川尻祐治

(2) 鳥冠の兜跋毘沙門たち-1)

 福井県の歴史書を読んでいた時、若狭の守護大名武山氏の滅亡の一因に、海賊の跳梁があることを知った。

 リアス式の海岸線の続くこの海には、大小の半島、岬が外海に突き出し、内陸部から眺める白砂青松の穏やかな景観は一変し、切り立った断崖が荒々しく続き、海に漕ぎ出して見ると、まるで城塞を築くようにも見える。そうした中に僅かな浜を求め、漁に生計を求める小集落が点在するが、こうした小さな浜は、海賊に襲われ一旦上陸されると、背後の険阻な山並みが人馬の交通を阻み、援軍の到達も期待できず、浜の人々はなす術もなく敵の蹂躙に逃げ惑ったことが想像される。

 このような不安は浜に住む漁民にとって、武山氏の時代だけに限らず、はるか昔から常に繰り返されてきた恐怖であったと考えられる。

 こうした浜に住む人々は、身の安全をどのように考えていたのだろう。本来の庇護者である若狭の領主に期待できないとすれば、神仏の加護を求めるようになり、信仰が生まれる。

 生活の場を同じくする人々にとっての共通の信仰は、病気・伝染病等に対する祈りは言うまでもないが、海浜という地域性から、遭難など、海という働き場所から生まれる信仰、そして侵略者から守って貰うという信仰がある。

 若狭地方の特長ある信仰の一つに馬頭観音の信仰が挙げられる。馬頭観音を本尊とする寺に、中山寺・馬居寺・大徳寺・坂本観音堂などがあり、また舞鶴市の西国二十九番札所松尾寺も同様に馬頭観音を本尊とする寺として知られている。

 これらの信仰は、各寺の縁起もそれぞれ異なり、必ずしも海には結び付かないが、松尾寺の縁起から知られるように、本来的には漁師の海に対する恐怖から始まった信仰と私は考えている。

 昔、若狭国高浜の漁師が漁に出た時、突然に嵐が起こり遭難しそうになった。漁師が観音菩薩を念じていると、空から黒い馬が一頭あらわれて漁師の舟を陸まで導いてくれた。漁師は仏恩に感謝して馬頭観音像を松尾寺に寄進したという。江戸時代に入って、若狭側から、この像は本来若狭の人が奉納したのだから、返して欲しいということで訴訟になったこともある。

一方侵略者に対する信仰としては、毘沙門天、とりわけ兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)の信仰がある。

 兜跋毘沙門天の信仰は京都教王護国寺の請来仏が有名であるが、平安以降わが国に広く広がった信仰で、各地にその遺品が知られている。

 教王護国寺像もまた、都の羅城門に王城守護のために安置されていた像で、これを範として制作が行われたと考えられる。

 唐の時代、西域の安西都護府が敵に包囲された時、玄宗皇帝が不空三蔵に修法をさせたところ、楼門に兜跋毘沙門天が現れて、外敵を退散させたという伝説がある。

 また我が国では、承平・天慶の乱(939)の時、平将門討伐のために、羅城門に兜跋毘沙門天像を安置して修法を執行したことが知られているなど、国土守護の仏として信仰された。

 私はそれまでにも若狭の各地の仏像を追って、歩き回ったが、兜跋毘沙門天像を見ることは無かった。自分の考えに間違いが無ければ、若狭にも当然この兜跋毘沙門天の信仰がある筈だと思いつつ時間が過ぎた。

 若狭の兜跋毘沙門天像を知ったのは、若狭歴史資料館に展示されていた小浜市郊外の加尾薬師堂の像を知ってからであった。

 この薬師堂は内外海(うちとみ)半島のエンゼルラインの入口から急坂を下り、海沿いの道を進み、僅かばかりの浜に面した加尾の集落にあり、半丈六の藤原期の薬師如来坐像と脇侍の日光、月光菩薩像、十二神将像、そして小さな僧形八幡神像(図1)を安置しているのが珍しい。

 私がこの加尾の兜跋毘沙門天像を見たとき、さらに貴重な情報を得た。若狭の西端、高浜町の大浦半島の日引(ひびき)地区にある正楽寺に、何体もの兜跋毘沙門天像があるという。

 一ヶ月後正楽寺を訪ねた。

 馬頭観音で名高い中山寺の門前を抜け、名山青葉山(標高699m)の山裾を回る。

 青葉山は西峰と東峰にわかれるが、若狭側からの眺望は二つの峰が重なりあい、三角形の神無備(かむなび)山となり、若狭富士の名が相応しい。一方松尾寺のある丹後側から眺めた時は、二つの峰が別れ、双耳山と呼ばれるようになる。

