埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第二百十二回)

   第三十一話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その9>明治の仏像模造と修理 【修理編】

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【目次】


1.はじめに

2.近代仏像修理の歴史〜明治から今日まで

(1)近代仏像修理の始まるまで
(2)近代仏像修理のスタートと日本美術院
(3)美術院への改称(日本美術院からの独立)
(4)美術院〜戦中戦後の苦境
(5)財団法人・美術院の発足から今日まで

3.明治大正期における、新納忠之介と美術院を振り返る

(1)新納忠之介の生い立ちと、仏像修理の途に至るまで
(2)日本美術院による仏像修理のスタートと、東京美術学校との競合
(3)奈良の地における日本美術院と新納忠之介

4.明治・大正の、奈良の国宝仏像修理を振り返る

(1)奈良の地での仏像修理と「普通修理法」の確立
(2)東大寺法華堂諸仏の修理
(3)興福寺諸仏像の修理
(4)法隆寺諸仏像の修理
(5)明治のその他の主な仏像修理
(6)唐招提寺の仏像修理

5.新納忠之介にまつわる話、あれこれ

(1)新納家に滞在したウォーナー
(2)新納の仏像模造〜百済観音模造を中心に〜
(3)新納の残した仏像修理記録について

6.近代仏像修理について書かれた本

(1)近代仏像修理と美術院の歴史について書かれた本
(2)新納忠之介について書かれた本
(3)仏像修理にたずさわった人たちの本



2.近代仏像修理の歴史〜明治から今日まで


2010年夏、奈良国立博物館でこんな展覧会が開催されました。

「特別展〜仏像修理百年」

という展覧会です。



奈良国立博物館で開催された「仏像修理100年」展


近代仏像修理がスタートして百十余年になり、その百年の歴史を振り返るという、珍しいテーマの展覧会でした。

一般にはなじみの薄い、ちょっとマニアックなテーマの展覧会だったのでしょう。
大盛況というわけではなかったようですが、私にとっては、こんなに興味深く、面白い展覧会はありませんでした。


「近代奈良の古寺・古仏を巡る話」が、私の関心テーマなのですが、明治期の奈良の仏像修理の有様についてまとめて解説した本など、マニアックに過ぎてそうそうありません。
そんな知られざる近代仏像修理の足取りの話が、ビジュアルで知ることが出来る、本当に有難い展覧会でした。


発刊された図録には、近代仏像修理の歴史が、きっちりと解説された論考が掲載されています。
鈴木喜博氏執筆の

「総説・仏像修理100年〜美術院の歴史とともに〜」

という19ページに及ぶ論考です。

「これを読めば、近代仏像修理の歴史は、まるわかり」ともいえる読み物です。
今更この「埃まみれの書棚から」で、テーマとして採り上げることもないともいえる充実しょた内容です。

この図録と論考に導かれながら、近代仏像修理の歴史を振り返っていきたいと思います。

これから、 「仏像修理のはじまり」とか「新納忠之介の事」「明治の奈良の古寺の仏像修理の有様」
などをテーマにして、少し細かく触れていければと思っています。

その前に、まずは

「明治にはじまり、今日に至る仏像修理100年の歴史」

を、大きく俯瞰して、簡単に振り返ってみたいと思います。


「図録・仏像修理100年」所収の年表などを参考に、近代仏像修理に関連する主要なトピックスを、年表にまとめてみました。

「仏像修理と美術院に関する出来事」
「岡倉天心と新納忠之介と仏像修理」
「主要な修理仏像」

の3つの観点に分けて整理しました。

ご覧のとおりです。




この年表を見ながら、近代仏像修理の歴史を、大まかに振り返ってみたいと思います。



(1)近代仏像修理の始まるまで


古社寺宝物の保存への取り組みのはじまりは、明治初年(4年)の古器物保存方の太政官例発布と壬申宝物検査と呼ばれる古社寺宝物調査に遡ります。
神仏分離令が発布されたのが慶応4年(明治元年)、ここから廃仏毀釈が始まりますから、それから間もないことです。
町田久成、蜷川式胤がその中心でした。

こうした古社寺宝物保存への取り組みを受け継いだのは、フェノロサと共に「日本美術を発見」したといわれる、岡倉天心です。

  

岡倉天心                   フェノロサ


天心、フェノロサ等は文部省の有力官僚であった九鬼隆一のバックアップの下、古美術の発見と保存保護を目指して、精力的に宝物調査に取り組みます。
明治13年(1880)以降、精力的に奈良京都などの古社寺宝物調査を進め、まさに数々の「日本美術の発見」を行うとともに、古社寺宝物の保存保護に必要性を広く訴えていきます。
あの有名な法隆寺夢殿の絶対秘仏、救世観音像が開扉調査されたのも、ご存じのとおり、明治17年(1884)、この頃の事でした。

