埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第二百十四回)

   第三十一話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その9>明治の仏像模造と修理 【修理編】

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【目次】


1.はじめに

2.近代仏像修理の歴史〜明治から今日まで

(1)近代仏像修理の始まるまで
(2)近代仏像修理のスタートと日本美術院
(3)美術院への改称(日本美術院からの独立)
(4)美術院〜戦中戦後の苦境
(5)財団法人・美術院の発足から今日まで

3.明治大正期における、新納忠之介と美術院を振り返る

(1)新納忠之介の生い立ちと、仏像修理の途に至るまで
(2)日本美術院による仏像修理のスタートと、東京美術学校との競合
(3)奈良の地における日本美術院と新納忠之介

4.明治・大正の、奈良の国宝仏像修理を振り返る

(1)奈良の地での仏像修理と「普通修理法」の確立
(2)東大寺法華堂諸仏の修理
(3)興福寺諸仏像の修理
(4)法隆寺諸仏像の修理
(5)明治のその他の主な仏像修理
(6)唐招提寺の仏像修理

5.新納忠之介にまつわる話、あれこれ

(1)新納家に滞在したウォーナー
(2)新納の仏像模造〜百済観音模造を中心に〜
(3)新納の残した仏像修理記録について

6.近代仏像修理について書かれた本

(1)近代仏像修理と美術院の歴史について書かれた本
(2)新納忠之介について書かれた本
(3)仏像修理にたずさわった人たちの本



3. 明治大正期における、新納忠之介と美術院を振り返る


新納忠之介という人物が、近代仏像修理の歴史における最大の功労者であったことは、これまで記してきたとおりです。

新納忠之介は、「近代仏像修理の父」といってよいのかもしれません。

数多い名だたる古仏の修理を手掛けたというだけではなく、美術院、文化財としての仏像修理技法を考案、確立した功績は、多大なるものがあると思います。


ここでは、まず新納忠之介の生い立ち、仏像修理の途に入るまでをたどってみたいと思います。

そして、近代仏像修理を一手に担ってきた、美術院の道程をたどってみたいと思います。

どのようないきさつで、美術院が仏像修理を担うようになったのか?
美術院が、新納忠之介の下、仏像修理の専門機関として独立してゆくまでの苦難は、どのようなものであったのか?

などについて、振り返ってみることが出来ればと思います。



(1)新納忠之介の生い立ちと、仏像修理の途に至るまで


新納忠之介は、明治元年(1868)、鹿児島市新照院町に生まれました。

城下の三州義塾に通いますが、幼少期より小刀で木彫することを好んでいたといわれます。
17歳の時、海軍軍人になることを志し、親戚を頼って上京します。
仏像修理などとは、全く正反対の世界への志でした。
東京では、三田英学校で学び、東京攻玉社を経て、東京府立第一尋常中学校に入学します。

この頃、人生の転機が訪れます。

海軍を志す筈だった新納ですが、東京美術学校に入学することになるのです。
同郷の著名画家、床次正精に絵画を習ったのが、美術学校への途へ進む転機となったようです。
床次正精は、大臣、東京市長等を歴任した床次竹二郎の父君です。

東京美術学校は、明治22年(1889)2月に開校されました。
同じ年の9月、新納は開校間もない第2期生として、東京美術学校・彫刻科に入学しました。



東京美術学校

海軍軍人を目指していたはずの新納が、美術学校に入学することになったのは、きっと幼いころから木彫を好んでいたり、東京で絵画を習うなど、芸術的な天分があったからだと思います。

当時の美術学校の彫刻家の教授陣は、竹内久一、高村光雲、石川光明、山田鬼斎等でした。
竹内久一と山田鬼斎は、前話【模造編】でふれたとおり、明治の仏像模造の立役者となった人物です。

  
東京美術学校生徒時代の新納忠之介

新納本人談によれば、
「とにかく尻から3番で合格した」
とのことですが、
美術学校ではその才能を開花させ、めきめき頭角を顕わしました。


東京美術学校での制作風景(明治31年頃)


卒業制作の木彫「渡海達磨像」が残されていますが、卓越した技量を感じさせるのに十分な力作です。


新納忠之介卒業制作「渡海達磨像」


明治27年(1894)に東京美術学校を卒業しますが、学生時代からその天分が見込まれていたのでしょう。
翌28年(1895)には、弱冠27歳で東京美術学校助教授となります。

このままの流れで行けば、新納は「木彫作家」として芸術家の途を歩んでいったと思われます。
先任の高村光雲や竹内久一、山田鬼斎などは皆、木彫作家として大成しています。


新納は、どうして、仏像修理修復の途を進むことになったのでしょうか?

