川尻祐治

(3) 鳥冠の兜跋毘沙門たち-2)

 正楽寺で驚かされたのは、厨子内の本尊聖観音の脇侍としての持国天と兜跋毘沙門天(とばつびしゃもん)像の他に、四躰もの兜跋毘沙門天像があることである。

 厨子の左右前後を四天王のように固めた四躰の兜跋毘沙門天像がある(図1・2)。もちろんこの配置は当初からのものではないにしても、厨子内をいれて五躰もの兜跋毘沙門天像が一ヶ寺にあるということで驚かされた。これだけ多くの兜跋毘沙門天像があるという例は他にはほとんどない。

 縁起によればこの寺は、奈良時代に行基(ぎょうき)が、丹後国田井の別所(現舞鶴市田井)に、一堂を建立して自刻の像を安置したことから始まるという。やがて地震が起こり、建物は崩壊し、諸像はことごとくその下敷きとなって埋もれてしまった。しかし漁師が海に出て見ると、堂のあった辺りから金色の光が輝いていたので、諸像を掘り起こし、上瀬(現高浜市上瀬)に寺を建立して祀り、さらに日引(ひびき)に西国二十八番観音霊場松尾寺の隠居寺として建立された正楽寺に移されたと伝えている。

 正楽寺の厨子を守る四躰の像(各一木造 彫眼 漆塗 像高117.2〜126.2cm)は、和風化した中国風の鎧を着けた像で、腹帯部の前盾をバックル状に彫出し、獅噛を省略するほか、前盾の下部を墨書で表したり、天衣の一部と間違うような円状で表すなど、細部の省略が目立つ地方的な像である。

 さらにこれらの像を詳細に見ると、各々その様式が異なるなど、作者・制作年代・制作場所など、問題の多い興味深い像ということが分かる。


 少しくどくなるが、これらの像の詳細を見ると表のようになる。

項目

頭部

鎧 天衣 裳 脛当

持物

台座

厨子内

宝髻を結い、正面に山形冠を付ける

中国風の鎧を着けた一般的な毘沙門天像で、比較的省略の少ない像。

左手は宝塔を捧げる
右手は戟を執る

地天女が袖に入れて挙げた、両手掌の上に立つ

厨子の外
向かって右

前列

中国風の甲を被り、全面に蹲った鳥を戴く

・中国風の鎧を着ける。
・腹部の前盾の獅噛を省略。
・天衣の正面に円状に前盾の裾を折返しを着ける。
・前盾は腹上から天衣までの間の彫刻を省略して金泥で繋ぐ。
・両脇に天衣を垂下させる。
・表甲と下甲を二段に表し、正面右衽を上に大きく折り返し、左衽は小さく折返す。
・裳裾は長く波状の折り返しを付ける。
・袴は重々しい。

左手は宝珠(後補)を捧げる
右手は戟を執る

地天女の両手掌の上に立つ

後列

筒型の宝冠を被る

・中国風の鎧を着ける。
・左右に広袖を翻す。
・前盾は獅噛を省略し、腹帯上に円形で表現し表甲の裾部にまで垂下した天衣の下部に折返しを茶匙型に墨で描き、その間を金色の二条の線で結んでいる。
・両脇に天衣を垂下させる。
・表甲と下甲を二段に表すが、正面の合せ目である衽を省略する。
裳裾は帯状に浅く彫り、墨を塗る。
・袴は重々しい。

左手は剣を執る
右手は指を拡げ、手先を押出す形

地天女の両肩の上に立つ

厨子の外

向かって左

前列

蹲った鳥冠を被る

・中国風の鎧を着ける。
・左右に広袖を翻す。
・前盾は獅噛を省略し、腹帯上に角型で表現し、大衣まで金色の二条の線で表現。
両脇に天衣を垂下させる。裾部には表甲の裾のみを表現。
不甲は省略。表甲の柾を左右対称に彫る。
裳裾は帯状に浅く彫り、墨を塗る。
袴は重々しい。

左手は右手に持った
剣先を支えるようにする

地天女の両肩の上に立つ

後列

宝髻を結う

中国風の鎧を着ける。左右に広袖を翻す。前盾は獅噛を省略し、腹帯上に角型で表現し、天衣まで金色の二条の線で表現。天衣は中央で別れ、左右先端を茶匙型に刻出する。両脇に天衣を垂下させる。表甲の裾部は天衣の下端に、合せ目がなく、不甲も合せ目がない。裳裾は帯状に浅く彫り、墨を塗る。袴は重々しい。

