川尻祐治

(5) 花見寺 上総の大寺

 千葉県香取郡小見川織幡(おリはた)の薬師堂は、今では無住の小堂となっているが、かつて花見寺と呼ばれた大寺であったと考えられる。しかもたった一間のこの堂には、鎌倉時代後半の制作と見られる五体の仏像(県指定文化財)が安置されており、以前から識者の注目する寺である。また、仏像に関心を持つ人なら、一度は訪ねて見たい寺の一つであろう。

 その花見寺とは別に、小見川町から利根川を約30キロ下った河口の町、銚子市の西端、常世田(とこよだ)町の常燈寺もまた、誰しも訪れたい寺で、私もだいぶ前からこの寺に伺い、本尊の薬師如来像を拝見したいと思っていたが、昨年ようやくにこの寺を訪ねることが出来た。

 この銚子の住職不在の真言の寺は、江戸時代に常世田の薬師として、上総三薬師の一つに数えられ、上総を中心に広く信仰を集め、親しまれた寺であった。しかし関東の中でも有数の立派な本尊は、厨子を御開扉すると目が潰れると信じられ、御開扉することもなく、何時の頃からか秘仏とされ、忘れ去られてきた。
 昭和二十八年、寛文十三年(1673)に建立された本堂(県指定文化財 附宮殿一基 棟札一枚)の屋根修復のための調査が行われた際に、厨子が開けられて本像の素晴らしさが認められたという。きっと最初に像を拝んだ人は、感動に身を包まれたであろう。

 現在この素晴らしい藤原期の本尊像(国指定重要文化財)は収蔵庫に安置されている。常燈寺への道は、国道126号線の喧嘩から、注意しなければ見過ごしてしまうような細道を入る。事実一度は道が分からずに行き過ぎてから戻って来た。その曲りくねった細道がすぐに坂道となり、正面にひっそりとした二十軒たらずの小集落を眺める。その奥、山裾に一きわ大きく見える屋根が、常燈寺の本堂である。

 東京にあれば香華の絶えることのない大寺であろうが、銚子の田舎ということもあって、広い境内や立派な仏堂を伝えながらも、人の訪れもなく、境内は上総三薬師の賑わいが嘘のように静まり返っている。

 当寺の本尊薬師如来坐像(重文 寄木造 彫眼 漆箔141.3cm)は定朝様の藤原風の像で、広い肉髻や地髪に小粒の螺髪を刻み、面相は丸く頬には張りがある。温和な伏し目、丸い肩、上半身は幅こそあるが、奥行きは薄い。膝は高くなくゆったりと幅をとっている。全体に均衡を保ちながら静かな雰囲気を残す像である。結跏趺坐した台座は、八角形の裳懸座と呼ばれる古式の台座で一部に補修があることが知られている。また光背は二重円光背で、胎蔵界の大日如来を三体と、音声菩薩十二体を配した豪華な光背であるが、像より後の制作である。

 この像は体内に墨書の修理銘があり、鎌倉の仁治四年(1243)に仏師豪慶が修理したこと、寄進者の一人として平胤方(千葉常胤の曾孫、海上氏中興の祖)が結縁していることが知られる。


 胤方は承久年間(1219〜22)の頃に海上郡・香取郡を領有していたことが知られ、小見川町織幡の辺りにも相当に影響力をもった豪族である。収蔵庫の鍵を管理する市の教育委員会の担当者から、この薬師如来像が、小見川町織幡の花見寺を本貫(本籍)として、昔に移されてきたという伝承のあることを教えられた。

 現在各地に残されている寺の仏像を見ても、坐像で法量141.3cmもある像というと、それなりの大寺か、由緒のある寺が多く、こうしたことから常燈寺の本貫地である小見川町織幡の花見寺は、かなりの規模をもった寺であったことが想像される。


 小見川町は、利根川を挾んで茨城県と向かい合った町で、古代史に詳しい人なら、多数の出土品(県指定)のあった城山(じようやま)古墳群や、良文貝塚出土(国指定)のあの奇妙な香炉形顔面付土器(県指定)を思い起こすかも知れない。

 この土地は江戸時代まで、利根の河港として繁栄していた土地であるが、明治時代に入り鉄道の発達と共にその利便性が失われ、今は千葉県東端の農耕を主産業とした地方都市となっている。

