埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第二百八回)

   第三十一話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その8>明治の仏像模造と修理 【模造編】

(7/9)



【目次】


1.はじめに

2.明治の仏像模造〜模造された名品仏像

3.模造制作のいきさつを振り返る

(1)仏像模造に至るまで
(2)岡倉天心による仏像模造事業の企画
(3)仏像模造制作の推進と途絶
(4)その後の模造制作

4.仏像模造に携わった人々

(1)竹内 久一
(2)森川 杜園
(3)山田 鬼斎

5.昭和・戦後の仏像模造

6.仏像模造についてふれた本

(1)模造作品展覧会図録・模造事業の解説論考
(2)仏像模造に携わった人々についての本・論考



(2)森川 杜園


森川杜園は、明治25年(1892)に、法隆寺・檀像九面観音立像を模造しました。

明治25年の模造事業としては、東大寺戒壇堂・広目天像、興福寺東金堂・維摩居士像、法隆寺・九面観音像の模造が行われています。

このうち、東大寺戒壇堂・広目天像、興福寺東金堂・維摩居士像の2体は、竹内久一が制作しましたが、法隆寺・九面観音像は、森川杜園が模造制作しています。


仏像模造事業は、東京美術学校に制作委嘱されたものです。

森川は、奈良在住の奈良彫りの名手といわれた人で、東京美術学校とは関係がありません。
その森川が、九面観音像模造を制作したのは、竹内久一から森川杜園に、その制作の依頼があったからだと思われます。

竹内久一は、奈良の古彫刻研究のため滞在していたとき、森川と親交があり、森川の卓抜した彫技と模造制作の力量を、大いに評価していたようです。
その縁で、東京美術学校外の森川でしたが、竹内は、九面観音模造の最適任者として、森川に模造制作を頼んだのでしょう。
制作委嘱代金は、350円でした。





  

森川杜園作、法隆寺九面観音像模造(明治25年)



この九面観音の模造、何度か観たことがありますが、あまりの見事で精妙な出来に、驚きを超えて、息を呑んでしまいました。

まさに造形精神までも写し取った、

「伝移模写の美術が、ここに在る!」

そのように感じます。

何人の追随も許さない「真写し」の名作といえるのではないかと思います。


松浦正昭氏は、この九面観音の模造と森川杜園について、このように語っています。

森川杜園作、法隆寺九面観音像模造
「伝移模写の彫刻で最高の名手は、森川杜園だろう。

それは九面観音の模造が物語っている。
法隆寺の九面観音像は、わずか50センチに満たない白檀の一材から、一切の接ぎ矧ぎなしで、すべてを彫り出した、一木細密技法の極致が尽くされた世界的名作。
・・・・・・・・・・・・・
まさにミクロの世界まで極めた超絶技法が尽くされており、中国唐の白檀彫刻とすることに誰も異論をはさまない。
・・・・・・・・・・・・・・
では、唐彫刻に例があるかというと、それもない。
要するに、中国でも日本でも真似できないほどの作品なのである。

それを『模造専一』を掲げた森川杜園が、表現も技法もそのままに完璧な再現をして見せたのである。
これが杜園の言う『真写し』のワザなのだ。」
(「特集・伝移模写の彫刻」模写・摸造と日本美術展・図録2005年刊所収)

森川杜園が、九面観音の模刻を完成したのは、明治25年(1892)で、杜園73歳の時でした。
(明治26年の制作とする解説もあります)

当時の73歳は、相当の老齢といってよいと思います。
よくこれほどの超絶技巧を駆使することが出来たものです。
模造にあたっては、法隆寺の実物像が、岡倉天心の弟子である丸山管長にいた室生寺に移され、杜園は室生寺に滞在して、息も詰まるようなミクロの世界の「真写し」に挑んだということです。

 

法隆寺・九面観音像・原像



杜園は、翌々年明治27年(1894)7月、75歳でその生涯を閉じます。
九面観音像の模刻は、まさに渾身の遺作となりました。

「一に竹内久一、二がなくて、三が森川杜園」

平櫛田中が、近代木彫家についてこのように語ったことは、先に紹介しましたが、平櫛にそのように語らしめた、森川杜園の超絶の「真写しの技」を見る思いがします。


ここからは、森川杜園の生い立ち、足跡を簡単にたどってみたいと思います。

森川杜園は、その生涯を奈良で過ごしました。

奈良人形中興の祖と称せられ、気迫のこもる鋭い鑿で、奈良彫りの名人と呼ばれました。
自ら「三職」と称しましたが、木彫だけではなく、多方面に超一流の技量を誇りました。
「三職」とは、絵画、狂言、奈良人形のことを指しており、それぞれに名人であった、マルチアーティストといえる人物です。

森川杜園
森川杜園は、文政3年(1820)生まれで幼名・友吉、家は米穀商や公事宿を営んだりしていたといいます。

手先が大変器用で、13歳のころから絵画を学びました。
その画工としての才能を見込んだ、時の奈良奉行・梶野土佐守良材から、「扶疏」(ともしげ)の名と、「杜園」(かつらその)の号を与えられます。
天保7年(1836)、17歳の事でしたが、終生「杜園」の号を用いるようになりました。

一方、奈良人形・一刀彫との結びつきは、柴田是真との出会いにはじまります。
柴田是真(1087〜1891)は、著名な漆芸家です。
杜園の号をもらった天保7年、柴田是真と出会った杜園は、是真に奈良人形・一刀彫という木彫への道を薦められます。
彫技を始めた杜園は、めきめきとその天分、力量を発揮し、奈良人形・一刀彫の制作者として名を成していきました。