左手は経巻を握る形
右手は腰に当てる

地天女の両肩の上に立つ


 こうした特徴の中で、特に注目したいのは、その冠と腹部の前盾や甲の処理、足元の地天女などである。

 今一度兜跋毘沙門天について触れると、兜跋毘沙門天の兜跋については諸説あるが、一般的には、吐蕃、西域地方、現在の中国トルファンを指すと解されており、都跋・吐蕃などとも書かれる。
 その信仰は、中国唐の時代から始まり、西域安西都護府が敵に包囲された時、玄宗皇帝は不空三蔵に修法を命じたという。不空が「仁王経」の陀羅尼だらにを唱えると、楼門に兜跋毘沙門天が現れ、また鼠が現れて弓の弦を噛み切り、敵を退散させたという故事が知られている。
 兜跋毘沙門天は、前回に説明したが、毘沙門天と同体であるが、また毘沙門天が四天王の中、北方守護の多聞天と同体といわれることから、薬師十二神将の北に位置する子神(宮毘羅-くびら-大将をあてることが多い)とも同体といわれ、故事にいう鼠が弦を噛み切ったという話は、十二神将の子神と結びつけた話と考えられる。

 こうして兜跋毘沙門天の信仰は、王城守護・国土鎮護の仏として盛んとなったが、やがてわが国にも延暦24年(805)の頃、唐より帰国した最澄、翌年帰国した空海等によって正式に伝えられた。
 おそらく現在京都教王護国寺に伝えられる兜跋毘沙門天像も、この頃唐より請来されたと考えられる。
 なおこれより先の延暦15年(796)に、藤原伊勢人が平安京の北方鎮護の寺として建立したという鞍馬寺は、本尊として毘沙門天を安置したことが知られている。
 また教王護国寺の像はかつて、平安京正門の羅城門に、都守護の仏として安置されていたが、羅城門の倒壊により移された像である。
 この像は、正面に金翅鳥を薄肉彫とした筒型宝冠を項き、西域風の金鎖甲を下甲とし、海老篭手を着け、地天女の手の掌に立った、見るからに異国風の像である。京都清凉寺像、奈良国立博物館像などがこの系統の像である。正楽寺像の中、右側後列の像もそうした像と見られる。

 教王護国寺像の他にもう一つの系統の像として、比叡山に安置されていたという、中国風の鎧を付けた兜跋毘沙門天像がある。
 別尊雑記は坐像の毘沙門天像を描くが、これには「叡山前唐院毘沙門之様」「及文珠堂毘沙門比様立像」と注記される。この毘沙門天像は、他の記録から屠半(とばん)様とよばれたことが知られており、九院仏閣抄にはこの像を「根本大師御作、立長六尺、兜跋国利益毘沙門彩像也。地天之棒」と記している。
 叡山の像は現在失われているが、図像からみると筒型宝冠に金翅鳥を載せ、わが国の神将像に見られる通形の中国風の鎧を身に着け、地天女の掌に支えられた半跏趺坐の像ということが知られる(図3)。


 この筒型宝冠を被らない、和様化の進んだ中国風の鎧を着けた兜跋毘沙門天像が、わが国では多数制作された。福岡観世音寺像や、滋賀石山寺像、和歌山道成寺像などがこうした例である。

 やがて兜跋毘沙門天は、国家守護という性格から、辺境の地にも安置されるようになり、岩手県東和町の成島毘沙門堂や藤島毘沙門堂、あるいは神奈川県朝日観音堂等の像がこうした例で、いずれも和様化の進んだ中国風の鎧を着けた兜跋毘沙門天像である。しかしこれらの像で、実際に冠に金翅鳥を戴いた像はほとんどなく、貴重な例として兵庫県八千代町楊柳寺像、兵庫県氷上郡達身寺像(図4)や福知山市威徳寺像(図5)を挙げる程度である。なお珍しい例としては、五仏宝冠を戴く兜跋毘沙門天像も知られている。


 こうしたことから、正楽寺の前列二像は金翅鳥を戴く像として注目され、しかも他の像が羽を広げた形であるのに対して蹲る金翅鳥という点に大きな特色がある(図6)。

 この金翅鳥と兜跋毘沙門天の関係については、覚禅抄毘沙門天法に次のような説明があり、その関係が窺える。

  多聞天身色黄金。頭冠上有赤鳥形。如金翅鳥…
  恵什云、毘沙門頂上有鳥。以鳳凰。未見説所。
  倶有證據事。天竺于。国有古堂。安置毘沙門。
  載鳳鳳也。件堂修理科。堂内庭埋宝物。
  于時盗人入欲盗之時。彼項上鳳凰羽打鳴。
  盗人大惶怖不取宝物。去畢。

 また金翅烏を冠とした像は、図像の中では幾種類か見られる。別尊雑記五四の多聞天や高野山金剛三味院蔵本二十八部衆井十二神将図十八、毘沙門天像がそうした例である。

 図像は経軌や口伝で説明される尊像や、曼陀羅の形式を図で現したもので、本格的な絵画とは異なり、多くは密教の僧侶達によって、記録伝承・学問研究を目的に描かれ、その大多数は墨線による素描、いわゆる白描画であって、彩色はあっても淡彩である。

