埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第五十四回)

  第十三話 地方佛〜その魅力に ふれる本〜

    《その5》各地の地方佛 ガイドあれこれ 【近畿 編】

 【13−3】

〈三重県の仏像〉

 亀山・慈恩寺阿弥陀如来、松坂・朝田寺地蔵菩薩、島ヶ原・観菩提寺十一面観音、このあたりに多気郡・普賢寺普賢菩薩を加えたところが、三重県の平安古佛 の知られた優品といった処だろうか。

 なかでも、「観菩提寺・十一面観音」は、私にとっては、思い出に残る仏像。
昭和48年、会社に就職して初めての夏、数日の夏休みをもらって、出かけて観たのがこの仏像。
 この地方佛探訪旅行を最後に、あわただしき仕事に追われ追われて、古佛探訪どころではなくなり、以来30年余、齢五十を超えるまで、長きに亘り「地方佛 探訪の旅」は、全くのご無沙汰になってしまった。
 地方佛探訪に情熱を燃やした青年時代の、「最後の思い出の仏像」となったのが、「観菩提寺・十一面観音」であった。

 確か、そのときは東京から3泊4日で出かけた。
 名古屋・甚目寺〜七寺→岐阜・華厳寺〜横蔵寺→湖南・善水寺→信楽・櫟野寺〜阿弥陀寺 →三重・慈恩寺〜観菩提寺というルート。
 社会思想社「日本古寺巡礼」をポケットに入れ、8月の酷暑のさなか、宿の予約もなしにブラリと出かけた。

 2日目、善水寺のある三雲で日が暮れ、駅で教えてもらった安宿に泊まった。
 宿から、慈恩寺と観菩提寺に「突然ですが、明日、拝観をさせていただけないか?」とお願いの電話をかけていたところ、慈恩寺は簡単にOK。
 ところが、観菩提寺さんのほうは、「秘仏で、拝観は一切受け付けていない」とのこと。
 今にして思えば、前夜突然電話して拝観のお願いなどというのは失礼の極み、恥ずかしき限りだが、ご住職は、余りの若者からの電話に関心を持たれたのか、 「どうして拝観したいのか?」と聞いてくださった。
 私が「仏像に興味があり、各地の古佛を訪ねていること。この夏は、こんなルートで古佛探訪をして、最後に観菩提寺を訪ねたい」といった話をしたところ、 「秘仏にしておるのだが、それなら、いらっしゃい」と、おっしゃっていただいた。


観 菩提寺 正月堂
 翌日、亀山の慈恩寺の、重厚感ある阿弥陀如来像を拝した後、関西本線に乗って、「島ヶ原」という寂しい駅で降り、観菩提寺 へ向かった。
 観菩提寺は、東大寺の開山として有名な良弁僧正の弟子で、二月堂お水取りの行事を開いたといわれる実忠の創建になると伝え、今も1月には修正会が行われ ている、由緒ある古刹。
 「特別に、開扉してあげよう」という、御住職のご配意に感謝しつつお堂に入り、読経のあと厨子が開かれると、異形の十一面観音が眼前に現れた。
 暗くてはっきり見えなかったが、目が慣れるにつれ、2メートルを超える大像がデモーニッシュな迫力で迫ってくる。
 頭部がバカでかくて、アンバランスなプロポーション、分厚い唇と小鼻の膨らんだごつい鼻、異様な歪みとデフォルメが、えもいわれぬ「気」のようなものを 伝えてくる。

 
観菩提寺・十一面観音立像

 ポケットの「日本古寺巡礼」には、

「その面相は、怪奇とでも表現す るよりほかないようなものである。
頭や胴がばかに大きく・・・・・いわばこの像は正統な彫刻の技法になるものでなく、地方的な要素が強く、あえていうなら山間遊行の行者たちの呪術的な信仰 にささえられた像の系統をひいているように思えてならないのである。」

と書かれている。

 小さな写真で観ていたイメージとの、あまりの隔たりに、仰天。
 観れば観るほどに、異様な霊気や凄みのあるエネルギーに、魅入られてしまう。頭をガーンと殴られて、そのまま痺れてしまったような気分であった。
 「美術のもつ力とは異なる、不思議な力の宿りを本像に感じた。9世紀彫刻の凄い奥行きを、土着の相の中に垣間見たように思った。」
 と、井上正が、その後出版された「古佛」のなかで述べているが、まさにそのとおりの強烈な印象が、私の記憶に刻印された。