 織幡地区はこの町の西端、佐原市に接した台地上に位置し、付近には桓武天皇の皇子葛原親王や平良文の伝承がある。この台地には平安時代後期になって葛原牧が開かれ、末頃には香取神宮の神官の私領地であったことが知られている。また鎌倉時代の小見川は、干葉氏の一族東氏の氏族である木内氏が勢力を広げている。

 由緒ありげな地名は、この辺りが麻などの織物を生産し、織機・木障畑などから変わったというが定かではない。
 織幡地区の小堂に寺名を止める花見寺は、奈良時代の頃の創建といわれる真言宗の寺であって、現在の薬師堂はその跡地に建てられたといわれている。寺は鎌倉時代になって、千葉氏の支流木内氏の外護を得て栄えたといわれるが、江戸時代に入ってから有力な檀那を失い、その末頃には廃寺となったと伝えられている。

 今この寺には鎌倉時代の後期に制作されたと見られる木像一体と四体の金銅仏(各県指定文化財)が安置されている。しかしこの堂の拝観はなかなか難しい。
 常燈寺像を拝観してから、久方振りに花見寺の拝観を企画しようと思い、周囲の同好者に尋ねてみたが、この寺を訪れた人はほとんどいなかった。
 町の教育委員会に、拝観手続きを問合わせると、地区長が管理責任者であるから、そちらの許可をとれば良いと言う事で、地区長に連絡すると、鍵は古老が管理しているので、改めて電話をかけ直して欲しいと言う。二日程おいて再度電話をかけると、申し訳なさそうに、老人達が承諾しないという。毎年11月18日頃(正碓な日は忘れた)にお祭りがあって、ご開扉をするから、その日にして欲しいということであった。

 やむを得ず11月まで待つことにしたが、何時の間にかその日を忘れ拝観が伸び伸びとなっていた。

 その織播は小見川町の郊外にあり、集落入り口の天之宮神社の人きな社叢の脇を抜けるとやがて静かな農村の集落に出る。集落の真中あたり、テレビのない頃、雨降りの日に子供達が集まって遊んだ、そんな雰囲気を残す小堂がある。
 薬師堂とも呼ばれるこのささやかな小堂が花見寺で、想像していたような大寺の面影はまったくない。
 この地区はまた下総式板碑が多く残されていることでも知られている。

 厳重に保管される五体の仏像は、いずれも鎌倉時代の制作と見られる像で、木造十一面観音立像・銅造薬師如来立像・銅造阿弥陀如来立像並びに観音菩薩立像・勢至菩薩立像である。

 木造十一面観音立像(一木造 彫眼 素木 像高166.0cm)
 頭部正面に観音菩薩の本地仏である阿弥陀如来の立像を頂き、偏平な化仏や頂上の如来面もまた大きめである。瞑想するような彫眼、小さな目元、ふっくらとした頬など、温和な面相をもつ。天衣を始め、裳の折り返しや衣雛の彫りは明確に深く刻出するほか、天衣や両足間には三角状の衣雛を刻むなど、古い時代様式を模倣した、藤原時代後半の制作の像ともみられるが、胸前に垂下させた天衣の先端や、左右対象の腰回りの裳の折り返しの線など、いずれも丸く図形的であって、藤原時代の優美な彫法とは異なっている。幾分胴長の体躯は全体の均衡を欠き、いかにも地方的な稚拙さがかんじられるが、作者の一生懸命に彫り上げたと思う心が伝わる好ましい像である。実際の制作は鎌倉時代と見られる。


 銅造薬師如来立像(像高48.5cm 白毫水晶嵌入)
 この像は頭部から足元までを一鋳とした像で、肉髻を低めにし、髪際が中央部で下がっていることなどから、この像の制作が鎌倉時代の後半に入ってからということが知られる。法衣は通肩に纏い、右手は人の恐れを取り除くといわれる施無畏印、左手は垂下させて薬壷を執る。

 面相は明るく穏やかで、私はこの像を拝観したとき、どこかの像に似ていると思い、このときは思い出すことが出来なかったが、家に帰って調べるうちに、この像が同じ千葉県で、小見川町から南へ四十キロ程離れた匝瑳(こうさ)郡光町の隆台寺(りゆうたいじ)の善光寺式阿弥陀三尊の中尊と非常に共通することが分かった。


