で消えてしまうが、日陰の多い庭を気にいったのか、昨年は40株ほどが咲き誇り、株分けをして友達に喜ばれた。 この九輪草と私が最初に出会ったのが、奈良県榛原の戒長寿である。庫裏の裏手に大きな株が幾つもあって、庵主さんが御土産代わりといって五株ほど抜いてくれ、庭で開花したときはその見事な花にびっくりした。その花も二年も経つと消えてしまい、次に吉野の水分(みくまり)神社で頂戴したがこれも消え、去年に増えたのは、四年程前に福島の磐城の寺で頂戴した花であった。しかしこれも今年の冬に庭をいじったため、恐らく全滅したと思われ、がっかりしている。 |
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戒長寺は近鉄榛原駅からバスまたは車で人ることになるが、時期ともなれば、長い石段の山道両側は紫陽花の花で埋め尽くされ、また秋には境内のオハツキイチョウが黄色く染まるなど観光客が知らない花の名所となる。 戒場地区の薬師山(戒場山)中腹にある戒場山(薬師山)戒長寺は、真言宗御室派の寺で、寺伝によれば飛鳥時代に用明天皇の勅願によって聖徳太子が建立し、後に弘法大師が伽藍を整えたというが、詳細は不明である。僅かに仁治元年(1240)の関東下知状(春日神社文書)には、山辺東庄内の戒場寺の名が記録され、これが戒長寺であろうと考えられる。 この寺で名高いのが、鐘楼に掛かる梵鐘(図-2 総高120.9cm・口径66.2cm)である。撞座の位置は低く、袈裟襷(けさたすき)の縦帯部分に、正応四年(1291)の銘があり、国の重要文化財に指定されている。しかも袈裟襷によって、区分された四面の池の間には、十ニ神将の立像を各三体づつ陽鋳した珍しい鐘である。 梵鐘には普通、天女などを陽鋳する例が多く、武将像を鋳出する例としては、大阪岬町興善寺の鐘が四天王像を陽鋳しているが、十二神将像となると他には例が無い。 十数年も前、私は薬師十二神将の像を調べ回ったことがあり、この寺を最初に訪ねたのも、梵鐘の十二神将にひかれてのことだった。 |
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十二神将を安置する寺では、神将が頭に十二支の動物を頂くことから、人々の生まれ歳の干支(えと)と十二神将を結付けて、十十二神将をその人の生れ歳の守り本尊として説明している。 一般的に十二神将は、
十二神将は、薬師如来の本願を守護する十二人の薬叉神将で、彫刻の上でも早くから制作されているが、その姿・形・持物などが各々異なり、尊名の確定が非常に難しい。 この混乱は、依経する「薬師経」が尊名だけを記し、姿、形を説明しないことによる。これは平安時代後半になって、神将の頭上に十二支を頂く形となってからも一定せず、十二神将の尊名を一層分かりにくいものとしている。 因みに奈良新薬師寺・京都広隆寺十二神将像の彫刻は、十二支をつけていない。頭上に十二支を頂く古い例は、平安時代後期の制作と見られる淡路島東山寺像である。 わが国で十二神将を説明した、最も古いと考えられる経典は、平安時代中頃に伝来したという、天台系の「浄瑠璃浄土標」であるが、これには寅から丑まで、十二支獣に跨がる武装の十二神将を説明しており、その像容は彫刻上の十二神将像とは大きく異なっている。 また十二神将は、彫刻や絵画の上では、武将の姿が普通である。しかし鎌倉時代の有名な図像集である覚禅抄(図-3)は、平服を纏った獣頭人身の立像を描いており、これは本来十二支神と呼ぶべきであろう。 |
