埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第二百十五回)

   第三十一話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その9>明治の仏像模造と修理 【修理編】

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【目次】


1.はじめに

2.近代仏像修理の歴史〜明治から今日まで

(1)近代仏像修理の始まるまで
(2)近代仏像修理のスタートと日本美術院
(3)美術院への改称(日本美術院からの独立)
(4)美術院〜戦中戦後の苦境
(5)財団法人・美術院の発足から今日まで

3.明治大正期における、新納忠之介と美術院を振り返る

(1)新納忠之介の生い立ちと、仏像修理の途に至るまで
(2)日本美術院による仏像修理のスタートと、東京美術学校との競合
(3)奈良の地における日本美術院と新納忠之介

4.明治・大正の、奈良の国宝仏像修理を振り返る

(1)奈良の地での仏像修理と「普通修理法」の確立
(2)東大寺法華堂諸仏の修理
(3)興福寺諸仏像の修理
(4)法隆寺諸仏像の修理
(5)明治のその他の主な仏像修理
(6)唐招提寺の仏像修理

5.新納忠之介にまつわる話、あれこれ

(1)新納家に滞在したウォーナー
(2)新納の仏像模造〜百済観音模造を中心に〜
(3)新納の残した仏像修理記録について

6.近代仏像修理について書かれた本

(1)近代仏像修理と美術院の歴史について書かれた本
(2)新納忠之介について書かれた本
(3)仏像修理にたずさわった人たちの本



(3)奈良の地における日本美術院と新納忠之介


【奈良の仏像修理のはじまり】


さて、明治34年(1901)の夏ごろから、奈良の古寺の仏像修理が始められます。

明治34年からは、東大寺法華堂の諸仏像修理、35年からは興福寺の諸仏像修理、38年からは法隆寺の諸仏像修理と、日本を代表する錚々たる古代仏像の修理が行われます。
日本美術院、即ち新納忠之介たちが、これを手掛けていくことになりました。

それぞれの、仏像修理の話やエピソードなどは、後の話に譲ることにして、ここでは奈良の地における、日本美術院と新納のありさまについて、追ってみたいと思います。

奈良の地にしっかりと腰を据えて、仏像修理の途に取り組むことを決意した新納は、明治34年、居を東大寺西門前に定め、前年、郷里鹿児島でめとった妻・スマと所帯を持ちます。
以後、新納は奈良に定住することとなります。


新納忠之介と妻・スマ(明治39年・大仏殿西門前)

明治38年の11月には、正倉院の南にあった勧学院を東大寺より借用、日本美術院の事務所と新納の居宅を兼ねて、本拠地としました。

同僚の菅原大三郎の居宅も兼ねていました。

菅原大三郎の名は、これまでも度々登場してきた名前です。
新納の仏像修理の片腕といってよい存在であったと思います。


ここで、ちょっと菅原大三郎についてふれてみたいと思います。

菅原大三郎
菅原は、明治29年、東京美術学校彫刻科卒で新納の2年後輩にあたります。
明治30年の中尊寺金色堂の修理以来、新納と共に仏像の修理に携わってきています。

子息・菅原安男氏の父・菅原大三郎の回想が残されています。
次のように語られています。

「私ども一家は、この大構えの院(勧学院)の勝手もと側の左半分を居宅として与えられていた。
・・・・・・・・
父大三郎は大正8年、唐招提寺の修理の大半を了して、この美術院を辞している。
唐招提寺の大修理の様相は和辻哲郎著『古寺巡礼』の中に述べられ、父のことはS氏として記されているが、近鉄が開通する以前であり、自宅の雑司町から尼ケ辻を経て毎日自転車で往復することは、かなり重労働だったに違いない。
・・・・・・・・・・
千手観音の修理関係図だけでも優に二百枚を越える膨大なもので、これに情熱を傾けつくして生命を燃焼させてしまったのかもしれない。
それでも父は、播州清水寺山門の仁王を造り了えて、大正11年49歳で亡くなってしまった。」
(日本美術院第2部のこと(菅原安男)岡倉天心全集8巻月報1981.4所収)

