埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第二百十八回)

   第三十一話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その9>明治の仏像模造と修理 【修理編】

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【目次】


1.はじめに

2.近代仏像修理の歴史〜明治から今日まで

(1)近代仏像修理の始まるまで
(2)近代仏像修理のスタートと日本美術院
(3)美術院への改称(日本美術院からの独立)
(4)美術院〜戦中戦後の苦境
(5)財団法人・美術院の発足から今日まで

3.明治大正期における、新納忠之介と美術院を振り返る

(1)新納忠之介の生い立ちと、仏像修理の途に至るまで
(2)日本美術院による仏像修理のスタートと、東京美術学校との競合
(3)奈良の地における日本美術院と新納忠之介

4.明治・大正の、奈良の国宝仏像修理を振り返る

(1)奈良の地での仏像修理と「普通修理法」の確立
(2)東大寺法華堂諸仏の修理
(3)興福寺諸仏像の修理
(4)法隆寺諸仏像の修理
(5)明治のその他の主な仏像修理
(6)唐招提寺の仏像修理

5.新納忠之介にまつわる話、あれこれ

(1)新納家に滞在したウォーナー
(2)新納の仏像模造〜百済観音模造を中心に〜
(3)新納の残した仏像修理記録について

6.近代仏像修理について書かれた本

(1)近代仏像修理と美術院の歴史について書かれた本
(2)新納忠之介について書かれた本
(3)仏像修理にたずさわった人たちの本



5.新納忠之介にまつわる話、あれこれ


ここからは、これまでの新納忠之介と美術院についての話のなかで、触れてこなかった事柄、エピソードなどを、紹介したいと思います。



(1)新納家に滞在したウォーナー


東洋美術史学者、ラングトン・ウォーナーの名前は、みなさんよくご存じだと思います。

ウォーナー(明治41年・27歳)
太平洋戦争時、

「奈良・京都をアメリカの爆撃から守り、貴重な文化財を救った、日本美術の恩人」

として、多くの日本人に、その名を記憶されています。

ウォーナーリストと呼ばれる文化財リストを作り、これ等の所在地の爆撃や空襲を避けるように働きかけ、その要請が容れられて、京都や奈良は爆撃から免れることになったという話です。
世に「ウォーナー伝説」と呼ばれ、語り伝えられています。

このラングトン・ウォーナーは、若き日に、奈良の新納忠之介宅に長逗留して、日本美術の研究をしていたのです。
ウォーナーの新納宅滞在と、その後の交友の話をたどってみたいと思います。

実は、この「ウォーナー伝説」は、現在では必ずしも事実ではないと考えられるようになっているようですが、そのあたりの詳しい話や、ウォーナーの経歴、人となりなどについては、
に、詳しくご紹介していますので、ご覧ください。


ラングトン・ウォーナーは、明治40年(1907)10月から明治41年(1908)12月まで、奈良に住み、新納忠之介宅に滞在しました。

ウォーナー、2度目の来日の時です。

日本美術の研究に本格的に打ち込むための来日でした。
ウォーナーは、岡倉天心の指示、紹介により奈良へ赴き、新納忠之介宅に1年3か月にわたり寄寓します。
ウォーナー25歳、新納38歳のころです。


新納は、ウォーナーが奈良に来た時の話を、このように語っています。

「日露戦争が終わったころだった。
岡倉先生から、一通の手紙が届いた。
披いてみると、一米国青年を紹介するからよろしく頼むといふのである。」

(この後、【ボストン美術館で、天心が、ハーバート大学の一学生を採用したが、その学生が日本上代美術を研究したいとはるばる来朝した】という旨の、新納の話が続きます。)

「厄介なことには
『君の宅へ同居させて、親しく手を取ってやってくれ』
と書いてある。
・・・・・・・・・
そのことをいってやると(西洋料理などできない旨、天心宛返信したこと)、米飯も味噌汁も漬物も、風呂も寝床も、すっかり君の宅と同様で結構だ、という返事が来て、やがて20幾歳の長身のアメリカ人が当時の僕の寓居〜東大寺勧学院の玄関へ大きな靴を脱いだ。
・・・・・・・・
この青年がウォーナーであった。
・・・・・・・・
ちゃうど法隆寺や興福寺の修理中だったので、しばしば修理現場に同道してこまごま説明してあげているうち、すっかり研究を積んだようだ。

僕とはかれこれ2年ばかり一緒にくらした。
お父さんが米国からやってきて息子の下宿先で久しぶりに一緒に寝るのだといって、一晩奥の座敷で屈託のないアメリカ親子が布団にくるまったこともあった。」
(松本楢重「古拙翁懐旧談叢」1949〜50【仏像修理五十年】2013年美術院刊所収)