このような文化財保存への取り組みもあり、政府は、明治21年(1888)に至り、文部省に臨時全国宝物取調局が設置され、大々的に全国的宝物調査が始められます。
そのスタートが、同年から実施された、近畿地方古社寺宝物調査です。

この古社寺保存調査の成果が、明治30年の古社寺保存法の制定に発展していくこととなります。

古社寺保存法の制定により、「特別保護建造物、国宝」の指定が、初めて行われます。
明治21年(1888)から9年間のわたり、臨時全国宝物取調局により実施された、21万5千点余に及ぶ古社寺宝物調査の総決算ともいえるものです。
そして、この古社寺保存法運営の母体となったのが「古社寺保存会」で、会長には九鬼隆一が就任、岡倉天心は委員となって活躍します。

こうした明治の文化財保存への取り組みの流れは、これまでもこの連載で詳しくふれてきたとおりです。
(第26話「明治の文化財保存・保護と、その先駆者」をご参照ください。)



(2)近代仏像修理のスタートと日本美術院


近代仏像修理は、この古社寺保存法が制定されたことにより、始められることとなります。

古社寺保存法の制定によって、古社寺文化財の修理費の多くを国が補助するという制度が出来たのです。
制定の翌年、明治31年(1898)から、国の主導による仏像修理がスタートします。

奈良の古仏像の模造制作は、前話【模造編】で採り上げたように、明治24〜26年(1891〜3)に行われていますが、仏像の修理修復への取り組みは、それから5年ほど遅れてスタートしたということになります。

この仏像の修理修復を主として担ったのは、岡倉天心創設の「日本美術院」です。
「東京美術学校ではないのかな?」と思うのですが、そうではありませんでした。

先の仏像模造事業は、東京美術学校に委嘱され、教授陣(作家)によって製作されています。
仏像の修理修復事業も、当然、天心主導で東京美術学校が担っていく予定でした。

ところが、ご存じのとおり、この年、明治31年、「岡倉天心・東京美術学校非職事件」が起こります。
東京美術学校を去ることを余儀なくされた岡倉天心は、新しい日本美術の想像を提唱し、東京谷中に「日本美術院」を創設します。



日本美術院の開院当日の正員の記念写真



天心は、日本美術院において、日本画の新画制作を行う部門と共に、古美術品の修理修繕、研究を行う部門も発足させます。
新納忠之介(明治31年・31歳)
和歌山県国宝修理の頃、新宮にて


東京美術学校で担うはずであった仏像の修理修復は、このようないきさつによって、「日本美術院」が担っていくことになったわけです。

「日本美術院」で、古美術品の修理修繕、研究部門を任ぜられたのが、新納忠之介でした。

新納忠之介は、この時弱冠30歳、東京美術学校助教授を解職となり、天心の下で日本美術院に参加したのでした。

日本美術院による仏像修理が始められたのは、明治31年(1898)からです。
和歌山県の古仏修理から始められますが、奈良の大寺の仏像修理が手掛けられたのは、明治34年(1901)の事となります。


関野貞
奈良における古文化財の修理修復の始まりを振り返ってみましょう。

奈良の地においては、仏像修理よりも古建築修理の方が先に始められています。

奈良大寺の主要古建築修理を手掛けた関野貞が、修理事業の責任者として奈良に赴いたのが明治29年(1986)のことです。
関野は明治34年(1991)まで奈良に滞在して、古建築修理事業を推進しました。

この時、新薬師寺本堂、法起寺三重塔、唐招提寺金堂、薬師寺東塔、興福寺五重塔などの修理修復が行われています。


これら古建築修復事業と入れ替わるかのように、明治34年(1991)から、奈良大寺の仏像修理事業が始まります。

明治41年(1908)にかけて、東大寺法華堂諸仏像、興福寺諸仏像、法隆寺諸仏像の修理が手掛けられました。
冒頭、破損した古写真をご覧にいれた、興福寺阿修羅像、東大寺戒壇堂四天王像も、この時期に修理されています。


明治39年(1996)、岡倉天心は、日本美術院の組織を改組して2部制としました。

第1部は、絵画を中心とした新制作部門で、本部を茨城県五浦に置きます。

第2部は、国宝修繕部門とし、本拠を奈良に置き、古美術品の研究と共に国宝修理にあたることとしました。



美術院第二部発足時、東大寺勧学院前記念写真
前列・真中が新納忠之介



新納忠之介は第2部の責任者となり、東大寺勧学院を日本美術院第2部の事務所兼居宅に定めました。
この頃、新納と共に仏像修理を担っていた人には、菅原大三郎、国米元俊、明珍恒男等が知られています。


 


       

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