 この図像は入唐僧が唐から請来した唐本図像と、平安時代末期から鎌倉時代にかけて盛んに行われた唐本図像等を転写、収集した図像があり、こうした図像の中で代表的なものが、図像抄(恵什抄十巻抄ともいう。永厳 保延五六年)や別尊雑記(心覚 保元元〜治承四)覚禅抄(覚禅 安元二〜延暦三頃)・阿娑縛抄(あさぱしょう)(承澄 仁治四〜)などの他、尊像別の醍醐寺本不動明王図像集鎌倉時代初期)などである。彫刻として造られた三尊や群像が、後世に何らかの理由で動かされたり、また他の像が加わったり、あるいは独尊で手先を失ったり、十二神将のように十二支の標識を失った時などには、その尊名が不明となる。こうした時、図像ではその姿、形が元のまま伝えられているため、これを参考とすることが出来、貴重である。したがって仏像研究の上では欠かせない資料となっている。

 これらの図像、彫刻上の像が、すべて羽を拡げた鳥の形で描かれ、また彫刻されるのに対して、正楽寺の前列二像は、羽を閉じて蹲った金翅鳥を冠とし、しかも左の像は、鳥そのものを冠とした珍しい例である。なぜ鳥が蹲った形なのか。大きな凝問が残るが、後列の二像が甲の正面に合わせ目を作らないことなどと共に、制作者の意図的な省略ではなかったと考える。

 また兜跋毘沙門天が毘沙門天と異なる点に、毘沙門天が邪鬼を踏まえて立つのに対し、兜跋毘沙門天が地中より現れた、地天女という女神の両掌の上に立ち、その.両脇には、毘藍婆、尼藍婆という二躯の邪鬼が寄り添っているのが普通であるが、正楽寺像ではすべて地天女だけである。
 こうした特殊というか、地方的な像がなぜこの丹後と若狭の間に残されているのか。
 かつてこの辺りには、青葉山を中心とした古代寺院があったといわれ、今でも青葉山山腹の高野阿弥陀堂や今寺観音堂には古様の像が伝えられているという。
 また高浜の中央部南、大飯町との境界を作る牧山・宝尾山にも大寺院があったと考えられており、二つの山を取り巻く山裾には、現在も古様の像が残り、畑地区には、時代こそ下るが、等身大の毘沙門天(室町時代)が無人の小堂に安置されている。こうしたことから、この辺りには、かつて寺々の仏像制作に従事した仏所が存在したとも考えられ、こうした中で、正楽寺像のような特色のある像が制作されたとも考えられないだろうか。


 堂の他の像の中、唯一の坐像である釈迦如来像(図7)(一木造 桧 彫眼 素地 像高60.4cm)は、大粒の螺髪を刻出した高い肉誓に、秀麗な面相をもち、量感のある体躯に太く力強い衣文を刻む像で、諸尊の中ではもっとも洗練された彫法の像である。木像もまた十一世紀に遡る像であろう。
 また智拳印を結んだ立像の大日如来像(図8)は珍しいが、菩薩立像の両腕を後世造り替えたものであろうか。

 本堂にも二体の像が安置されているという。観音堂の強烈な印象が再び味わえるのか、そんな期待に胸を膨らませた。
 その通りだった。本堂須弥壇には本尊聖観音立像と阿弥陀如来立像(図9)が安置されていた。
 阿弥陀如来立像(一木造 桧 彫眼素地 像高98.5cm)は可愛らしい素朴な表情を持った像であるが、衲衣には左から右にかけて、斜めに伸びやかな衣褶を刻み、胸際には平安初期彫刻に見られる渦文を稚拙に刻んでいる。また衲衣の正面の二本の衣褶は、先端を蕨手型に丸めるなど、いかに自由な地方的発想のもとに制作された、親しみのある個性的な、他に例のない造型となって表現されている。

 拝観を終えて海を眺めていると、今一度鳥冠の兜跋毘沙門天像を思い起こし、若狭の三方地方を中心に伝えられる「王の舞い」という神事が浮かんできた。
 毎年春、武内社宇波西(うわせ)神社を始め、闇見(くらみ)神社や弥美(みみ)神社の大祭では「王の舞い」が奉納される。この祭りでは踊り手が鳥兜をかぶって舞うのが普通である。鳥と若狭、何故か重なってくる。

 それにしても不思議な土地である。中央作と見られる素晴しい像があるかと思うと、ひと山、ひと谷越せば、素朴な地方仏が残されている。そして言葉も違ってくる。若狭は知れば知るほど魅力的な土地である。

  

 

「謎を秘めた仏たち」は、古美術月刊誌「目の眼」((株)里文出版発行)に好評連載中です。

 


inserted by FC2 system