埃まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第二十八回)

  第七話 近代法隆寺の歴史とその周辺をたどる本

《その2》再建非再建論争をめぐって(5/5)

 【7−5】

 4.若草伽藍塔心礎の返還

  学者の論文集の紹介が、長々と続き、面白みの無い話の連続となってしまった。
 ここらで、法隆寺論争がもたらした副産物とでも云うべき、若草伽藍等心礎里帰りのエピソードを紹介したい。
 この心礎、今は若草伽藍址の旧地とおぼしきところに、据えられている。2.7メートル四方、高さ1.2メートル、重さ12トンの巨石。
 若草伽藍址は、現在公開されていないので、残念ながら普段これを見ることは出来ない。

 昭和14年、足立康が新非再建論を主張しだすと、明治期に寺外に出たこの若草伽藍塔心礎の行方が俄かに探索されるようになった。心礎は、阪神住吉村の野村別邸に無事あることが確認され、要望に応えて法隆寺へ返還されることになったのは、その年の10月のことであった。
 そもそもこの礎石、明治34〜5年頃までは、寺内にあったことが明らかで、その後、寺を出て、北畠治房邸内に運ばれ、大正4年に住吉の久原邸に移されている。この旧久原邸が、昭和13年野村別邸となっていた。

 

若草伽藍塔心礎           野村別邸内の心礎上の釈瓢斎

 心礎の寺外流出と、返還里帰りのいきさつについては、

 「法隆寺日記をひらく〜廃仏毀釈から100年〜」高田良信著(S61)日本放送協会刊
に詳しく記されている。

 それによると、
 寺内から男爵・北畠邸へ移された訳は、はっきりしない。「北畠が、地方人が石材として使おうとしたのを食い止め、久原の求めに応じて譲った」という主旨の北畠自作の由緒書(偽書)が残されている。何とも、すっきりしない、という処。
 大正4年に、久原邸へ移すときには、何しろ巨石、北畠邸の塀を打ち壊し、コロの上の台木にのせ、ワイヤーロープで牽き、一週間かかって法隆寺駅まで9人の人夫で運び込んだそうだ。
 鉄道は、日本に3台しかなかったロシヤ製無蓋車を手配し、やっとのことで久原邸に運んだ。費用は、当時で1,500円という莫大なものだったという

  昭和14年の返還にあたっては、管主・佐伯定胤が野村家を訪問、礎石寄進の依頼を行い、野村徳七はこれを快諾、10月12日住吉停車場で貨車に積み込まれ、14日法隆寺駅に到着、原位置に戻されたのであった。移送費用は3,500円であったという。

 ここで、ついでにちょっと面白い本を紹介。

 「法隆寺の横顔」釋瓢斎著(S17)斑鳩郷舎出版部刊

 若草伽藍址心礎について、次のような話が語られている。
 北畠邸にあった心礎を、久原に売った値は1万5千円。北畠男爵の怪我の功名だったのは、心礎の塔座をすこし掘り下げ、そこに鉄製塔を据えた事、このため柱座が保護されることとなり、また手水鉢などに転用、柱座が深く抉られてしまうことが免れた云々・・・・。

 本書の著者は、本名「永田栄蔵」。大阪朝日新聞の天声人語を担当、毒舌家といわれた仁。
 法隆寺随筆の体裁をとっているが、足立の非再建論になかなか痛烈な言葉を投げかけており、それがまた的を得ているので面白い。
 例えば、足立が「再建論に止めをさす」と新聞紙上に開陳した新説を、「明らかに失望したのは、止めがいっこうに刺されていないことであった」とか、関野二寺説を「エビは躍れども桝を出でず。・・・・畢竟北畠男の発唱から一歩も踏み出たものではなかった」、足立新説を「他家の流材で自宅の新宅を建てたような二寺並存説」と辛口に断じている。

 法隆寺論争への、批評随筆本として、誠に面白く読める。

 