 この山は白山の泰澄が開いたといわれ、江戸時代までは女人禁制の修験の山として栄え、頂上付近には今でも鎖場が残るという。

 内浦湾を回るように細い県道を日引に向かう。塩汲峠を右折して約四キロ、細い下り一方の道を進む。日当たりのよい傾斜の、海を見下ろす小集落が日引である。

 正楽寺は海を越え、湾奥の高浜原子力発電所を遠くに眺め、恐らく境内からの眺望は若狭随一と思われる景勝地にあった。

 小野道風筆と伝わる扁額のかかる細やかな山門を潜る。正面には観音堂、左に本堂と庫裏、右手に鐘楼が建つ。期待に胸を膨らませながら、正面五間の観音堂のガラス戸を開けて頂いたとき、思わず足がすくんでしまった。

 真中の厨子を中心に二十三体の仏が林立していた。堂内は仏で満ち溢れている(図2、3)。仏達の視線は外来者を睨み据えているようだ。

 一体の坐像を除き全て立像である。肉身部を黒く、衲衣・鎧は茶色くベンガラ漆を塗る。そして目を白く、唇には朱をいれる。彩色や漆は後世のものだが、呪縛力すら感じさせ威圧感がある。これこそ郷土守護の仏達である。

 本尊は聖観音像(一木造 杉材 彫眼 彩色剥落 像高157.1cm)である。

 同一厨子内には、脇侍の毘沙門天像と兜跋毘沙門天像(図4)を安置するが、この三尊形式は当初からの形ではなく、兜跋毘沙門像は今はなくなった当寺の山門に安置されていた像とも言われる。

 聖観音像は、高い筒型の宝冠を戴き、はっきりとした目鼻立ちには本尊らしい威厳がある。僅かに腰を捻り、水瓶を執った像容に動きが感じられる。

 胸部の肉取りは厚く、衣文の天衣や裳の折り返し部分に、平安初期彫刻の特色に挙げられる三角状の折り返しが見られるなど、彫法は古様である。しかし衣や裳の衣褶の刻出は穏やかで、制作年代が平安時代中期ということを物語っている。背面はみることは出来ないが、省略されているという。

 脇侍とされる毘沙門天像(彩色 像高107.7cm)は広袖を垂下させ、左に鉾をもち、右手は腰の辺で拳を握った像である。籠手や脛当、獅噛等の省略が目立つが、当寺の神将像の中では、もっとも丁寧に彫られた優れた像である。平安時代後期の制作か。

 兜跋毘沙門天像(彩色 像高109.7cm)、鉾を執り左の掌に宝塔を頂き、地天女(ちてんめ)の両手掌の上に立った、いわゆる兜跋毘沙門天像であるが、教王護国寺像の正面に鳥を薄肉彫りとした筒形宝冠や、異国風の海老篭手のない、和様化の進んだ兜跋毘沙門天像の一つである。像容は上半身に対して腰から下の部分が短く、やや胴長の感があり、変化も少なく、それらがこの像を地方的な像としている。恐らく平安時代後期に、この地方で制作されたと考えられよう。

 兜跋毘沙門天を支える足元の地天女(図5)は、膝前まで刻出した坐像で、同時代の制作と見られる。両手を長袖の中に包んだままVの字型に挙げて、兜跋毘沙門天を差し上げる姿は、いかにも女性らしくつつまし気な像である。当寺の諸尊の地天女の中では、もっとも省略がなく優れた像である。

 毘沙門天像と兜跋毘沙門天像の像容の相違は、前者が岩座や邪鬼の背に立ったり、あるいは邪鬼を踏み締めているのに対して、兜跋毘沙門天像は地天女と呼ばれる女性の掌に立つ点が異なっている。

 なお毘沙門天は、四天王の中、北方多聞天が独尊で安置された姿という。また兜跋毘沙門天像は、大別してその像容は二つに区分される。(猪川和子著『日木古代彫刻史論』講談社参照)一つは教王護国寺像(図6)を範とした筒形宝冠を被り、海老籠手を着け、外套風の鎧、金鎖甲を着け、地天女の上に立つ像で、この系統には寄木造の像が多いという。

 もう一つの像としては、わが国の一般的な神将像の形をとり、筒形の宝冠も作らないが、教王護国寺像と同様に、地天女の上に立つことから兜跋毘沙門天とよばれる像である。この形の像には一木造の像が多いという。他にこの二種の像の中間的な像もある。

 正楽寺のこの像は、中間的な像と考えられる。しかし服制こそ日本的であるが、和様化した通常の像が、背面の裳裾を足元近くまで長く垂らしているのに対して、この像では裳裾を垂らすことなく、両足の袴部分を膨らませる他、教王護国寺系の滋賀・善水寺像のように、鐙の正面裾端部分を反転させているなど、和歌山・道成寺像(図7)などに共通した様式をもっている。一続く一

 

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