菅原大三郎は、数多くの有名仏像の修理を手掛けたことはもちろんのことですが、こんな話も、こぼればなし的にお伝えしておきたいと思います。

菅原が復元した興福寺十大弟子像が、個人蔵となって残されています。

興福寺西金堂の十大弟子像は、現在6体を寺に残すのみですが、4体は寺外に流出しています。
いずれも、頭部だけや心木だけだったり、断片となっていたものです。


破損した十大弟子像の古写真

寺外に出た1体の復元修理を行っているのが、菅原大三郎です。

頭部はすでになく、バラバラになった体部の断片と心木のみが残されていたものを集め、大部分を補足して、在りし日の姿に復元されたものです。
像内に大正11年(1922)の興福寺僧による修理記が納入されており、そこに菅原大三郎が復元したことが記されています。

この像は、たぶん断片のまま興福寺を出てしまってから復元されたのだと思われますが、現在は個人蔵になっているとのことです。

  
菅原大三郎復元修理の興福寺十大弟子像と像内納入修理記(大正11年)
修理記には、面部が欠け断片心木となっていたのを、菅原大三郎が修理復元したことが記される




【日本美術院第2部のスタート】


ちょっと横道で、菅原大三郎について振り返ってみましたが、話を「日本美術院と新納忠之介」に戻しましょう。


明治39年(1996)、岡倉天心は、日本美術院の組織を改組して2部制としました。
第1部は、絵画を中心とした新制作部門で、本部を茨城県五浦に置きます。
第2部は、国宝修繕部門とし、本拠を奈良に置き、古美術品の研究と共に国宝修理にあたることとしました。

新納忠之介は第2部の責任者となり、前年から事務所兼居宅としていた東大寺勧学院を日本美術院第2部の事務所に定めました。


日本美術院第2部発足時写真(東大寺勧学院前)

この時が、国宝の修理修繕部門として自立した、「日本美術院第2部」のスタートとなります。

「日本美術院第2部」は、明治31年の「日本美術院創設時に設置された」と書かれた本や解説がいくつかあります。

それによると、
「天心が『日本美術院』を創設した時に、院内に第1部と第2部が設置され、第1部を心が制作部門とし、第2部を宝物の修理修復部門とした。」
とされています。

これは正確ではないようです。

日本美術院創設時には、第1部、第2部という部は設置されていません。
新納等は、美術院内で修理修復を担当する部門として機能していたということにすぎないようです。

「日本美術院第2部」が設置されたのは、明治39年(1906)のことで、修理修復部門は自立の途を歩み始めます。
事業の契約業務と人事権については、「第2部」が独自に判断することになりました。
しかし、経済的には顧間の高村光雲を通じて、天心の影響下にありました。
このような中、第2部は、修理事業のなかでも研究的内容のウェイトが大きくなると、経営上苦しい状態になるというジレンマがあったようです。



【美術院の独立と苦境〜奈良美術院】


明治44年(1911)、日本美術院第2部は、東大寺勧学院から、東大寺の塔頭であった水門町の無量院の一部を借り受けて、事務所を移転します。
その後、無量院内に百坪程の私有地を買い取って美術院の事務所を建てました。

大正2年(1912)、岡倉天心が50歳で亡くなります。

天心の他界を機に、これまで2部制となっていた日本美術院は、それぞれの途を歩んでいくことになります。
自立への途を歩んでいた、日本美術院第2部は、完全に独立した国宝修理の機関となりました。
大正3年、「日本美術院第2部」は、「美術院」と改称し、新納忠之介を総責任者として運営されます。

この独立後、奈良に本拠を置いて事業活動していた時期の美術院時代を、「奈良美術院」と一般に呼称されているようです。

   
水門町の「美術院」事務所          新納忠之介・46歳(天心逝去の頃)

「美術院」として、完全独立運営するということは、経済的にも独立するということで、これまで以上に経済問題を抱えたようです。
財政対策もあり、美術院では国宝修理以外に、正倉院御物や奈良の有名寺院の工芸品の模造などをつくって、美術愛好家たちに頒布するという事業も始めました。
事業も手広く拡がり、職員も大幅に増大しましたが、美術院の本来あるべき姿からは、むしろ大きな危機の状況であったと回顧されています。


一方、この頃の、新納個人の出来事の方に眼を向けてみるとどうでしょうか。

明治41年(1908)には、新納は奈良・雑司町に自宅を購入しています。
事務所兼新納の居宅としていた勧学院から転居し、奈良永住の住いを構えたのでした。


雑司町の新納自宅玄関(後ろは自作のエジプト壁画)

この新納の居宅は、現在、武蔵野美術大学奈良寮として利用されています。
カヤ葺き大和棟に瓦葺が折衷された、奈良独特な大和棟高塀造の民家で、明治期の趣と貫録を感じさせる建物として、保存利用されています。


