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(4) 伊豆河津・ほとけの里 |
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謎を秘めたというほど大袈裟ではないが、伊豆半島の河津町の南禅寺(なぜんじ)は、人の訪れも希な無住の寺である。この寺には、二十数体の平安仏が残されている。それらの像は、平成四年に熱海のMOA美術館で開かれた「伊豆国の遺宝」展に出陳されたから御覧になった方も多いと思う。 伊豆の古刹といえば、承安三年(1173)に伊豆奈古谷(韮山町)に配流となった文覚が、源頼朝に源氏再興を勧め、共に松崎十一カ所、河津六カ所、下田八カ所、南伊豆八カ所の等々を巡拝したことから始まったという伊豆横道(よこどう)三十三カ所の観音札所や、三島・熱海を含め伊豆半島全域を巡礼する伊豆八十八カ所霊場が知られている。南禅寺のある河津町は、河の津(港)という地名から考えらるように、河津川と谷津川の合流地点にあたり、そこにはかつて大きな港があって、関東や東北地方の中継基地として賑わっていたことが想像される。 平安時代には川津庄と呼ばれ、伊豆の豪族伊東祐親の子で、曽我兄弟の父、また相撲の決まり手「河津投げ」で名高い河津三郎祐泰の所領となり、今でも祐泰に因む遺跡が多い。また江戸時代の初めには縄地金山として金銀の採掘で賑わった。 現代の河津の中心は、伊豆急河津駅周辺や海岸部を走る国道135号線、これから河津川に沿って北上する県道湯が野・谷津線、そして、その県道を合流して、河津七滝ループ橋を回り天城を越えていく国道414号線などの道路沿いである。 この道沿いに点在する河津温泉郷(谷津、田中、沢田、峰、川津筏場・下佐ケ野、湯が野、梨本温泉)は、「伊豆の踊り子」ゆかりの土地で、素朴な温泉を好む人々が足しげく通う温泉場である。また町内の平野部を流れる河津川(二級河川)は、全長9.5kmに過ぎないが、河津七滝の名勝を造るほか、釣人にとっては鮎釣りのメッカとして知られている。 しかし、この河津町には伊豆横道の古刹を始め、多くの古寺・古仏が残され、仏の里ともいえることは、余り知られていない。 しかもそこには、温泉地、観光地としてではなく、もっと素朴な、土地の人達と同じように、触れ合いを得られる寺があり、仏がいらっしやる。 峰温泉大噴湯の裏側、横道第十六番札所で地区の人が観音堂とよぶ無住の禅光庵には、昔、南禅寺から本尊として申し受けたといわれる美しい十一面観音像(県文 一木造 像高142.0cm 平安時代)がいらっしゃる。同じ峰には指定文化財の仏こそないが、近隣の出土品や民俗資料のコレクションを展示する横道第十五番の東大寺がある。 また河津川を挾んだ向かい側の沢田には、林際寺の涅槃堂があり、ちょっとユーモラスな表情をもった釈迦涅槃像(図1)(桧材 漆箔 全長250cm 江戸時代)が阿弥陀三尊像や羅漢像(二十四体)に守られている。 |
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さらに河津川の上流、湯が野の奥、梨本の経ノ山ともよばれる観音山(653m)には、かつて向獄寺とよばれた寺があり、近くの二つの窟には、西国三十三カ所等を模した、江戸中期の三十七体の石仏群がひっそりと安置されている。 こうした古寺の中でも、東泉山南禅寺は伊豆の中で、もっとも古い諸仏がいらっしゃる古刹である。 伊豆魚河津の駅から谷津川に沿って徒歩35分。谷津温泉をぬけて山間に入って間もな<、右側が山、左側が平地となって、その山裾に南禅寺入口の標識がある。 左側の低くなった平地は「仏カ谷」と呼ばれるが、現在南禅寺に安置される数多くの仏像が、ここに埋没していたといわれ、今でも相当数の仏が埋まっていると考えられている。「仏カ谷」の地名は、こうしたことに由来しているという。 山道と間違うような急な参道を登る。足の弱い人は怖じ気づいてしまう。右に左に折れながら100m程登ると、ようやく南禅寺の本堂の前に到着する。本尊薬師如来坐像は、昭和48年に盗難にあったことがある。確か二年後には犯人が逮捕され、仏はどこか他県の山中で発見されたという新聞報道があった記憶がある。 こんな急坂を等身の重い一木像を、どうやって運んだのか不思議に思ったが、窃盗団は夜間に本堂のある境内から、下の道までロープを張り、滑車を使って下ろしたという話を、土地の人に伺った。 現代の南禅寺は、地区の人々によって守られる真言宗の寺である。この寺は、康和元年(1099)に実道法師が創建した東泉山(仙洞山)那蘭陀寺(ならんだじ)を前身とし、かつては七堂伽藍を備えた大寺であったといわれている。 しかし二度にわたる山崩れによって堂塔伽藍を失い、特に延享四年(1422)に起きた裏山、堂山の山崩れで那蘭陀寺は廃寺となった。