埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第七十八回)



  第十七話 中国三大石窟を巡る人々をたどる本
〈その2〉雲岡・龍門石窟編


 【17−5】

【明治・大正年間に雲岡・龍門石窟を訪れた人々】

 雲岡、天龍山石窟については、その発見者が語られるが、龍門石窟については、何時の時代もその存在が忘れ去られることの無かった。

 近代に入り、最初にこの龍門石窟を訪れた日本人は、岡倉天心であろう。

岡倉天心

 龍門石窟の美術史的価値を、世界で最初に見出した研究者は、岡倉天心といわれている。
 1893年(M26)、岡倉天心は美術学校生徒・早崎稉吉を伴って、清国美術調査の旅に出る。
 帝室博物館による「日本美術史」編纂のためであったが、早崎に写真撮影技術を習得させるなど周到な準備の下にすすめられた。五ヶ月にもわたる中国各地の 古 寺・古跡を巡る旅であったが、岡倉にもっとも大きな感銘を与えたのは、龍門石窟であった。
 「まず龍門の伊闕に上る。諸仏の妙相忽ちにして喚起の声を発せしむ。実に支那の奇観なり。此に至り西遊初めて効あり。特に数小洞の観音等面白し。二王は 法 隆寺壁画に均し」
と、支那旅行日誌に記するとともに、
 賓陽洞本尊を法隆寺金堂釈迦像と「毫も変わることなし」と評している。

天心中国旅行時の写真
(龍門奉先寺盧舎那仏

 「法隆寺釈迦三尊像の源流は龍門賓陽洞本尊にありという考え方」は、この岡倉天心から始まり、それ故に長らく 定説となっていったのであろうか?


 岡倉の清国美術調査の旅については、この本に採り上げられている。

 「岡倉天心アルバム」 茨城大学五浦美術文化研究所監修 (H12) 中央公論美術出版社刊 
【219P】 3800円

 本書は、写真資料による岡倉の伝記アルバム。
 「清国出張」の項に、旅行経路、龍門奉先寺洞などの旅行写真が掲載されている。

 


 ここからは、明治大正年間に雲岡・龍門石窟を訪れた人々について綴っていきたい。

 1893年(M26)に岡倉天心が龍門石窟を訪れ、1902年(M35)伊東忠太が、雲岡石窟を発見したことは先に述べた。
 1906・1908年(M39・41)には、関野貞が塚本靖、平子鐸嶺とともに鞏県・龍門・雲岡石窟を訪れている。
 塚本靖は、その訪問記を「清国内地旅行談(正・讀)」として発表した。
その同じ頃の1907年(M40)、フランス人中国学者、シャヴァンヌが、鞏県・龍門・雲岡石窟を訪れた。
 その調査成果と多数の撮影写真を収録した「華北調査図譜」を1909年に刊行、大きな反響を呼び、西欧においても注目されることとなった。
 シャヴァンヌは、龍門石窟については、フランスの鉱山技師ランゲが1897年(M30)龍門石窟を参観、紹介した記事によって、雲岡石窟については、伊東 忠太の発見報告によって、それぞれ関心をいだき、訪問したということである。

 1915年(T4)には、美術学者・大村西崖が、「支那美術史 彫塑編」の大著を出版する。

 「支那美術史 彫塑編」 大村西崖著 (T4) 仏書刊行会刊 【本編661P・付図編434P】 50円

 大村西崖は、はじめは彫塑の道を歩んだが、後に美術史研究に専念するようになる。母校東京美術学校の教授の職にあるとともに、数多く美術書を出版した。
 なかでも本書は、著者畢生の書というべきもので、大変な苦労をして出版にこぎつけたという。
 1000図弱という膨大な図版が収録され、玉工・金工・石彫・木彫が網羅されている。
 石窟像についても、雲岡・龍門・敦煌・麦積山などの石窟が紹介され、これらに関する銘文も収録し、中国石窟研究の基本なす書とされ、高く評価、活用され た。

 実は、大村は中国を訪ねたことが無く、机の上の仕事としてこれを成し遂げた。
大村が、初めて中国を訪問するのは、出版後6年を経た1921年(T10)のことで、その後、5回にわたり中国史蹟などを訪問する。

 因みに、欧米での中国彫刻史の大著としては、スウェーデンの東洋美術史家オズワルド・シレンが1925年(T14)に刊行した、「支那彫刻」がある。
 この本は、その後の中国彫刻研究の定本とされる本となった。


