川尻祐治

(1) 能登の隠れ仏

 前から一度は出掛けてみたいと思っていた能登の薬師寺に、「目の眼東京友の会」の旅行で訪れることができた。

 七尾から湾に沿って、北東に80キロも進むとようやく内浦の町に到着する。町の北東部布浦地区の九ノ里集落にある薬師寺は、県道に沿い、海に近い高台にある。

 この寺は、今では一般住宅と見間違うような、衰えた真言の寺ではあるが、江戸時代に書かれた『能登名跡志』によれば、豪族松波常陸介の祈願所で、九星薬師寺とよばれていた。本尊薬師如来は見仏上人が仏穴に残した霊仏といわれ、能登国十二薬師の筆頭に数えられたと伝えている。

  その本尊は、狭い内陣奥、素朴なお厨子に安置された、20センチに満たない銅造鍍金の薬師三尊(国重要文化財)の小金銅仏である。

 当寺に伝わる延文三年(1358)の「苦能離薬師縁起」では、海底に沈んでいた像が浜に上がり、これを祀っていたところ、次第に参詣の人が集まり、やがて堂が建立され、定住の僧が居住して寺となったと伝えている。また寺勢の衰えた時代、越後の盗賊が像を盗み、熔かそうとしたところ火事となり、寺に戻されたが、薬師に残る鎚疵はこの時の傷と伝えている。

 この三尊は昭和六十二年に東京国立博物館で開催された「金銅仏」展に出展され、識者の注目を集めた。

 中尊は宣字形台座とよばれる古式の裳懸座に結跏趺坐(けっかふざ)した薬師如来像で、像高19.0センチの可愛らしい像である。また左右の脇侍菩薩立像(像高16.8、16.7センチ)は、蓮池を想像したと考えられる中尊の台座の下框の部分から、S字状に伸びる茎先の蓮華座に、慎ましく控えておられる。

 三尊はいずれも古様の像であるが、薬師如来は厚い法衣を、通肩とよばれる着衣で両肩を覆い、胸元を大きく開け、皺は大掴みである。台座前部に長く垂らした古様の裳は、幅が狭く、左右対象の皺は不整合で、技法的には稚拙である。

 頭部は螺髪(らほつ)を刻まず、髪際の正面中央で分髪するほか、後頭部の髪裾も真ん中で分髪としている。面長の面相は額が広く、眼は切れ長で視線を前方に落とし、耳朶(じだ)は長い。口許は小さく、全体に優しく慎ましい表情をもつ。

 結跏趺坐(けっかふざ)の膝巾は坐高に比して狭く、そのぶん膝高が高い。左手は薬壷ではなく宝珠のようなものを掌に置き、これを親指で押さえ、右掌は伏せて膝に添えている。お顔こそ大きめではあるが、体躯は像高に比して肩幅がなく、細身で華奢な肉付けが、本像を一層好ましい像としている。

 中尊とは様式的にも若干の相違を見せるが、二躰の脇侍像はいずれも三面宝冠を項き、同形の胸飾りをつけ、衣制をはじめ二重にかけた天衣も共通している。猪首の頭部は、体躯に比べて大きく、韓国国立慶州博物館の三花嶺の弥勒三尊石仏(七世紀)を想い起こさせるなど、様式的に新羅仏との共通点がある。

 脇侍像の蓮台を支える蓮茎は、右脇侍像のそれは後補のものと変わっているが、極楽の池の上に咲く蓮の花を想像したもので、こうした例としては、中尊の台座や蓮茎の生え方など、形こそ違うが、古い像として法隆寺金堂の釈迦三尊像や、献納御物四十八体仏の内(244号像)山田殿の刻銘をもつ阿弥陀三尊像、法隆寺橘夫人念持仏(白鳳時代)、あるいは広島耕三寺浄土曼荼羅刻出龕像阿弥陀三尊像(平安時代中期)などが挙げられる。また平成五年の埼玉県立博物館「甦る光彩-関東の出土金銅仏」展には、一茎三尊とよばれる三尊形式の中、中尊の蓮華台座の下框から、脇侍の蓮華座の茎が伸び上がった型で、中尊を宝冠阿弥陀とする三体と、一体の宝冠如来像(各平安時代後期)の小金銅仏が展示され、こうした像が阿弥陀三尊像として、かなり後の時代にまで制作されていたことを知ることができる。なお、この形式は主として天台系で行われたと考えられている(光森正士著『阿弥陀如来像』<至文堂>参照)。

 薬師寺像の場合は、中尊の台座が法隆寺の釈迦三尊や山田殿像に見られる、須弥山(しゅみせん)を象ったという古様な宣字形台座であって、前記の他の三尊像のように中尊が蓮華座に坐った像ではない。

 また橘夫人念持仏は、宣字形台座の上框の甲板を蓮池に想定し、さざ波や蓮の葉を精緻に刻出して、その波間から伸び上がる蓮華を三尊の台座としている。

 薬師寺の両脇侍像は、寺伝では中尊を薬師如来とすることから、薬師の脇侍である日光・月光菩薩としている。

 だがこの像では、左脇侍は、二面宝冠の正面に如来の化仏を戴いており、観音菩薩像と考えられる。右脇侍もまた、右手に勢至菩薩の標識である水瓶を執ることから、勢至像と見られる。したがって両脇待を観音・勢至の二菩薩とすれば、中尊像は阿弥陀如来ということになるが、通常阿弥陀如来像は持物がなく、このために宝珠を執るこの中尊は、阿弥陀如来ではないということになる。

 さらに今一度脇侍の問題から中尊の尊名を考えて見ると、わが国で仏像制作のための詳細を説明する儀軌が確立するのは、奈良時代を過ぎてからのことであり、奈良久米寺の薬師三尊像が、観音・勢至を脇侍としているという例もあるなど、当寺の三尊を必ずしも阿弥陀三尊とするには問題がある(特別展「金銅仏」<東京国立博物館>参照)。したがってこの三尊は寺伝の通り薬師三尊像としておきたい。

  三尊の制作については、中尊や脇侍にみられる、わが国の七世紀前半様式を踏襲した特徴、三尊の日本的な面貌、中尊の台座などから、七世紀後半の頃、朝鮮半島からの渡来系仏師、それも傍系の仏師が、日本・朝鮮の各様式を取り入れて制作したとの見解が強い(久野健著『古代小金銅仏』<小学館>参照)。

 一方、この三尊は、あの特異な異国的な様式をもつ兵庫一乗寺の本尊観音菩薩立像(重文)との共通点が指摘されている(浅井和春著『兵庫一乗寺観音菩薩立像について』<仏教芸術158号>参照)。加えて一乗寺開創の伝説を持ち、飛鉢仙人として名高い法道仙人が、天竺から日本に渡米したときに、当地に隣接する珠洲の海に漂着したという伝説(後藤道夫著『鹿島神宮寺の金銅仏』<仏教芸術一五一号>参照)がある他、七尾湾の能登島には同じ飛鉢仙人の臥(ふせ)行者の伝説があるなど、当地方には法道仙人に通じる伝説が多く、これらを考え合わせたとき、能登薬師寺像を渡来仏とする見方が濃くなってくる。

 

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