埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第二百十七回)

   第三十一話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その9>明治の仏像模造と修理 【修理編】

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【目次】


1.はじめに

2.近代仏像修理の歴史〜明治から今日まで

(1)近代仏像修理の始まるまで
(2)近代仏像修理のスタートと日本美術院
(3)美術院への改称(日本美術院からの独立)
(4)美術院〜戦中戦後の苦境
(5)財団法人・美術院の発足から今日まで

3.明治大正期における、新納忠之介と美術院を振り返る

(1)新納忠之介の生い立ちと、仏像修理の途に至るまで
(2)日本美術院による仏像修理のスタートと、東京美術学校との競合
(3)奈良の地における日本美術院と新納忠之介

4.明治・大正の、奈良の国宝仏像修理を振り返る

(1)奈良の地での仏像修理と「普通修理法」の確立
(2)東大寺法華堂諸仏の修理
(3)興福寺諸仏像の修理
(4)法隆寺諸仏像の修理
(5)明治のその他の主な仏像修理
(6)唐招提寺の仏像修理

5.新納忠之介にまつわる話、あれこれ

(1)新納家に滞在したウォーナー
(2)新納の仏像模造〜百済観音模造を中心に〜
(3)新納の残した仏像修理記録について

6.近代仏像修理について書かれた本

(1)近代仏像修理と美術院の歴史について書かれた本
(2)新納忠之介について書かれた本
(3)仏像修理にたずさわった人たちの本



(3)興福寺諸仏像の修理


東大寺法華堂諸仏の修理に次いで、明治35年からは、興福寺の諸仏像の修理が始まります。

乾漆八部衆像、南円堂・法相六祖像、東金堂・文殊維摩像は、この年修理されています。
あの何本も手の折れた阿修羅像も修理されました。



興福寺・阿修羅像

   
興福寺東金堂・維摩像          興福寺南円堂・不空羂索観音像


興福寺の主要な国宝仏像は、以来、明治40年までかけて、皆修理されました。

明治36年には、乾漆・十大弟子像、東金堂・十二神将像、南円堂・四天王像など

明治37年には、南円堂・不空羂索観音坐像、

明治41年には、食堂・千手観音像、薬王薬上菩薩像、中金堂と東金堂の各四天王像、

が、修理されています。

廃仏毀釈で、一時は廃寺になり、存亡の危機に陥った興福寺でしたが、遺された主要伽藍の仏像修理は、この修理で一段落したといえるでしょう。

この時の修理記録は、全く残されていないようで、今では、詳しいことは判らないようです。



(4)法隆寺諸仏像の修理


法隆寺の主要仏像の修理は、明治38年から41年にかけて行われました。

夢殿・救世観音像、金堂・百済観音像、四天王像は、明治38〜39年に修理されています。
百済観音のひるがえる天衣の先端は、この時、補足されています。



法隆寺・百済観音像

   
百済観音像・修理前(工藤精華撮影)          百済観音像・修理後    .

 
法隆寺・百済観音像 修理図解


救世観音の修理にあたった新納は、このような回想を残しています。

「あの御本尊(救世観音)も、さア廿年もなりますか、私が御修理致しました。
樟の木で、お厨子から出したときプーンと木の香りがいたしました。」
(新納・昭和18年談「秘仏を語る」【仏像修理五十年】2013年美術院刊所収)


 
法隆寺・救世観音像                 修理図解    .


