埃まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第二十三回)
第六話 近代法隆寺の歴史とその周辺をたどる本《その1》(6/6)
【6−6】
【食堂・吉祥天塑像の発見】
明治以降、見出された仏像の話の最後は、食堂の片隅から昭和9年に発見された、吉祥天塑像。
この吉祥天像の発見譚については、第一話「奈良通、古仏通になれる本」のなかの、「奈良百題」という本を紹介をしたところで、先に記したとおり。
「奈良百題」 高田十郎著(S17)青山出版社
もう一度かいつまんで発見エピソードを紹介すると、美術院の細谷而楽が、食堂に近世の間に合わせの修理で〈ハリボデの菰をかぶったような変な仏像〉があるのに注目、上皮を剥がすと見事な天平彫刻が出現、一年余の修理で天平塑像の傑作・吉祥天像に修復した。
昭和11年には旧国宝(現在重文)に指定。今は、金銅釈迦三尊の背後に北面して安置されている。
また、この吉祥天に因んでは、このような後日物語があるようだ。
「法隆寺」町田甲一著(S62)時事通信社刊
本像の修理が終わり、国宝指定も済んだ後、この吉祥天の「手」に間違いないという塑像の手が美術学校(元東京芸大)にあることが判り、管主・佐伯定胤が正木直彦(美術学校校長)を通じその返還を願ったという。
この願いは、やがて果たされて、同じく法隆寺から出て美校の標本室にあった塔本塑像1体(現北面29号比丘形像)とともに、昭和17年10月法隆寺に返還された。
美術学校の記録によれば、吉祥天の手は、明治44年に杉村健三という法隆寺村の古物商から4円で購入、塔本塑像のほうは明治22年、加納鐵哉より9円で買い入れられた、ものだそうだ。
なお加納鐵哉は、彫刻家で美術学校発足時の教員。救世観音開扉に共に立ち会ったという人物。
【宝物の流出と盗難】
仏像の新たな発見と裏腹に、法隆寺でも宝物の流出・盗難があった。
明治初年の混乱期、奈良の多くの古寺から多数の宝物が流出したのはご存知のとおり。
廃仏毀釈の嵐のなか、また経済的困窮のゆえ万止むを得ずという事によるものであろう。
こうした中、千早定朝の大英断、「宝物献納」により困窮を乗り越えようとした法隆寺では、政府の宝物調査もあり、その管理処分に厳しく処し、幸いさほど数多くの宝物流出をしていない。
そうは云っても、橘夫人厨子の2枚の扉、五重塔塔本塑像、古代錦、舞楽面など多数が流出しているのも事実。
各塔頭に伝わる寺僧の私有物的なものが、多く流出したようだ。
一方、明治以降、宝物の盗難には度々遭っている。
記録によると、明治14年〜44年の間に、計8回、金銅仏などの盗難があった。
金堂・金銅観音、綱封蔵・金銅観音3体、橘夫人厨子屏風付属七仏の内2体、玉虫厨子・金銅鴟尾なども盗まれており、今思うと本当に惜しいことである。
法隆寺金堂に入ると向かって左側の西の間、金銅・阿弥陀如来が安置されている。
その本来の脇侍・勢至菩薩像が、パリのギメ美術館に所蔵されているのはご存知だろうか。
この阿弥陀三尊は、光背銘などから貞永元年(1232)康勝が造顕したことが知られる。
いつの頃からか、勢至菩薩の方が、白鳳期と思われる金銅仏に入れ替わって安置されていた。
ところが、その本来の勢至菩薩が、何故かギメ博物館にあることが発見された。
本像は、エミール・ギメが明治9年来日したときに、購入したものだそうだ。
これも、盗難に遭ったものを、古物商などから入手したのであろうか?
