埃まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第七十二回)


  第十六話 中国三大石窟を巡る人々をたどる本
〈その1〉敦煌石窟編

 【16−6】

4.それからの敦煌石窟〜保存と調査〜

【敦煌芸術保存の先駆者・張大千】

 列強の探検隊の収集欲の欲しいままとなり、夥しい古文書、美術品が国外に持去られた「敦煌石窟」であったが、その保存への動きの兆しが見られたのは、ようやく1940年に入った頃であった。
 支那事変と称された、日中戦争の真っ只中の事である。

 張大千という画家が、妻と子供を伴って、はるばる敦煌の地へやってきた。
 張大千は、北京国立芸術院長などを歴任した徐悲鴻が「500年来最高の人材」と絶賛した画家である。
 国内外に名を知られる人気画家であったが、北京を日本軍が占領すると、演劇界のスターであった夫人・妖婉君と共に、砲火と爆撃の下をくぐりながら数千里を転々とし四川省の臨時首都・重慶を経て、牛車に乗って、最果ての西域・沙漠の地「敦煌」へやってきたのであった。

 40 歳を過ぎた張大千に「敦煌行き」を決意させたのは、世界的芸術遺産ともいえる敦煌の仏教美術に学ぶことが、自分の絵画芸術を再び飛躍させるきっかけになる はずだという思いと、自分の力で破滅に瀕した敦煌芸術を救済し、優秀な民族文化を発揚し、抗日戦争のさなかにある中国人の誇りを高めたいという信念であっ た。
 張大千は、酷暑酷寒のなか大変な苦労をして、莫高窟の各洞をあまねく調査し系統的な通し番号をつけた。この番号は、後の国際的に公認された「張氏通し番号」となる。
 また、チベット人ラマ僧と共に壁画の模写に全精力を傾注する。この壁画模写の成果が敦煌芸術保存のための公的機関・敦煌芸術研究所を設立しようという気運を呼ぶ。
 ところが、地元官吏との折り合いが悪かったらしく、これだけの敦煌芸術保存の貢献者である張大千に対し、甘粛省政府は敦煌壁画を破損したという事由で敦煌を離れるように要求する。

 三年間の敦煌滞在の後、張大千は敦煌を去る。
 1944年、成都、重慶で、「張大千敦煌壁画模写展」が開かれ、大きな反響を呼び敦煌芸術の評価が高まると共に、画家・張大千も巨匠への道を歩むこととなる。
 現在、四川省内江市と台北市に、張大千記念館が開かれている。
 1983年、台湾でその生涯を閉じた。享年83歳。

 
張大千の壁画模写   莫高窟前の張大千

【石窟芸術と共に生きた人・常書鴻】

 常書鴻という、若者がいた。
 彼は、浙江省で母校の美術教員をしながら絵を描いていたが、公費留学の機会を得、1927年、23歳でフランスへ渡った。
 渡航費、フランスでの生活費の工面も大変な苦労があったようだが、パリの高等美術学校で籍を置きながら、油絵の個展を開催するなどしていた。
 1936年6月のある日、常書鴻はセーヌ河畔の古本屋で、ポール・ペリオの「敦煌石窟図録」を見つける。この6冊の図録に眼を奪われ、中国にこのように精緻で美しい芸術作品があることをはじめて知る。
 この図録は高価で買えなかったが、古書店主からギメ美術館にこれらの本物があることを教えられ、ペリオの敦煌コレクションに出会うのである。

  

常書鴻フランス時代の油絵     ペリオ「敦煌石窟図録」   

 敦煌の芸術遺産を目の当たりにして、大いなる衝撃を受けた常書鴻は、「民族芸術の宝庫である敦煌へ行く」固い決意と理想を抱いて、1936年帰国する。
 そうはいっても、抗日戦のさなかすぐに敦煌へ行くことは不可能で、美術教育に従事する。やがて国民党重慶政府は張大千の働きかけなどもあって、国立敦煌芸術研究所の設立を決定、常書鴻は1943年に敦煌に赴き設立準備活動の後、敦煌芸術研究所の初代所長となる。

 先に敦煌へ来ていた張大千とは、数ヶ月共に過ごした後別れることとなるが、そのときの張大千の惜別の言葉

「私たちは今ここを離れる。そして君が莫高窟に留まるのは、いわば無期懲役ということかな!」

 は、その後、まさに現実となる。

模写制作する常書鴻

 以来、常書鴻は敦煌石窟の調査研究、壁画の模写、壁画の保存と保護、にその生涯をささげることとなる。
 1945年日中戦争が終わり、1949年には、中華人民共和国が成立。2年後の1951年、敦煌芸術研究所は敦煌文物研究所と改称され、常書鴻が引き続き所長に就任する。
 国民党時代は重慶からの研究所運営費の送金も滞りがちで、研究所運営の苦労も多かった。何とか、敦煌芸術の貴重さ、保存の重要性について、社会の理解を得ようと、常書鴻は、敦煌文物、壁画模写の展覧会を開催したり、新聞紙上に記事掲載を働きかける。
 1948年10月、上海「大公報」紙に発表した「敦煌の昨今〜千仏洞の危機」は、全国の反響を呼び、1951年4月に北京で開かれた敦煌文物展覧会には周恩来首相も参観に訪れ、中央政府からの直接の援助を約束した。
 これ以後、莫高窟の修復作業は急速に進んだ。

 

壁画の修復          壁画の模写

 今日に至るまでの常書鴻の艱難辛苦は、並大抵のものではなかったようで、経済的な困窮や辺境での労苦のなか、妻に去られ、また1945年には国民政府から敦煌芸術研究所の閉鎖を通告され、その存続に窮したりしている。
 中華人民共和国時代になってからも、文化大革命当時は「敦煌の妖怪変化、三家村の元凶」と呼ばれ、10年もの間、一切の生活財産の没収と肉体労働への従事と強いられたりという時期を過ごしている。
 その罪状とは「地主や富農と結託して仏教や迷信を宣伝した」というものであった。

 1982年、78歳を迎えて、敦煌文物研究所の所長を段文傑に譲り、自らは名誉所長となった。
 以降も、敦煌石窟についての著作出版や講演会活動、展覧会開催などに、精力的に活躍し、中国のみならず世界レベルで敦煌石窟芸術の意義や保存について啓蒙し続け、まさに「敦煌の守護神」と称された。
  日本においても、敦煌文化財保護への認知も高まり、1987年には平山郁夫の提唱により、敦煌遺跡の保護を目的に「文化財保護振興財団」が設立され、25 億円もの資金が準備された。これらの基金をもとに、人材育成助成や学術研究助成がなされるほか、1994年には、日中両国の協力により10億円の費用で、 「敦煌石窟文物保護研究陳列センター」が落成した。
 かつて、西域の辺境で交通手段もない沙漠の都市、訪れる人もいない敦煌あったが、今では、数多くの観光ツアーが組まれ、年間数十万人の外国人観光客が敦煌莫高窟を訪れ、その大半は日本人であるという。
 敦煌は、まさに「世界遺産」となり、世界に誇る「観光遺産」となった。

 不屈の精神で、敦煌石窟芸術と共に生きた常書鴻であった。1995年没、91歳。

 

   平山郁夫作品前の常書鴻   敦煌石窟文物保護研究陳列センター

 


       

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