 5.その後の法隆寺論争

 昭和14年の若草伽藍址発掘による再建非再建問題決着後、即ち戦後の法隆寺研究は、
「法隆寺が再建された時期はいつ頃なのか?」「法隆寺建築は飛鳥様式なのか、白鳳様式なのか?」
という、再建時期問題、様式問題に議論の焦点が移っていった。

 戦後すぐ(S21)村田治郎が、長期にわたる中国建築史研究を基礎に、法隆寺建築が北斉・隋の影響を受けているとし、法隆寺様式は白鳳様式とするのが妥当と論じた。
 また、昭和大修理のプロセスで得られた調査結果などを踏まえて、再建年代・様式問題についてさまざまに論じられてきたが、未だに決定的な再建年代の結論、様式問題の決着を得るに至っていない。

 このあたりの内容・経緯についての話は、再建非再建論争の話を書くので、もう疲れ果ててしまったので、一気に省略して先を急ぐこととしたい。

 そうは云っても、再建非再建に関わる面白い説、トピックスをちょっとだけ紹介。

 

 【法隆寺移築説】

 法隆寺は、九州・筑紫から移築されたという奇抜な説がある。

 「法隆寺は移築された」米田良三著(H3)新泉社刊
 「建築から古代を解く」米田良三著(H5)新泉社刊
 「法隆寺のものさし」川端俊一郎著(H16)ミネルヴァ書房刊

 米田は、法隆寺はいわゆる九州王朝、観世音寺から移築された。また川端は、法隆寺は中国南朝尺で寸法が合い、遣隋使の頃、筑紫で落成、大和へ移築された。五重塔心柱伐採年が594年と奈良文研で特定されたことも、これで説明がつくと、論じている。
 共に、古田武彦が主張する、近畿天皇家の母体となった九州王朝が、近畿王朝に滅ぼされたという考え方をベースにした法隆寺移建論。
 米田、川端共に在野の研究者らしく、この説について、研究者間で本格的に議論されている様子はないようだ。

 

 【年輪年代法による新事実】

 近年、再建非再建論争を再燃されるような新事実が発見された。
 平成13年、法隆寺五重塔心柱の伐採年が594年と確定し、各界の歴史学研究者に大きな衝撃が走った。
 これまで、五重塔が建造されたと考えられていた年代より、100年程も古い年代の心柱伐採年であったからだ。

 伐採年は、奈良国立文化財研究所の三谷拓実が研究している、「年輪年代法」により調査・確定されたもので、疑い無きものと考えられている。

 すわ、やっぱり非再建か、古材の転用か?
 古材といっても、若草伽藍は全焼のはず、どこから持ってきたのか?まさか伐採してから100年もどこにも使わず、晒しておく事もないだろうし?・・・・・・
 物議をかもしているうちに、またもや、次なる新事実判明。
 平成16年、同じく年輪年代法で、金堂天井板は667・668年、五重塔二層の雲肘木は673年、中門一層大斗は699年頃と判明したのだ。
 これにより、西院伽藍は創建法隆寺の建築ではなく、様式的に見て金堂、五重塔、中門の順に建てられたとする従来からの説が、裏付けられることとなった。

 年輪年代法について、解説した本は次の本。

 「年輪年代法と文化財」三谷拓実著 日本の美術421号(H13)至文堂刊

 それにしても、心柱の年代問題をどう考えるか、まだまだ残された大問題だが、
 松浦正昭は、次の本の中で、
 五重塔心柱は、もともと相輪刹柱塔として建てられていたものを転用した。
 刹柱とは、層塔の屋根と軸部を取り去ったもので、柱頭に舎利を安置するもの。
 そして、釈迦三尊を安置した「北堂」というものを想定し、北堂「刹柱」を転用したのが「五重塔心柱」。
と論じている。