それから百年以上経った天文十年(1541)の秋、温泉治療にきた鎌倉正光院の南禅和尚は、ここに坊を営み、布教の傍ら、村人達にうどんや蕎麦・饅頭などの製法を教えたことから、人々は和尚を慕い、坊を南禅坊とよんだことから南禅寺の寺号が興ったといわれる。 その後江戸時代にはいると、天台宗聖護院系の山岳修験の寺となり、東宝院の法印がこの寺を差配して、明治五年の修験道廃止まで続いた。(近くにその末裔の方がいらっしゃるが、明治の火災で資料が全て焼失したとのことだった) しかし那蘭陀寺も、南禅寺にも、確かな文献もなく、『掛川誌稿』(天保年間−1833〜44)によれば、「……中古南禅寺と云は誤也といへり、今は薬師堂一宇、奥谷にあり、村人は専ら南禅寺と呼、……南禅寺は自ら別にて、那蘭陀寺と共に荒廃せしに因て、再興の時二寺を併せて、那蘭陀寺の旧号を冠せしにや、総て詳なることを得ず、…」とあって、本来は二つの寺が並存していたとも考えられる。 現在の本堂は、近隣の浄財を募り、文化十一年(1814)に再建した三間四方の簡素な建物で、傷みが進んでいる。 堂内は外陣と内陣に分かれ、外側外陣の左右には天部像、内陣の正面は棚で仕切られ、本尊薬師如来坐像をはじめ、脇侍としての十一面観音立像・地蔵菩薩立像を安置する。両側の柵の中にも諸像が安置さている。 本尊薬師如来は行基自刻の作と伝え、奈良時代に行基が、寺の下にあった立岩温泉に滞在して、千体の仏像を造像したという伝承がある。しかし現在の像はいずれも平安時代中頃の十世紀から十一世紀の頃の制作と見られる像である。 |
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天部立像二躯(図2、3)(県文 木造 一木造 彫眼 彩色剥落 像高 膝下を失った左の像145.7cm、右の像158.2cm、各両手先、両足先欠失)二躰とも大ぶりの誇張の目立つ像である。太い眉や、大きく見開き飛び出した目は仏敵を威嚇する武将像としては迫力を欠き、口元には笑みさえ浮かべているように見える。 一方、カヤの一材から彫り出した体躯には、重量感があるものの、全体に彫りが浅く、顔と体躯のアンバランスの点などが、この像を地方的な像としている。 寺では仁王像というが、甲を纏うことなどから、四天王の中の二躰と考えられる。十世紀の頃の制作であろう。
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薬師如来坐像(図4)(県文 一木造 素地 彫眼 像高117.7cm)堂内では彫刻的にもっとも優れた像で、那蘭陀寺の本尊とも伝えられ、それに相応しい品格と重厚さを兼ね備えた、通形の薬師如来像である。この像には平安初期の薬師像に見られる、あの厳しいまでの森厳さはなく、表情はむしろ温和であるが、これは後世の彫り直しのためであろう。 しかし肉付きのよい面相、幅のある肩、奥の深い胸や腹部、高い膝高、そして形式化こそするが、丁寧に刻出された衣文線、さらに力強い肉厚の手先など、いずれをとっても本像が平安初期様式を受け継いでいることを物語っている。当寺の中でももっとも古様を伝えている像でもある。 |
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地蔵菩薩立像(図6)(県文 一木造 素地 彫眼 像高 191.6cm)体躯に比べて頭部はこじんまりとして小さく、しかも視線を前に落しておとなしい。 これに比べて体躯は、ガッチリとした体型を持ち、重厚な一木の塊量性がある。しかしながら法衣の衣皺は浅く、両腿の隆起を現す左右対象の衣皺も浅く形式的である。一方では法衣の左袖を靡かせるなど工夫も見られるが、そうした工夫が生かされず、全体的に地方色が強い。本像もまた十世紀の制作と見られる。 梵天立像(図7)(県文 一木造 素地 彫眼 像高176.0cm 両手先欠失)寺伝にあるように、土中に埋もれていたのであろうか、浅い彫りがさらに浅く見え、全体にやつれが多い。顔を損失した帝釈天像と対をなす像で、薬師像などからはやや遅れて制作されたと見られる。 帝釈天立像(県文 一木造 素地 彫眼 像高173.0cm)
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他に、 など、いずれも彩色を失って素地をあらわした仏達が数多く残されている。 これらの像はいずれも十、十一世紀を下らない像で、その種類の豊富さや法量からも、当時の那蘭陀寺が仏所まで抱えた、大規模な寺であったことが想像されるが、しかし今では記録も残らず、歴史の彼方に姿を消した幻の大寺となっている。 |
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参考 *南禅寺・善光院・涅槃堂の拝観は、事前の連絡が必要です。 |
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