金堂阿弥陀三尊の勢至菩薩像は、その後、ギメ博物館像の複製が造られ、平成6年からその身代わり像が安置されるようになった。
法隆寺から出た宝物について、現在の所蔵先などを追跡した必読本は、先に紹介したこの本。
「追跡!法隆寺の秘宝」高田良信・堀田謹吾著(H2)徳間書店刊
本書によれば、
五重塔塔本塑像は、数体が、法隆寺を出て個人所蔵等になっているらしい。
昭和60年前後、大和郡山の古道具屋に「泥人形」と記された塔本塑像3体(本物と思われるもの)が出たが、一足違いで買い手がついて、どこへ納められたのかは判明しなかった話も記されている。
また、明治44年東京美術学校で行われた「太子祭展覧会」には、塔本塑像3体が展示されたそうだ。
一体は、原三渓旧蔵で、後に洋画家・鳥海青児所蔵となり、鳥海没後昭和50年代に奈良国立博物館蔵となっている。博物館は1200万円で購入したそうだ。
もう一体は高橋捨六蔵となっていたが、現在ではアメリカ・クリーブランド美術館所蔵。
あと一体は、当時東京美術学校蔵となっているが、本書は「今どこにあるのだろうか?」と記している。この像は、「大泣きに泣く男の像」とあり、先に【食
堂・吉祥天の発見】のところで記した、昭和17年美術学校から法隆寺の戻された塔本塑像「比丘形像」とは、別の像のようだ。
この「太子祭展覧会」、各界が所蔵する法隆寺ゆかりの宝物が集められたようで、その「展観目録」が紹介されている。
目録には「法隆寺旧蔵」として、金堂天蓋の瓔珞・天人・鳳凰、繍仏、古代裂、仏像などの名前が挙げられ、益田鈍翁、原三渓、益田英作、藤田伝三郎など、近代日本の怱々たる古美術コレクターが、その所蔵者に名を連ねている。
このほかに、私立博物館や古美術商が所蔵する法隆寺ゆかりの宝物が追跡されているが、これら宝物の行方の話を読んでいると、法隆寺を護り抜く為、宝物献納
や百萬塔売却などによって、幕末から明治という時代を乗り切ってきた寺僧たちの、想像を絶する困窮と苦労の歴史の足跡を、そのまま物語っているようにも思
えてくるのである。
参 考
近代法隆寺の歴史とその周辺をたどる本
〈その1〉近代法隆寺の歴史と宝物の行方〜関連本リスト
書名
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著者名
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出版社
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発行年
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定価(円)
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若き日の旅
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里見_
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甲鳥書林
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S15
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2
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60年の回顧
喜田貞吉著作集14所収
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喜田貞吉
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平凡社
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S57
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6400
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法隆寺を想う「大和の古文化」
近畿日本叢書第一冊所収
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上野直昭
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近畿日本鉄道
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S35
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2000
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邂逅
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上野直昭
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岩波書店
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S44
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700
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斑鳩物語
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高浜虚子
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養徳社
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S20
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0.7
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自註鹿鳴集
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会津八一
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中央公論美術出版
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元版S2
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新潮文庫再版
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S40
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1200
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写真 今世紀の法隆寺
〜小川一真から入江泰吉まで〜
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小学館
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S60
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4800
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私の法隆寺
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直木孝次郎
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塙書房
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S54
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1200
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法隆寺の里
|
直木孝次郎
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旺文社文庫
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S59
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360
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新編 私の法隆寺
|
直木孝次郎
|
塙新書
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H5
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1200
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近代法隆寺の歴史
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高田良信
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同朋社出版
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S55
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2800
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法隆寺日記をひらく
〜廃仏毀釈から100年〜
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高田良信
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日本放送協会
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S61
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750
|
法隆寺の歴史と年表
|
高田良信
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ワコー美術出版
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S60
|
4800
|
法隆寺の歴史と信仰
|
高田良信
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法隆寺
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H8
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表示なし
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法隆寺千四百年
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高田良信
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新潮社
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H6
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1500
|
皇室をめぐる名品物語
芸術新潮S61年11月号刊
|
|
新潮社
|
S61
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1000
|
法隆寺の謎を解く
|
高田良信
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小学館
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H2
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1100
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追跡!法隆寺の秘宝
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高田良信・堀田謹吾著
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徳間書店
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H2
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1800
|
東洋美術史綱(上・下)
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フェノロサ・森東吾訳
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東京美術
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S53
|
8100
|
日本美術史天心全集第六巻所収
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岡倉天心
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創元社
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S19
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8
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夢殿ご本尊救世観音について
(高田良信)救世観音所収
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法隆寺
|
小学館
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H8
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1200
|
法隆寺のなぞ
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高田良信
|
主婦の友社
|
S52
|
700
|
法隆寺の秘話
|
高田良信
|
小学館
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S60
|
980
|
法隆寺の謎と秘話
|
高田良信
|
小学館
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H4
|
760
|
百済観音の伝来と名称起源の考察
(高田良信)百済観音所収
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法隆寺
|
小学館
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H4
|
1200
|
百済観音
|
濱田青陵
|
イデア書院(平凡社東洋文庫再版)
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T15
|
4.40
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百済観音半身像を見た
|
野島正興
|
晃洋書房
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H10
|
1500
|
法隆寺の謎
|
高田良信
|
小学館
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H9
|
2000
|
没後五十年
|
新納忠之介展図録
|
鹿児島市立博物館
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H16
|
1500
|
奈良百題
|
高田十郎
|
青山出版社
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S17
|
5.1
|
法隆寺
|
町田甲一
|
時事通信社刊
|
S62
|
2600
|
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