 「飛鳥白鳳の仏像」松浦正昭著 日本の美術455号(H16)至文堂刊

 明治38年、関野貞・平子鐸嶺と喜田貞吉が、再建非再建論争の口火を切ってから、今年でちょうど100年目にあたる。
 この間、どれほど多くの研究者が法隆寺を論じ、またどれほど多くの人々の法隆寺への関心を呼び起こしたのであろうか?
 100年を経て、未だ種々の議論を惹起し、その建築年代が論じられる法隆寺。
 法隆寺再建非再建論争で幕を開けたといわれる日本美術史学、これからも法隆寺を抜きにしては、その研究は発展していかないのであろう。

 


参  考

第七話 近代法隆寺の歴史とその周辺をたどる本

〈その2〉再建非再建論争をめぐって〜関連本リスト〜

書名
著者名
出版社
発行年
定価(円)

法隆寺は再建か非再建か(町田甲一)「日本史の争点」所収

和歌森太郎編

毎日新聞社

S38

380

法隆寺は再建か非再建か〜法隆寺再建非再建論争の展開〜(藤井恵介)
「寧楽美術の争点」所収

大橋一章編著

グラフ社

S59

1800

論争奈良美術

大橋一章編

平凡社

H5

2860

法隆寺美術〜論争の視点〜

大橋一章編

グラフ社

H10

2800

薬師寺〜美術史研究の歩み〜

大橋一章・松原智美編

里文出版

H12

2500

東大寺〜美術史研究の歩み〜

大橋一章・斎藤理恵子編

里文出版

H15

2500

法隆寺論抄

(財)聖徳太子奉賛会編

丙午出版社

S2

記入なし

法隆寺再建非再建論争史

足立康編

龍吟社

S16

3.8

法隆寺の研究史

村田治郎

毎日新聞社

S24

330

法隆寺の研究史・村田治郎著作集二

村田治郎

中央公論美術出版社

S62

9800

法隆寺建築様式論攷・村田治郎著作集一

村田治郎

中央公論美術出版社

S61

9800

法隆寺

伊東忠太

創元社

S15

1.4

建築学者 伊東忠太

岸田日出刀

乾元社

S20

5.5

増訂 佛教藝術の研究

平子鐸嶺

国書刊行会元版三星堂

S51
(T12)

日本の建築と芸術 上・下

関野貞

岩波書店
上巻元版岩波書店

H11
(S15)

32000

喜田貞吉著作集7・法隆寺再建論

平凡社

S57

5000

喜田貞吉著作集14・
六十年の回顧・日誌

平凡社

S57

6400

歴史家 喜田貞吉

山田野理夫

宝文館

S51

4500

古代史の先駆者 喜田貞吉

山田野理夫

農村文化協会

S56

900

大乗佛教藝術史之研究

小野玄妙

金尾文淵堂

S2

5

会津八一全集1〜3巻 研究・上中下
元版(法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究)「東洋文庫論叢」第17

中央公論社

S33
〜34
(S8)

1170

足立康著作集 全3巻

中央公論美術出版社

S61
〜62

28600

喜田・足立博士 法隆寺論争
(歴史地臨時増刊)

日本歴史地理学会

S14

0.95

法隆寺雑記帖

石田茂作

学生社

S44

580

随筆 二つの感謝

石田茂作

東京美術

S49

非売品

建築史の先達たち

太田博太郎

彰国社

S58

2200

法隆寺日記をひらく
〜廃仏毀釈から100年〜

高田良信

日本放送協会

S61

750

法隆寺の横顔

釋瓢斎

斑鳩郷舎出版部

S17

1.7

法隆寺は移築された

米田良三

新泉社

H3

1800

建築から古代を解く

米田良三

新泉社

H5

2300

法隆寺のものさし

川端俊一郎

ミネルヴァ書房

H16

2800

年輪年代法と文化財
(日本の美術421号)

三谷拓実

至文堂

H13

1571

飛鳥白鳳の仏像
(日本の美術455号)

松浦正昭

至文堂

H16

1571

      

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