埃まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第二十一回)

  第六話 近代法隆寺の歴史とその周辺をたどる本《その1》(4/6)

《その1》 近代法隆寺の歴史と宝物の行方

【6−4】

【百萬塔の売却】

 日本橋仲通や京都縄手の古美術商のショウウィンドウに、小ぶりで簡素な木製三重塔を見かけることがある。
 高さ20センチほど、轆轤を使って作った小塔で木肌に胡粉の跡が残る。
 誠に味のある古様な木製品、「我が家の床の間か玄関に置ければ、いい感じだろうなあ」と思わぬでもないが、サラリーマンには所詮叶わぬ夢。
 よく知らないが、コレクター間では珍重され、物によっては数百万円するらしい。

 法隆寺伝来「百萬小塔」である。
 塔身の中央に深い穴を穿って、世界最古の印刷物といわれる版行「陀羅尼」が納められている。
 百萬塔は、天平宝字8年(764)藤原仲麻呂の乱が平定されたのを機に、称徳天皇の発願で国家鎮護、冥福を祈り作られた。
 6年かけ、実際に百万基が作られ、大安寺・元興寺・興福寺など十ヶ寺に十万基ずつおかれたといわれるが、残存しているのは法隆寺のみ。

 この百萬塔が、法隆寺の再度の財政危機を救うことととなる。

 明治30年代末、法隆寺は伽藍建物の修理費用などの借金が、2万5千円ほどにのぼっており、負債を雪だるま式に増やさぬためにも、新たな資金を得ることを逼られる。
 白羽の矢が立ったのが百萬塔。
 時の住職・佐伯定胤は40歳、法隆寺復興の使命を一身に担い、「百萬塔3千基」と「伝秀文筆屏風」の譲渡を決断・議決、奈良県知事に譲渡願を提出する。

 売却方法について、信徒総代・北畠男爵が古美術商への売却案を出したが、相談を受けていた興福寺管主・大西良慶が、古美術商案は余りに安値、寺が直接譲与すべしと主張。
 結局、百萬塔はその状態により30円〜15円での直接譲与となり、譲受け者探しに尽力。結果、962基(学校78基、一般希望者884基)譲与・3万210円の寄付金収入があったという。
 そうはいっても譲受者探しは大変であったようで、関係者懸命の努力を尽くした。大西良慶(後、京都清水寺管長として著名)は、この百萬塔を背負って東京で売り歩いたと、自著で語っている。

 またこれ以後も、百萬塔譲与により寺の危機はたびたび救われているという。
 実際には、世に何基ぐらいが出たんだろうか?

 余談ながら、干支一巡説による法隆寺非再建論者で知られる平子鐸嶺は、寺との親交深く、百萬塔頒布に先立ち、佐伯定胤の依頼により百萬塔調査を行い「百萬小塔肆攷」(M41刊・和装)を著し、寺のため尽力している。〜この本は、薄い本で古書価8〜10千円・S56年復刻。私は所蔵せず〜
 平子は、明治44年35歳で早逝。法隆寺では追悼会が行われ、供養塔が建立された。
 供養塔は、境内片隅・西方院跡松林の中に、ウォーナー塔と並んでひっそり佇んでいる。

 百萬塔売却の話は、いくつもの本に採り上げられているが、
 「法隆寺日記をひらく〜廃仏毀釈から100年〜」高田良信著(S61)日本放送協会刊
 に、「百萬塔と屏風の売却」「法隆寺会設立の契機、平子鐸嶺氏の供養会」の項が設けられ、平子鐸嶺との親交も含め、詳しく書かれている。

 ところで、同時に譲与したといわれる「伝秀文筆屏風」〜紙本山水画〜は、どうなったんだろうか?
 「追跡!法隆寺の秘宝」によれば、
 記録では、「兵庫県氷上郡柏原町、土田文治氏に譲与」とあり、1万円の喜捨で譲与したらしい
 1万円の見返りの屏風なら、大変な価値と考えられていた筈。もし「周文」なら重文級。
 土田家を探し当てたが、「寺に寄付したらしい」とのことで、現在の行方は知れず。
と本書は記している。

 

4.新たに見出された仏像と、宝物の寺外への流出

【秘仏開扉〜夢殿救世観音〜】

 明治の前半期に、フェノロサと岡倉天心が千古の秘仏・夢殿救世観音を開扉した話は、劇的ストーリーとしてあまりにも有名。
 開扉の感激、興奮を語った二人の文章は、何度も眼にしているとは思うが、ここは常套を踏み、一応紹介しておきたい。

 フェノロサは、その有様を次にように記している。

「法隆寺の僧は寺の伝承について語り、厨子に納めてある像は・・・200年以上にわたって一度も開扉されたことがなかった、と言う。稀世の宝物の拝観に熱心な我々は、説得に手を尽くして、寺僧に開扉を迫った。彼等は、冒涜に対する罰として地震が起こり、寺が壊れるだろうと主張して、あくまで抵抗を試みた。だが説得はついに功を奏し、長年使用されることのなかった鍵が、錠前の中で音を立てたときの感激は、何時までも忘れることが出来ない。厨子の扉をひらくと、木綿の布を包帯のように幾重にもキッチリと巻きつけた背丈の高いものが現れた。・・・・・この布は500ヤードほど用いられていて、これを解きほぐすだけでも容易ではない。・・・・ついに巻きつけてある最後の覆いが取り除かれると、この驚嘆すべき世界無比の彫像は、数世紀を経て、初めて我々の眼前に姿を現したのである。」