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十二支と仏教上の十二の獣の結付きとをうかがわせる仏教経典に、五世紀の中国北涼時代に曇無讖(どんむしん)が訳した「大方等大集経」がある。 これによれば、人々の住む島「閻浮提(えんぷだい)」は四方を海に囲まれ、それぞれの海には山があり、南を瑠璃山(るりさん)、西を頗璃山(はりさん)、北を銀山、東の島を金山と呼び、四つの島には、それぞれ三種類、十二種の動物が住み着いているという。 南の琉璃山には蛇・馬・未、西の頗璃山は猿・鳥・犬、北の銀山には鼠・牛・虎、東の金山には獅子・兎・龍が住み、それぞれの獣は樹・火・風・水神と、五百人の春属を引連れた羅刹女に守られて、窟の中で修行を重ねており、修行の傍ら、昼夜十二時間・十二日・十二月にわけて、交代で「閻浮提」に出掛けては、遊行教化を続けていると説明している。 このように仏教上の十二支獣も、十二支と同様に東西南北に配置されるが、これは中国に伝来した経典が、陰陽道の十二支を取入れつつ完成したのではないかと考える。 そして十二支と十二支獣が結び付き、形となって彫刻化され、これが一つの思想にまで高められたのが、韓国新羅(4〜9世紀)の頃ではなかろうか。 韓国慶州地方の新羅時代(8〜9世紀頃)の王陵や、寺院建築の礎石部分などに、獣頭人身の十二獣が彫刻されることが良く知られている。これらは各方角の守護神と考えられるが、当初は陵墓の土留めの護石に浮き彫りされ、やがて独立して丸彫りの彫刻となったものである(図-4、図-5)。 |
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そしてこの十二支獣が、仏教の思想に取入れられ、その延長線上で彫刻されたのが、慶州東部毛火地方の奥、遠願寺の二基の石塔(図-6)ではなかろうかと考える。 遠願寺塔の四面各層には、下から順に武装した十二支獣坐像(図-7)と四天王立像(図-8)を刻出し、塔そのものを仏と見立てた仏教の世界を表す。本来四天王は、仏法国土の守護神であり、これに仏の本願を人々に広め、本願を実践する十二支獣を配置することは、塔そのものを仏の世界と考えていることとなり、仏教と十二支獣の関係がより明確となる。 こうした遠願寺塔の思想は、やがて日本に伝わり、早くから伝来していた現世利益の仏である薬師如来と結付き、平安時代の中頃以降には、陰陽の思想とも結付きを深め、頭上に十二支を項く十二神将が生まれる一因となったと考えられる。 |
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戒長寺の鐘楼をはじめ、正面本堂並びに庫裏は、いずれも元治元年(1864)に再建された建物であるが、本堂には本尊薬師如来像と、お前立ちの薬師如来像があり、いずれも平安時代後期の制作と見られる像である。 本尊薬師如来坐像(図-9 寄木造 彫眼 像高104cm)は穏やかな面相をもった像で、頭部や体躯に比べて、膝部こそ高いが、全体に彫りは浅く、そのぶん地方的な雰囲気をもつ。像の光背には雲座に座る十二神将(室町時代)を配置している。 お前立の薬師如来坐像(図-10 寄木造 彫眼)は本尊と同じ程度の法量をもつ像であるが、整然と小粒の螺髪を並べた丸い肉髪、丸い輪郭に気品のある伏し目、安定感のある体躯など、平安時代後期に流行した定朝様の流れを汲む像であることは、誰が見ても明らかであり、本尊像に比べて技法的に、美術的に本像の方が数段優れている。そしてこの像を小さな江戸時代の十二神将像が囲んでいる。 他に十一面観音・地蔵菩薩像を安置する。 |
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この寺に何故特異な梵鐘や薬師関係の像が集まっているのか不思議である。寺の裏山を薬師山という事や、戒場をはじめ、近くにはごま山・どうばた・堂坂・大門などの地名も残ることから、かつて大きな伽藍をもった寺であったことのみが推測出来る。 冒頭の九輪草は、昨年建物の屋根を直したために土を被り、今年は芽を出すかどうか分からないということで、我家の庭と同様寂しい限りである。 |
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