 「写真も撮ってよい」との赦しもいただき、ご住職のご配意に感謝しつつ、いずれの時にかの再訪を誓って辞したが、駅に向かう道程、観菩提寺像のインパク トから受けた火照りのようなものが、なかなか消えなかったことが、今も鮮明に蘇えってくる。

 この「観菩提寺像の拝観」が、結局、青年時代の地方佛巡りのラストとなってしまった。
 「若き日最後の、思い出の仏像」として、心に深く残っている所以である。


 三重県の仏像についてまとまった本は、余りないが、この一冊は絶対のお勧め必携本。

 「仏像東 漸〜伊勢・伊賀、そして東へ〜」四日市市立博物館編集発行 (H15) 【230P】

慈恩寺・阿弥陀如来立像
 H15年4月に開催された、四日市市立博物館開館十周年記念特別展の図録。
 平安前期仏では、慈恩寺・阿弥陀像をはじめ、松坂薬師寺・薬師像、光善寺・薬師三尊、西盛寺・薬師像や、注目の白鳳佛・見徳寺薬師像など、約90躯が出 陳された。
 本書には、企画編集した赤川一博の「伊勢伊賀の仏像」という概説や、「三重仏像120選」と題して、出品像以外の仏像の写真一覧が掲載されているのは、 重宝。
 また、「三重県仏像の調査・研究史」という解説が掲載されており、明治以降の三重県仏像調査研究の歴史と、出版物の発刊について丁寧な説明が記され、書 影も載せられている。


 ほかに、三重の仏像についての調査報告書などで、手元にあ るのは、次のような本。

 「津市の仏 像〜津市仏像悉皆調査報告書〜」 津市教育委員会編集発行 (H16)【230P】

本書は、H9〜16に実施された、津市仏像悉皆調査の報告書。
津市所在の仏像が網羅されており、重文8件・県市指定30余件をはじめ、市内約200ヶ寺の仏像写真が掲載されている。
眼を惹くのは、表紙写真にもなっている、光善寺薬師三尊像(平安中期)。



 「はくさん の仏像〜白山町仏像調査報告書〜」白山町文化財保護委員会編集発行 (H15) 【89P】

 白山町には、2体の重文の9世紀佛、常福寺千手観音像、川口瀬古区十一面観音像がある。
 拝したことはないが、写真で見ると、小像ながら、なかなか魅力ある像だ。
 本書は、H8〜12に実施された白山町仏像悉皆調査の報告書。
 重文3躯、県庁指定3躯のほか、町内40余ヶ寺の仏像が網羅掲載されている。


 「亀山市の 仏像〜仏像悉皆調査報告書〜」亀山市教育委員会編集発行 (H9) 【158P】

 S63〜H6に実施された、亀山市仏像悉皆調査の報告書。
 平安前期(9C)の名品、慈恩寺阿弥陀如来像をはじめ、8躯の指定仏像(重文1・市指定7)と、市内90余ヶ寺の仏像が網羅掲載されている。


 「慈恩寺  重要文化財 木造阿弥陀如来立像調査概報」亀山市教育委員会編集発行 (H7) 【76P】

 詳細なX線調査なども行われ、写真・解説ともに充実した内容。
 本書は、亀山市歴史博物館で現在も入手可能(3000円)。

 


 【和歌山県の仏像】

 和歌山の仏像全般について解説した本は、この本。

 「紀伊路の 仏像」松島健編 (S60) 至文堂刊 【98P】

 主だったものを見てみると、
 有田川沿いには、護国院(紀三井寺)・十一面観音千手観音像、慈光円福院・十一面観音像、慈尊院・弥勒坐像など、
 紀ノ川沿いには、正善寺・大日坐像、浄教寺・大日坐像、法音寺・釈迦坐像など、
 熊野街道沿いには、道成寺・千手観音ほか諸像、熊野速玉神社・諸神像、補陀洛山寺・千手観音像など、
 が遺されている。

 慈尊院、道成寺、熊野速玉神社という国宝像は別格として、私が心惹かれるのは、慈光円福院像のシャープな彫り口と厳しき表情、法音 寺像の小像とは思えぬ 雄大でどっしりした造形や、補陀洛渡海への思いをはせながら拝した補陀洛山寺像などの古佛たちだ。