 「東洋美術史綱(上・下)」フェノロサ著・森東吾訳(S53)東京美術刊

 また岡倉天心は、そのときの有様を、このように語っている。

「余は明治17年頃、フェノロサ及加納鉄斎と共に、寺僧に面して開扉を請うた。寺僧の曰く、これを開ければ必ず雷鳴があろう。明治初年、神仏混淆論の喧しかった時、一度これを開いた所、忽ちにして一天掻き曇り雷鳴が轟いたので、衆は大いに怖れ、事半ばにして罷めたと、前例が斯くの如く顕著であるからとて容易に聴き容れなかったが雷のことはわれ等が引き受けようと言って、堂扉を開き始めたので寺僧は皆怖れて遁げ去った。開けば即ち千年の鬱気粉々と鼻を撲ち、殆んど堪える事も出来ぬ。・・・・・像の高さは七、八尺ばかり、布片経切等を以って幾重となく包まれている。人気に驚いたのか蛇や鼠が不意に現れ、見るものを愕然たらしめた、やがて近くからその布を去ると白紙があった。先の初年開扉の際、雷鳴に驚いて中止したと言うのはこのあたりであろう。白紙の影に端厳の御像を仰ぐことが出来た。実に一生の最快事であった。」

 「日本美術史」岡倉天心著 天心全集第六巻(S19)所収 創元社刊

 本書は、天心が明治23年から東京美術学校で「日本美術史」の講義をした講義録。
 我が国で初めて試みられた体系的な美術史講義といわれる。
 この講義を、直に聴いた上野直昭は、

「講義のときはこんな形容は無く、只蛇がトグロを巻いて、鼠の糞が一杯あったという話で・・・・フェノロサと加納鉄斎の名は聞かなかった。この文章は恐らく先生(天心)自身のものではないかも知れない」(岡倉天心回顧)

 という旨、記している。

 こうして、我々の前にその姿を顕した飛鳥仏・救世観音。
 今では、春秋の2回、特別開扉され、我々もその姿を拝することが出来る。

 高田良信は、本像がそもそも秘仏となった時期や、フェノロサ・岡倉が夢殿開扉をした年の疑問などについて、

 『夢殿ご本尊救世観音について』高田良信 「救世観音」(H8) 法隆寺発行・小学館刊所収

 において、詳しく綴っている。

 本像が、聖徳太子在世の頃から秘仏であったという伝承が生じたのは、鎌倉〜南北朝時代の頃から。
 平安時代の大江親道「七大寺巡礼私記」には、宝帳が垂れているが、像身を拝見できたと記されている。
 その後、元禄9年(1696)には夢殿厨子が再興されており、その際本尊が移遷されたことは間違いない。江戸時代に本像に修理が加えられたと思われる釘が、体内に打たれていることも、昭和63年修理時に判明したそうだ。
 明治開扉時、救世観音に巻きつけられていた白布は、この元禄厨子再興時に、白布で覆って遷座し、そのまま厨子に納められたと考えるのが妥当と考えられ、フェノロサ、天心の文章には、感激のあまり誇張した部分が多いように思われてならないとしている。

 (白布は〈木綿〉と記されるが、木綿が普及したのは江戸時代になってからのこと。このことからも元禄厨子再興時に白布を巻いたと思われる)

 また、高田良信は、明治の救世観音・開扉年代について、フェノロサ、天心の記す明治17年では無いのではないかと、疑問を呈している。
 それは、法隆寺の明治の記録に、「明治17年8月、天心・フェノロサ・ビゲローが来寺して諸堂、古器物を調査した」と言う記事はあるが、「夢殿を開いた」という記事は全く見当たらず、当時の記録状況からもし開扉したなら、必ずその旨書かれている筈であることからの疑問。
 高田は、夢殿開扉を明治19年8月の宝物検査(夢殿本尊検査も行われている)の時か、天心、フェノロサが九鬼隆一図書頭に随行して調査した明治21年6月の時とするのが妥当だと述べている。
 「九鬼が勅命々々と叫び、布を解いていった」という思い出話を、ある人から聞いた、という話もあるそうだ。(上野直昭〜岡倉天心回顧〜)

 いずれにせよ、明治17年から21年の間に開扉されたのは間違いないようで、まあ五十歩百歩というところだが、法隆寺では、その後、人々に救世観音の拝観を許していた。
 大正11年、住職・佐伯定胤は、古来の慣習を尊重し秘仏に復する事を宣誓し、この時以来、毎年春秋二季のみ特別開扉を行うこととなった。
 現在もこの特別開扉が継承され、4〜5月、10〜11月の2回それぞれ約一ヶ月、救世観音が開扉公開されている。

 これらの話は、先に紹介した本、「近代法隆寺の歴史」「法隆寺日記を開く」のほか
 「法隆寺のなぞ」高田良信著(S52)主婦の友社刊
 「法隆寺の秘話」高田良信著(S60)小学館刊
 「法隆寺の謎と秘話」高田良信著(H4)小学館刊
 にも、それぞれ触れられている。

 

      

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