どうも、岡倉天心が、新納の腕を見込んで、仏像修理修復の途へと引き込んだようです。

東京美術学校長服の岡倉天心(明治25年)
当時を振り返ると、明治30年(1897)、古社寺保存会が発足、翌年31年には古社寺保存法が発布されています。
この法律により、国宝の指定が始まるとともに、国家予算、補助金による文化財の修理修復が始められることになるわけです。

ご存じのとおり、岡倉天心は、これに先立つ全国社寺の宝物調査から、これらの文化財保護行政の中心人物として活躍していました。

天心は、行政による文化財修理修復事業のスタートに備えて、仏像をはじめ美術工芸品の修理修復に携わる人材の育成を構想していたのに違いありません。
この天心の構想実現に、新納忠之介に「白羽の矢が立った」ということのようです。

新納は、自分が仏像修理の途に入るいきさつについて、次のように回想しています。

「法律(古社寺保存法)は出来ても、実務にあたる人が出来ていなければ、物は運転しない。
・・・・・・
あとから思い合わせると、(岡倉)先生の計画は中々久しかった。
私の美術学校の生徒の内から、先生は?々(しばしば)博物館の仏像などを持ってきては、修理を命じておられた。

ツマリ私は、お恥ずかしいが先生から、かねて其意味で目をつけられていたので、其後いつともなく仏像集専門家という穴へ、引き込まれてしまった。」

新納が、現実に古社寺へ赴き、仏像修理を初めて行うことになるのは、明治30年(1897)のことです。

この年、古社寺保存法の発布に先立って、平泉・中尊寺の金色堂の修理が行われました。
この修理は、東京美術学校がこれを引き受けます。
仏像修理については、新納忠之介は主任となり、菅原大三郎の2人が担当となります。
因みに、漆や螺鈿などは六角紫水、大村西崖等が担当、建築主任は東大の伊東忠太が務めました。


平泉中尊寺・金色堂堂内


こうして、新納忠之介は、仏像修理家としての途を歩んでいくことになるのです。

この時、仏像の修理修復に加えて、一字金輪坐像の模刻像を造っています。
傑作の模造作成、博物館展示の目的もあったのでしょうが、古仏像の制作技法、技術を学び習得するという狙いもあったのだろうと思われます。


新納忠之介制作、一字金輪坐像の模刻像



(2)日本美術院による仏像修理のスタートと、東京美術学校との競合


「近代仏像修理の始まりは、明治31年(1898)、和歌山県の仏像修理にはじまる」

とされています。

これは、古社寺保存法に基づく近代仏像修理が、この時から始まったということです。
即ち、国家の補助金(古社寺保存法による保存金)で修理費の経費の大半が賄われるという、行政主導による組織的な文化財修理事業、即ち近代仏像修理が、明治31年(1898)から始められたということなのです。

それまでにも、いろいろな形の私的な仏像修理は行われていたかもしれません。
また、古社寺保存法発布に先立ち、東京美術学校による中尊寺金色堂仏像の修理も行われています。
しかし、公式には、古社寺保存法に基づく明治31年の和歌山県の仏像修理を以て、近代仏像修理のはじまりと位置付けられています。

明治31年の、和歌山県の主な仏像修理は、次のようなものが実施されたようです

8月:   高野山金剛峯寺の仏像(不動堂・八大童子像など)

9月:   護国院・紀三井寺(千手観音、十一面観音)

10月:   道成寺(千手観音、日光月光菩薩)

11月:   熊野速玉大社(熊野速玉大神をはじめとする5神像)

  
道成寺・千手観音像               熊野速玉神社・神像


この和歌山県仏像修理に携わったのは、次の4名でした。

主任:新納忠之介、技手:増田有信(明治27年卒)、副主任:菅原大三郎(明治29年卒)、天岡均一(明治30年卒)

いずれも、東京美術学校彫刻科の出身です。
新納家に、和歌山県の仏像修理を終えた時の記念写真が残されており、その裏書により、そのメンバーがわかるそうです。


和歌山県古社寺修理事業出張員(和歌山県仏像修理終了記念写真)
前列左より新納忠之介・増田有信、後列左より菅原大三郎・天岡均一



この古社寺保存法に基づく「近代初の仏像修理」は、いずれの機関の手によって実施されたのでしょうか?

先にふれたとおり、その年(明治31年)に創設された「日本美術院」の手によって行われました。
これまでの流れに従えば、「東京美術学校」の手によって実施されていたはずなのですが、現実には、岡倉天心創設の「日本美術院」によって実施されました。


そうなった事情は、どうだったのでしょうか?

その訳を紐解くには、日本美術院が創設されるに至る、いきさつをたどってみる必要があります。

日本美術院創立当時の岡倉天心
ご存じのように、明治31年、有名な「東京美術学校事件」が起こり、岡倉天心が美術学校校長を非職となります。

これは、岡倉天心一派の排斥運動であったといわれていますが、天心の私的な乱行や男女関係を暴露する怪文書が流布するなどの大騒動が起こります。
結局、岡倉天心は、東京美術学校を追われ、非職となります。
そして、天心に共感する美術学校の教授・助教授24名が連袂辞職し、そのうち17名は懲戒免官になるという、美術学校を揺るがす大事件に発展します。

東京美術学校を去ることを余儀なくされた岡倉天心は、ビゲローの経済的支援を得て、東京谷中に「日本美術院」を創設します。

日本美術院は、新しい日本美術の創造を提唱し、ここに美術学校を辞職したメンバー等が結集します。
この中に、近代日本画を代表することになる、橋本雅邦、横山大観、寺崎広業、下村観山、菱田春草等がいたことは、あまりにも有名な話です。