 
法音寺・釈迦如来坐像 慈光円福院・聖観音立像

 和歌山の仏像については、次の「企画展」の図録が、エリア別に総覧することができて一番。

 「紀ノ川流 域の仏像」 和歌山県立博物館編集発行 (S56)
 「有田川流 域の仏像」 和歌山県立博物館編集発行 (S55) 【80P】
 「有田川下流域の仏像」 和歌山県立博物館編集発行 (H9) 【139P】

 この3冊は、同地域の仏像調査の成果を踏まえて、開催された企画展の図録で、和歌山地方の仏像を知るには、大変貴重な図録。
 古書店でも、なかなか見つけられない図録で、「紀ノ川流域の仏像」私も探しているのだが未入手。「有田川流域の仏像」はコピーを製本したものしか手元に ない。


 「祈りの道  吉野・熊野・高野の名宝」 大阪市立美術館編 (H16) 【359P】

 吉野・熊野が、世界遺産に登録されたのを記念して、開催された企画展の図録。
この展覧会の大目玉は、これまで社外に出たことがない熊野速玉神社の神像が、出展されたこと。
 熊野速玉大神坐像、夫須美神坐像、家津美御子大神坐像の三体が展示され、その威厳ある相貌、風格ある堂々たる体躯を、目の当たりの至近距離で見ることが できたのは眼福であった。翌年(H17)には、これら3像と、同社の国常立命坐像が、新たに「国宝」に指定された。
 ほかにも、像高4.6mという金峯山寺の蔵王権現の巨像が、美術院の解体修理終了を機に、寺外での最初で最後の公開ということで展観されたし、補陀落山 寺・千手観音像、道成寺・乾漆千手観音像も出陳されるなど、再びは望めない充実した内容の展覧会であった。

 
                     熊野速玉神社・熊野速玉大神坐像

 私が、熊野、那智の地をはじめて訪れたのは、4年前(H14)の夏。
 この地は、東京から鉄道で行くのに最も時間がかかる所の一つといわれているだけに、なかなか訪ねるチャンスがなかった。


青 岸渡寺 三重塔と那智の滝
 鬱蒼とした老杉の大木に覆われた熊野古道の石畳を歩いて、汗をかきかき熊野那智大社へたどり着き、隣り合 う青岸渡寺の朱塗りの三重塔から、那智の滝を眺望したとき、その神々しい情景に正直感動してしまった。
 山深き森厳の地。原始林に覆われた万緑叢中、丹塗りの塔の朱が鮮やかに映え、山腹の切り立った崖から、轟音とともに純白の布を垂らしたように落下する 滝。
 この光景を仰ぎ見れば、そこにこの世の浄土を感じ、「那智の滝」の神秘的な力に信仰の生じるのは、きわめて自然な心情だと、素直に感じ入った。




 古来、那智は南方補陀落(ふだらく)浄土の地であると考えられ、また熊野全体が浄土の地であるとみなされるようになり、人々は生き ながら浄土に生まれ変 わることを目指して、熊野詣の道を歩いたという。


熊 野古道大門坂
 院政期、法皇・上皇たちは熊野へたびたび御幸し、なんと後白河上皇は34回、後鳥羽上皇は28回、鳥羽上 皇は21回も、熊野御幸を行ったというが、熊野古道の神秘的な雰囲気や、那智の滝の圧倒的神々しさを眼前にすると、それもまた、むべなるかなと本心納得し てしまう。

 山を下ると、那智の浜海岸近くには、補陀洛山寺がある。
 那智の浜は、補陀洛浄土に通じていると信じられ、平安時代からおよそ千年に亘って、南海の果てにあると信じられていた観音浄土を目指して、渡海上人が釘 付けされた船の中に座り「補陀洛渡海」に出発したところだ。
 記録に残る限りでは、19人の僧が補陀洛山に往生しようと試みたのだそうだ。
 境内には渡海船が復元されているほか、渡海した僧たちも祀られている。

 ご 住職にお願いし、本尊千手観音像を拝することができたが、那智の滝の神々しさと熊野詣といったことや、この観音様に祈りをささげ、南海の果て補陀洛浄土を めざし渡海した僧たちに思いを馳せながら、2メートルを超える堂々たる素木のふくよかな像を観ると、まさに、那智権現の本地仏にふさわしいという思いがこ み上げて来るのである。

 
     補陀洛山寺          補陀洛寺・千手観音立像

 


       

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