奈良では、新納家の家族と起居を共にし、新納忠之介の指導を受けながら、奈良の古寺古仏を巡り、日本美術研究に励んだのです。
ウォーナーが寄寓したのは、当時、日本美術院の事務所兼新納居宅となっていた、東大寺勧学院でした。
勧学院は、正倉院の南側にあったのですが、大正11年(1922)に火災で焼失し、残念なことに残っていません。



ウォーナーと新納の妻・スマ(明治41年〜勧学院・新納宅にて)


勧学院前のウォーナー

ウォーナー自身も、当時のことをこのように回想しています。

「しばらくの問は、私は奈良から法隆寺へ週に一度か二度ゆくだけで満足していた。 がそれがいつのまにか一度に二日つぶすようになり、土地の宿屋に眠り、寺僧や彫刻家の友人たちといっしょに食事をするまでになった。」
(1902年2月【ボストン美術館新報】所収「奈良の一学徒」)

「幸運にも私は、まる1年の間、そしてさらに数年間のうちの幾月か、日本の7世紀、8世紀の中に身を置くことができました。

昼となく夜となく、古い奈良の都の町通りに沿うて寺から寺へと歩みを運び、寺宝調査の仕草をやめては、老管長の気に入りの庭師と世間話にうち興じたり、その主人である老管長と茶を吸ったりしたことがそれです。」
(ウォーナー著「不滅の日本芸術」1954年朝日新聞社刊)



法隆寺仏像修理現場でのウォーナー

このように、新納忠之介はもとより、南都古寺の寺僧をはじめ、多くの文化人とも交友を深め、日本美術の研究に打ち込んだのでした。


こうした日本美術研究の成果のいくつかが邦訳され、

「不滅の日本芸術」(1954年 朝日新聞社刊)、

「日本彫刻史」(1956年 みすず書房刊)、

「推古彫刻」(1958年 みすず書房刊)

として出版されています。





  


ウォーナー帰国後も、新納が明治42年、ボストン美術館仏像修理に渡米した時には、ウォーナー宅を訪れたりしています。
戦前は、その後も度々来日し、奈良に来て新納忠之介を訪れ旧交を温めたり、奈良の友人と会うのを楽しみにしていたようです。

戦後、ウォーナーは、昭和21年GHQ民間情報局の顧問として、文化財被害調査のために来日し、奈良を訪れます。

新納は、法隆寺門前にウォーナーを出迎え、
「言葉も出ずただ抱き合うばかりであった」
という劇的再会となったとのことです。



戦後、法隆寺にて再会したウォーナーと新納忠之介


法隆寺金堂壁画を見学するウォーナー、案内する佐伯定胤・新納忠之介

その晩は、新納家に泊まり、一晩語り明かし再会を喜び合いました。


雑司町・新納宅を訪れたウォーナー(昭和21年5月)

ウォーナー最後の来日は、昭和27年(1952)夏のことで、奈良を訪ねて、当時病床にあった新納を2度も見舞い、
「新納先生にあって、やっと安心した。」
ともらしたそうです。

これが二人の最後の出会いとなり、新納は昭和29年(1954)4月に、ウォーナーは昭和30年(1955)6月に、その生涯を閉じました。



ウォーナーから新納宛の書簡



こうした新納とウォーナーとの深い絆、交友を偲んで、このような本が出版されています。

  「師弟愛で護った古代文化〜新納忠之介とラングトン・ウォーナー」 宇宿捷編著 (S46)宇宿歴史研究所刊 【134P】 
 


著者は、明治年間にはじまる新納忠之介とウォーナーとの交友、師弟愛が、
「ウォーナーに奈良・京都の爆撃を回避し、古都の文化財を守らせるに至った。」
との思いで、この本を執筆、自費出版されたようです。
宇宿氏は、新納と同郷の鹿児島出身で、鹿児島教育史編集委員などを務めた仁です。

巻頭はしがきに、

「奈良の新納忠之介のもとで家族の一員として起居寝食共にすること二年余、その間わが国の古美術に対する懇切丁寧なる指導を受けた。
この師弟愛が、やがて戦禍から日本古美術を救済する結果となって開化しようとは思っていなかった」

と記し、この二人の大恩を忘れてはならないと述べられています。

仏像修理の祖、新納忠之介の生涯と、ウォーナーの人物伝、「ウォーナー伝説」の概要を語った本となっています。


 


       

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