 鬼来迎(きらいごう)で知られた光町の、小川台堂面の草深い丘陵の中にある真言宗隆台寺(旧寺名 新善光寺)には、県文化財の阿弥陀三尊立像が本尊として安置されている。

 この三尊像は銅造ではあるが金泥が厚く施され、金色眩い像となっている。中尊の法量は花見寺の薬師如来像と同じ48.5cmで、低い螺髪に平明で大柄な面相や、法衣の着衣、衣雛の表現も全く同じである。そして両手首から先を別鋳で矧付(はぎづけ)とした鋳造法も同一で、まるでコピーを見ているようである。ただし花見寺像は現在は薬師如来像であるが、手首から先が、後世の補鋳であることが知られており、本来は阿弥陀如来像として制作されたことが考えられる。

 こうしたことから、詳細な調査をしていないが、あるいは同氾、同じ原形から鋳造されたのではないかとも考えられる。


 花見寺には他に三体もの銅像の仏があるということから、ここには相当規模の仏所が存在したと推測される。

 銅造阿弥陀如来立像(像高45.3cm 白毫嵌入)
 いわゆる善光寺式三尊像の中尊像であるが、脇侍の観音・勢至菩薩像の中、勢至菩薩の像を欠いている。全体に神経の行き届いた洗練された像である。

 信州長野の善光寺本尊像は、堅く閉ざされた厨子内に安置される絶対の秘仏であって、善光寺の住職といえども直接に拝することの出来ない像である。その像は欽明天皇十三年(641)に百済から伝えられたという日本最古の像であるが、現在はその存在も確認されていない。
 鎌倉時代にはいると日本仏教の潮流として「釈迦に帰れ」という復古主義が盛んとなる。こうした中で、京都嵯峨野の清凉寺の三国伝来の釈迦とよばれる清凉寺式釈迦と共に善光寺本尊像の模刻が盛んとなり、こうした像を善光寺式三尊と呼んでいる。現在確認されているだけでも、その遺品は全国で二百体を超えている。

 善光寺式三尊の像容は、阿弥陀如来を中尊に脇侍としての観音・勢至菩薩を配し、その三尊が一つの光背の中に収められた、いわゆる一光三尊とよばれる形式である。中尊は通肩と呼ばれる法衣を纏い、右手は掌をおもてにみせるだけの通印、左手は垂下させて人指し指と中指を伸ばし、薬指と小指を折り曲げた刀印と呼ばれる印を結ぶのが普通である。
 一方脇侍の観音と勢至菩薩像は、頭上に高い宝冠を頂き、その正面に各々の本地を表す標識、観音は阿弥陀如来像、勢至像は水瓶を陽刻し、腹部の上で左右の掌を重ね合った印を結んでいる。こうしたことから花見寺の像は、脇侍の勢至菩薩像を失ってはいるが、善光寺式三尊像であることが分かる。

 銅造観音菩薩立像(像高33.7cm 白毫嵌入)
 通形の善光寺式三尊の脇侍の観音像である。八角形の宝冠を項き、正面に阿弥陀の立像、他面に聖観音の梵字を陽鋳している。裳の複雑な折り返しなどから見ても、鎌倉時代の後半に入ってからの制作と見られる像である。

 銅造十一面観音立像(像高43.9cm 白毫嵌入)
 髻に頂上面を一面を置くほか、前地髪部に三面、後方に七面の如来形の化仏を置く。丸顔の面相は切れ長の目をもち童顔である。裳の折り返しは複雑であるが、衣雛は柔らかく繊細である。木像は両腕を肩でほぞで矧付けている。鎌倉時代の中頃を過ぎてから、本格的な仏師の手によって制作されたと見られる像である。

 こうしたことから、花見寺の諸尊や、常燈寺本尊の伝承、同一原形と見られる隆台寺像など考えた時、かつての花見寺が上総地方の中心寺院であったことが容易に想像され、今では人家の敷地に埋もれていると考えられる伽藍跡の発掘調査を含め、今後の詳細な調査が待たれる。

 

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