埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第七十五回)



  第十七話 中国三大石窟を巡る人々をたどる本
〈その2〉雲岡・龍門石窟編


 【17−2】

 雲岡・龍門石窟の歴史

 さて、本題の「雲岡・龍門石窟を巡る人々」の話に入る前に、雲岡・龍門石窟の歴史について、ごく簡単に振り 返っておきたい。

 北魏の初代皇帝・道成帝が、現在の山西省大同の地、即ち平城へ遷都したのは、398年のことであった。
 道成帝は、都城の建設にあたり、寺院の建立を進める詔勅を出し、帝都には多くの仏教寺院が立ち並んだ。
 3代皇帝・太武帝も即位当初は仏教尊崇の路線を継承するが、しだいに道教信仰に傾いていく。446年には、蓋呉討伐の際の僧侶の腐敗発覚を機に、仏教排斥 の勅令を発する。
 これが、中国史における三大排仏事件といわれる第1回である。(あと2回は、北周の武帝〈574〉、唐の武宗〈845〉の排仏)

 452年に太武帝が没し、文成帝が即位する。
 文成帝は、仏教への根深い尊崇心を持っていた。勅令により仏教が復興され、再び官寺が建立される。
 そして460年、雲岡石窟の造営が開始されるのである。
 雲岡石窟は平城郊外の「北山南水」の地勢を利用し、武州川の北川に沿った20〜30mの断崖に造営された。
 雲岡石窟の開窄を奏靖したのは、沙門統(僧侶を統率する長官)の僧・曇曜である。

雲岡石窟風景

 文成帝は、歴代5人の皇帝(道成、明元、太武、景穆、文成の五帝)の姿を仏像にかたどることとして、この曇曜の進言を容れ、雲岡石窟の造立が正式に発足す る。
 この石窟石仏が、「曇曜五窟」と称される第16洞から20洞までの五窟で、雲岡最古の石窟である。
 あの露座大仏は20洞で、道成帝の帝身を顕したものといわれている。

 朝廷や有力者の発願の窟が次々と開窄され、東西1キロにわたって、およそ50余りの大小石窟が並び、5万1千 体の石仏彫像があるという。

 494年、北魏孝文帝は大同の地を捨て、洛陽に国都を遷都する。
 この遷都断行により、雲岡石窟はみるみる衰えていく。
 雲岡石窟の編年をみると、3期に別けられ、第1期が460〜475年頃、第2期が490年頃まで、第3期が505年頃までといわれている。

雲岡石窟寺

 洛陽遷都後もしばらく造営が続けられていたが、正光年間(520〜525)石窟寺の造営は終結する。
 唐代には、個別の石窟の保護修復や、仏像の彫造が行われたりしたにすぎないが、遼金時代に入ると、長年に亘って停滞していた北魏石窟に、再度隆盛の時期が 訪れる。大同が国都として西京に昇格すると、城内に華厳寺が建立され、城外石窟一帯には、造像の修復を含めた大規模な仏教建築が展開された。
 しかしながら、明代に入り堡を築き、はじめて雲崗と称するようになってからも、部分的な修復、荘厳は行われていたに留まり、清代に入ってからは誰からも顧 みられることなく、埋もれてその名さえ忘れ去られてしまったのであった。


 北魏の新都・洛陽でも、仏教伽藍の造営が盛んに行われたことは云うまでもない。
そして洛陽南郊の「龍門」「伊闕(いけつ)」と呼ばれる地に、雲岡石窟を継承するかたちで、石窟寺院が造営される。
 龍門石窟の造営である。
 洛陽のあたりが平野の中で、ここだけが東に香山、西に龍門山という岩山が相対し、まさに石窟寺造営に格好の地であった。
 石窟仏龕は、合わせて2千余が開鑿され、石仏は10万余体が刻まれている。
その夥しさは尋常ではない。
 主要な石窟洞が28洞あるが、そのうち14洞が北魏時代の造営、残りが唐代の造営になる。

 北魏時代の主要な洞は、古陽洞、賓陽洞、蓮華洞、十四洞、魏字洞、石窟洞で、そのうちもっとも古い洞は古陽 洞。遷都翌年の495年に造営が始められている。
 洞内に刻された造像記が、龍門二十品の十九品を占めることは、先に記したとおりである。
 次に、賓陽三洞が505〜523年に造営されるなど、着々と大規模石窟寺が形成されていく。
 しかし、534年、北魏は滅びる。
 北魏は、東魏と西魏に分裂し、洛陽は争奪戦の戦場と化す。
 洛陽の仏教美術の歴史は、ここでひとまず中断し、興隆した龍門石窟も、その運命をともにする。石窟の大造営はぱたりと止まってしまい、小規模な個人的な仏 龕供養が細々と続けられるに留まる。

 隋唐代に入り、西の長安に対し、洛陽が東都として再び活況を取り戻すようになると、龍門石窟も再び石窟造営が 始められるようになる。
 唐代における造営の始まりは、631年頃の賓陽北洞・南洞の旧窟改修などに始まり、660年には敬善洞がひらかれる。

龍門石窟・西山遠望

 そして、龍門石窟のシンボルともいえる奉先寺大仏が、高宗勅願により672年に着工され、その3年後に完成する。
 その後は、対岸の東山の諸洞が開かれるようになり、これら東山諸洞が最後となって、龍門石窟の造営はストップする。
 小仏龕の造営は続いたが、8世紀中葉になるとこれも衰え、この頃が龍門の最後期となるといわれている。

 唐代以降の龍門石窟のその後について、関係年表から拾ってみると、次のようなところになるだろう。
 宋代には、清涼寺釈迦如来仏の将来で知られる僧然が、洛陽龍門を訪れ礼仏している。また、書家で知られる応陽脩が「集古録」を著し、「伊闕仏龕之碑」を 収集、これが龍門碑刻の最も早い目録といわれる。
 この時代の龍門では、小規模な仏龕の造営が行われていたようだ。
明代には、取り立てての記録は残されていない。
 清代に入ると、乾隆帝が1750年に龍門香山寺に行幸したという記録が残されている。
 また、龍門の北魏から唐代に至るまでの碑刻が注目されるようになり、1805年に王昶が「金石萃編」にその多くを採録したり、その後優れた碑刻が龍門五十 品と名づけられたりしている。
 1889年には康有為が、「広芸舟双楫」を著し、初めて「龍門二十品」を載せ、その賛揚と唱導に尽力している。

 雲岡石窟が、北辺にあったためか、国都が移されてしまって以降、古くからその存在さえ忘れ去られてしまってい たのと比べ、龍門石窟は都市・洛陽近郊にあった故であろうが、その造営が終わってからも、後代に至るまで、石窟寺院としての存在は世に知られ、尊崇の対象 となったり、碑刻の秀逸さを愛でられるなど、忘れ去られることはなかったようである。

 

 


      

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