雑司町新納旧宅(現武蔵野美術大学奈良寮)


明治42年(1909)には、 米国ボストン美術館からの招聘で渡米し、2か月にわたって美術館所蔵の仏像等の修理にあたりました。
ボストン美術館に縁のある、岡倉天心の命により赴いたものと思われます。
ボストン美術館で、修理仏像を前にした新納の写真が残されています。
明治の日本人とは思えぬような、なかなか颯爽とした姿です。


ボストン美術館の新納忠之介

明治期に仏像修理に携わっていた人物というと、いかにも古風な旧来タイプ、職人タイプを想像してしまうのですが、新納は、結構トレンディな芸術家タイプの人であったのかもしれません。

ボストンから帰国後、明治43年(1910)には古社寺保存会委員に、美術院として独立した大正3年(1914)には、帝窒博物館学芸委員にそれぞれ任命され、翌大正4年には大礼記念章を授与されました。

新納は、「文化財保護保存の重鎮」としての地位を確立していったということなのでしょう。


美術院の事業は拡大していき、新納自身も文化財関係の重要地位に任ぜられていくという、一見、順風満帆のような新納と美術院でしたが、先に述べたように、美術院の経済的な苦しさや、模造制作販売を行うという、仏像修理・仏像研究機関のあるべき姿とのかかわりといった問題を抱えていたのも事実でした。

こうしたなかで、関東大震災が起こりました。
大正12年(1923)の事です。

関東地方の仏像、特に国宝の多い鎌倉地方の仏像のほとんどが被災、損傷し、そのすべてを修理しなければならないこととなったのです。
この大災害が、その後の美術院の進む方向を定めることになったようです。

震災後の翌年11月から、修理は始まりました。
被災した仏像の数が多いので、美術院では、修理技術者とともに、新作や模造担当の技術者も加わった職員のほとんどが鎌倉へ出張し、3ヶ年で被害に遭った全ての仏像を修理したといいます。
現場主任をつとめたのは、後に美術院2代目主事となる明珍恒男でした。


関東大震災直後の倒壊した円応寺


鎌倉の臨時修理工房(旧鶴岡八幡宮憲兵駐屯所バラック)


円応寺・初江王坐像  修理図解


円応寺・初江王坐像


また一方、国宝の指定は、次第に全国に及び、その数を増していきました。
修理物件も全国に広まり、鎌倉での仕事を終えた職員は、新造担当も含めて、すべて修理技術者になって、工事の大きさに応じたグループをつくって、全国各府県を飛び回るようになりました。

こうして、美術院は新作模造を一切中止して、仏像の修理、研究に専心、あるべき姿を進むようになっていったのです。


明治大正の美術院と新納忠之介を振り返る話は、このあたりにしておきたいと思います。



【近代仏像修理の父〜新納忠之介】


昭和に入ってからの新納と美術院についての話は、冒頭の「2.近代仏像修理の歴史〜明治から今日まで」で記しましたので、ここではふれずに先を急ぎたいと思います。

新納は、昭和10年(1935)、67歳で引退、明珍恒夫が後を引き継ぎます。

翌年、美術院の歴史最大の修理事業といわれる、三十三間堂千手観音像(1001躯)の修理がスタートしますが、そのさなか昭和15年(1940) 明珍恒夫が急逝し、やむを得ず新納忠之介が美術院総責任者に返り咲きました。

   
三十三間堂修理現場の新納忠之介(昭和11年頃)       明珍恒男       .


終戦の翌年、美術院を完全に引退します。

そして、昭和29年、85歳で仏像修理一筋の生涯を閉じました。


晩年の新納忠之介(雑司町自宅にて、昭和27年頃)

新納忠之介は、明治31年の日本美術院創成から、昭和21年に美術院長を退くまで、実に48年間にわたり、仏像の修理に携わりました。
実際には昭和25年に最終修理の銘があることから、実質52年ということになるのかもしれません。
その間、新納が関った修理は、実に2631点にのぼります。
余りの膨大な数に、びっくりしてしまいます。


新納は、近代仏像修理の黎明期、自らその道を切り拓き、近代仏像修理の歴史とともに歩んできました。
新納忠之介なしには、近代仏像修理を語ることも、美術院の歴史を語ることも、到底できません。

まさに、「近代仏像修理の父」といえるのでしょう。


 


       

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