日本美術院開院当日(明治31年10月15日)


日本美術院開院当時のメンバー(前列中央天心から左へ雅邦、大観、観山、春草)


日本美術院では、日本画の制作を行う部門と共に、古美術品の修理修繕、研究を行う部門も発足させます。

この古美術品の修理修繕、研究部門を天心から任ぜられたのが、新納忠之介でした。
新納忠之介は、この時弱冠30歳、東京美術学校助教授を懲戒免官となり、天心の下で日本美術院に参加したのでした。

このような大騒動の真っ只中で、近代仏像修理の始まりとなる「和歌山県の仏像修理」が、開始されることになったわけです。

岡倉天心は、仏像修理の発注母体である古社寺保存会の実権者でもありましたし、東京美術学校長でもありました。
非職にならなければ、当然に、和歌山県仏像修理は「東京美術学校のへの委託事業」とする段取りであったのは間違いありません。


もう少し詳しく、東京美術学校事件と和歌山県仏像修理について、明治31年(1898)の出来事を時系列で追っていくと、このようになります。

3月29日:岡倉天心東京美術学校長を非職となる

3月31日:紀伊毎日新聞が、和歌山県下古社寺宝物修繕費の下附決定と修理担当者が未定であることを報道

4月25日:新納忠之介他17名が東京美術学校懲戒免官

6月18日:紀伊毎日新聞が次のように報道

修繕加工者は東京美術学校より招聘
彫刻部は新納忠之介、器物部は六角注多良、岡部覚弥、閃保之助三
修理監督:彫刻部は東京美術学校教授兼国宝保存会員高村光雲、器物部は国宝保存会員川崎千虎

7月1日 :岡倉天心「日本美術院」創設発表

7月19日:新納忠之介等仏像修理のため和歌山来着(紀伊毎日新聞報道)


6月の新聞報道では、4月に懲戒免官になった新納等を、「東京美術学校より招聘」と報じているように、結構混乱していたようです。

こうしてみると、美術学校が受託し、新納忠之介等が担当するはずであった和歌山県の仏像修理が、東京美術学校事件のドタバタのなか、修理担当予定者共々天心創設の「日本美術院」に移ってしまい、成行き上、そのまま日本美術院の新納らが実施することになったといういきさつが良く判ります。

古社寺保存会が仏像修理の委託機関を、しかるべき検討を経たうえで、日本美術院に全面委託することに決定したというものではないように思えます。

私は、これまでは、(古社寺保存会による)近代仏像修理は、「日本美術院」が全面的に専らこれを引き受けることを前提としてスタートし、それが今日に至るまで継続して続いてきているものだと思い込んでいました。

スタートは、そうでもなかったようです。

それが証拠に、この後、日本美術院と東京美術学校との間で、仏像修理の受託競合といった状況がしばらく起こっています。

明治32年(1899)には、古社寺保存会は滋賀県、大阪府、広島県の19社寺の修理補助を決定しますが、この仕事は、日本美術院と東京美術学校の双方で分け合って請け負っています。
補助金総額16,105円のうち、8割が日本美術院、2割が東京美術学校という割合になっています。

東京美術学校側からすれば、

「国による文化財修理は、本来、東京美術学校が請け負うべきである」

という立場だったかもしれませんし、主導権争いがあったのかもしれません。

明治33年に、新納が天心に宛てた、このような書簡が残されているそうです。

その趣旨は、

大阪・観心寺で仏像の修理中であった新納のもとに、東京美術学校と滋賀県の2寺院との間で修理契約が結ばれた旨の通知があった。
焦った新納は、直ちに滋賀県に出向き、同県下の他社寺の修理は日本美術院に依頼するよう県の担当者にもちかけた。
古社寺保存会委員である岡倉にも、そのように内務省に働きかけてくれるよう依頼する、

というものです。

結構、熾烈な「仏像修理の主導権争い」が、見えないところで展開していたのでしょうか。

一方で、明治32年7月には、新納忠之介が内務省の古社寺保存計画調査の嘱託となっており、広島・厳島神社等の修理では、新納が日本美術院、美術学校両方の技術者を指揮するなどしており、現場レベルでは、それなりに交流してうまく運営していたのではないかと思われます。


正木直彦
明治34年9月、日本美術院と東京美術学校との間で、和解が成立します。

日本美術院長・天心と、東京美術学校長・正木直彦との間で協議がもたれ、何人かは日本美術院の正員と美術学校の教授とを、兼ねることになりました。

新納忠之介は、日本美術院に留まります。

こうした機運を反映してか、明治34年の仏像修理は、日本美術院に集中します。
この年には、静岡(伊豆山神社)、神奈川(杉本寺、明月院、円応寺、建長寺など)、岐阜(新長谷寺)、香川(観音寺、善通寺など)、愛媛(太宝寺)などの現地修理が記録されています。

以降は、日本美術院と東京美術学校が、仏像修理において競合することなく、

「専ら日本美術院が国宝の仏像修理にあたる」

ことになっていったようです。

そして、この伝統が、今日まで続いていくことになったのです。


 


       

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