このほか、明治40〜41年には、西円堂・乾漆薬師如来像のほか、諸堂の多くの木彫仏像の修理が行われました。



(5)明治のその他の主な仏像修理


ここに採り上げた、東大寺、興福寺、法隆寺のほかにも、奈良の仏像、京都の仏像の修理が行われています。

ご参考までに、美術院に残された修理目録のなかから、明治年間中に修理された奈良・京都の仏像のなかで、超有名な仏像だけをリストアップしてみると、次のとおりです。





このリストをご覧いただくと判るように、教科書に出てくるような国宝仏像が目白押しです。
明治年間、奈良京都の数多くの仏像の修理が行われていますが、超有名仏像の多くが、この間に修理されたことがわかります。



(6)唐招提寺の仏像修理


唐招提寺金堂の諸仏像が修理されたのは、大正5〜7年(1916〜8)のことです。

明治ではなく、大正時代に入ってしまうのですが、奈良の有数仏像の大修理ということなので、併せてご紹介しておきたいと思います。

木心乾漆・千手観音像は大正5年、脱活乾漆・廬舎那仏坐像は大正6年、木心乾漆・薬師如来立像は大正7年に修理されています。



唐招提寺・廬舎那仏像


唐招提寺・廬舎那仏像底


唐招提寺・廬舎那仏像底 修理図解


巨大仏像の修理であったので、なかなか大変であったようです。

新納は、千手観音像の修理をこのように回想しています。

「この修理の時には、千本の手を全部外してつけ直したのであったが、これが至って難物で、部分的に写真を撮っておいて、あとからこの写真に基づいて、あの手この子と元通りにつけていった。

この修理の時までは、落ちさうな手は素人が勝手にかすがいでとめたり後ろの木の桟に打ち付けてあったり、建物の貫にくくりつけであるなど、見ばも悪く全く無茶苦茶であつた。

千手観音の御本体も鉄の棒を作ってもたすことにした。
これは御本尊弥勒菩薩(ママ)も同様に施した。
それから千手さんの光背が宙ぶらりんで浮いて不安であつたが、これも鉄の棒で支えた。」



唐招提寺・千手観音像

 
唐招提寺・千手観音像背面(修理時)           修理図解     .


大正7年(1918)に、和辻哲郎が奈良の古寺を巡り、唐招提寺を訪れた時、丁度この仏像修理の時に出くわしています。
仏像の修理現場を見学し、その時の印象を、名著「古寺巡礼」のなかで、このように綴っています。

「金堂の大きい乾漆像を修繕しつつあるS氏に案内されて、わたしたちは堂内に歩み入った。

・・・・・・・・・

わたしたちはその間を通って丈六の本尊の前へ出た。
修繕材料の異臭が強く鼻をうつ。
所々に傷口のできている本尊は蓮台からおろされて、須弥壇の上に敷いた藁のむしろにすわらされている。
わたくしはその膝に近づいて、大きく波うっている衣文をなでてみた。

S氏が側で、昔の漆の優良であったことなどを話しているあたりには古い乾漆の破片や漆の入れ物などが秩序もなく散らばっていて、その間に薄ぎたなく汚れた仕事着の人がつくばったまま黙々と仕事をしている。
古の仏師の心持ちがふと私の想像を刺激し始める。
とにかく彼らは、仏像をつくるということそれ自身に強い幸福を感じていたのではなかろうか。」

当時の仏像修理の現場の様子がうかがえる、貴重な文章です。

ここの登場するS氏とは、菅原大三郎のことです。
新納忠之介の片腕として、仏像修理に活躍貢献した人物であることは、先にふれたとおりです。
数多くの人に読まれているこの名著に、イニシャルとはいえ、菅原大三郎の名がとどめられていることは、何やら嬉しく思ってしまいます。


明治大正時代の、奈良の古寺の仏像修理について振り返ってきました。

東大寺、興福寺、法隆寺、唐招提寺の諸仏像の修理という、大規模修理の有様をみてきましたが、新納をはじめとする美術院メンバーの大変な苦労と努力によって、修理修復されてきた様子が偲ばれました。


今、我々が、奈良の古寺を訪れ、いにしえの仏像の美にふれることのできるのも、「普通修理法」という現状維持修理方針の下に修理が進められたお蔭であり、「死を賭して修理に臨んだ」とまで言わせしむるほどの、新納等の決意と尽力が、そこにあったことをに思いを致さずにはいられません。


 


       

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