 もう少し、学者の中国石窟訪問などについて続けてみたい。

 1917年(T6)には、インド哲学者仏教学者・松本文三郎が、インド旅行の帰途、雲岡を訪問、その見解を「支那仏教遺物」(1919)に発表する。

 「支那仏教遺物」 松本文三郎著 (T8) 大鐙閣刊 【299P】 3.2円

 1920年(T9)には、真宗大谷派の僧侶であり仏教学者でもあった常盤大定が、天龍山、雲岡、龍門石窟の調査旅行に赴き、後に「支那仏教史蹟踏査記」 (1937)を出版するとともに、関野貞との協力編纂による「支那文化史蹟」(1939)を刊行した。

 1922年(T11)には、美術史学者・小野玄妙が「天龍山石窟造像攷」(仏教学雑誌3−5)という論文を発表(大乗佛教藝術史之研究に所収)、1923 年(T12)には雲岡石窟訪問・調査の成果を収めた「極東の三大芸術」を刊行した。


 「大乗佛教藝術史之研究」 小野玄妙著 (S2) 金尾文淵堂刊 【551P】 5円

 「極東の三大芸術」 小野玄妙著 (T13) 丙午出版社 【213P】 2.5円

 著者小野玄妙は、雲岡の石窟寺、朝鮮吐含山の釈迦(慶州石窟庵釈迦像)、法隆寺の壁画を「極東の三大芸術」と称し、本書のその論考を掲載している。
 雲岡の石窟寺については、100頁余を費やして雲岡石窟論を展開している。


 「大同雲岡の大仏蹟図録」 五十嵐牧太著 (S58) 私家版 【104P】

 著者は、伊東忠太に師事、S10年代、伊東の下で熱河遺跡保存調査や、雲岡石窟保存考察計画のため現地調査を行った仁。
 本書は、戦前、出版の計画であったが果たせず、自費出版により記録に残すこととした本。

 


 1921年(T10)、木下杢太郎の「大同石佛寺」が出版された。

 前年の9月、画家・木村荘八と共に雲崗石窟に17日間滞在した雲岡石窟探訪鑑賞記である。

木下杢太郎

 これまで、雲岡・龍門など中国石窟についての出版物は、専門研究者の調査報告や論考ばかりであったが、大正後半期に至り、一般人を対象にした雲岡石窟鑑賞 記、探訪随筆が世に出たのであった。
 木下杢太郎の名は現在でもよく知られているように、医学者であると同時に,詩,文学,絵画などの分野でマルチな才能を発揮した人物。
 この木下の著であったが故であろうか、この本は一般の文化人、美術愛好家など多くの人に親しまれ、雲岡石窟の啓蒙書として、長年、版を重ねた。
そして、雲岡石窟の石仏群の歴史とその魅力について、多くの人々に知られることになったのである。

 「大同石佛寺」 木下杢太郎著 (S13) 座右宝刊行会刊 【400P】 3.8円

 本書は、初版のT10年には、中央美術社から画家・木村荘八と共著で出版された。
それから18年後、山本明撮影の雲岡石窟写真を掲載して、木下の単独著作として出版されたのが、上記S13刊の重版である。
 初版の共著版は、発行部数も少なく関東大震災で多くが失われて、なかなか見かけることは無い。

 「今日は到頭大同府まで漕ぎ付けました。明日の午前中には雲岡に着きます。雲岡石佛寺も、もはや空名や写真版ではなくなります。・・・・・」

 で始まる文章は平易で、流石に美術家でもあるが詩人で文学者である木下杢太郎ならではの、格調と流れるような文章。
 「雲岡日録」と称し、探訪鑑賞日記を本邦に送る体裁をとって綴られている。

木下杢太郎雲岡石窟風景スケッチ

 各石窟を解説紹介する文章は、その鑑賞眼を物語るしっかりしたものだが、そうしたなかに、

「今夜は上弦の月が、ちょうど向こう側の屋根の上に昇って、鶏の頭の形で繁雑に飾られた屋根が極めて空想的なるシルエットを現しました。」

 とか

「十五夜が近き、今宵も清亮な月でした。」

 といった旅情あふれる表現がはさまれ、惹き込まれる様に読ませる。
多くの愛読者を得たことも、むべなるかなと感じる次第。


 「木下杢太郎画集 第一巻仏像編」 (S60) 用美社刊 【186P】 20000円

 木下杢太郎は、画才にも長けたものがあり、植物写生「百花譜」は特に有名だが、その木下が残したスケッチなどを、没後全4巻で出版されたもの。
 「仏像編」には、雲岡石窟旅行時の石仏のスケッチのほか、引き続き訪れた天龍山、鞏県石窟の仏像のスケッチが採録されている。

 

                      木下杢太郎雲岡石窟仏スケッチ

 


      

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