同時に、狂言の道にも足を踏み入れ、天保13年(1842)には、23歳で大蔵流狂言師・山田弥兵衛を襲名するに至ります。

まさに自ら「三職」と称する如く、20歳過ぎの若くして、絵画、奈良人形、狂言という三職それぞれに一流として名を成すまでの域に達したのでした。

杜園の奈良人形の作品は、「高砂」などがよく知られていますが、多くは題材を狂言にとったもので、見事な彩色がなされています。

杜園の芸術というのは、

「彫芸と絵画・狂言とが一体化し、精神性、芸術性ある表現に統合・昇華されていったものである。」

といわれます。

  

森川杜園作、奈良人形(左・融、右・福の神)



このようにして「三職」を体現するような、奈良人形・一刀彫で、若くして名を成し十二分にその力量を認知された森川杜園でしたが、模造・模刻の世界とはどのようにかかわりを持っていったのでしょうか?

杜園は、奈良人形で名を成すようになる40歳代ぐらいまでは、模造の世界に手を染めることはなかったようです。
杜園が模写・模造を行うようになるのは、明治に入って50歳を過ぎてからのことです。


明治5年(1872)、町田久成、蜷川式胤等によって、壬申宝物検査が行われます。

この時、正倉院の勅封を開封し、宝物の調査が初めて実施されます。
調査にあたっては、宝物の写真撮影と共に、模写も行われました。
東京からは、写真師・横山松三郎、油絵師・高橋由一等が同行していましたが、奈良在住の森川杜園も依頼を受けて、この宝物検査の「古物写し」に参加することになりました。
杜園の画技が、それほど優れて評価されていたということなのだと思います。

 

森川杜園による、「正倉院御物写」と題する巻子本・全八巻
明治5年から13年の正倉院宝物調査時の、杜園の模写・拓本類約100点が、張り込まれている。



  

森川杜園の正倉院宝物模写(左・蘭奢待〜黄熟香、右・紫地鳳形錦御軾)



これに続いて、明治7年(1874)、奈良博覧会社が設立され、その事業の一環として古器物の模写・摸造が実施されるようになると、杜園は、模写だけでなく、古彫刻の模造にも携わるようになります。

明治6年には、正倉院宝物、香木「蘭奢待」の模造を、明治8年には、「如意輪堂の扉」を模造しており、このあたりが、杜園の模刻の始まりのようです。


これ以降の、仏教美術関係の模造制作をピックアップすると、次のようになります。

 



  

森川杜園作、東大寺南大門・狛犬     法隆寺五重塔・塔本塑像


  

森川杜園作、興福寺・龍燈鬼     天燈鬼模造


  

森川杜園作、元興寺・聖徳太子二歳像    興福寺・金剛力士像模造



このように、森川杜園は、明治10年(1887)以降、仏教美術関係の模造の制作に、精力的に取り組んでいます。

明治14年に制作された、「興福寺・龍燈鬼立像模造」は、第2回内国勧業博覧会に出品し、妙技2等賞を受賞しました。

模造制作は、奈良博覧会会社や文部省博物局からの依頼によるものも多かったようですが、
杜園自身も、この頃から模造制作に仕事の重点を大幅にシフトしていったようです。

明治17年(1884)発行の「大和名勝豪商案内記」にみえる杜園の店頭の図には、

「春日有職一家、寧楽木偶司、但古物模造専一トス」

と記されており、模刻中心の仕事ぶりであったことが伺えます。

森川杜園は、若き頃は、奈良人形・一刀彫に杜園自身の創意、独創を注入し、奈良人形の中興といわれるほどになりましたが、老境に達するにかけて、模造・模刻の世界に傾倒していったと云えるでしょう。


先に紹介した、竹内久一が、

「模造は、あくまで技量修行、研鑽のひとつの手段」

として、模造による技術研鑽を修業のステップとして位置づけ、独自の創作彫刻の世界に転じていったのと対照的です。

竹内は、杜園の卓抜技量を認め九面観音の模造を託することになるのですが、一方で、その仕事の芸術性には、納得できなかったようです。

竹内久一は、杜園の模造について、このように語っています。

「杜園のものは巧いかと云ふと疑問である。
本当の通りに出来たと云ふ事が当って居る。

上手と云ってよいか下手と云って宣いか、彼の技量を見ると、只もう忠実な事一方で、蜘蛛の巣があれば蜘蛛の巣、蠅の糞があれば蠅の糞、又たひゞ割れがあったら其の通り、不動様が曲ってると、曲った通りに拵へた。

自分の創意と云ふ事が無くて、只、原作に忠実であるいふ事が、事実彼れの生命であったのである。
彼の制作は殆ど模造許りである。」
(「森川社園の芸術」書画骨董雑誌59号所収)


誠に、手厳しい杜園評です。

竹内の模造に対する考え方が、そのままストレートに吐露されているようです。
竹内久一が、森川杜園と出会ったのは明治15年から20年(1882〜1887)の頃ですので、杜園が「古物模造専一トス」といわれた頃です。

この杜園評は、60歳・還暦を過ぎ、模造に傾倒している森川杜園をみてのものだったのでしょう。
杜園の、模造に傾倒する前の若き時の作品を含めた彫芸全般を、深く見ての事ではなかったのかもしれません。

「創意」を尊重する造形意識を強く持っていた竹内にとって、森川の「真写し」の模造芸術の世界は、納得できなかったのかもしれませんが、私は「伝移模写の芸術」というものに、深い芸術性を認めてよいのではないかと感じます。


森川杜園は、一言でいえば「古雅」を目指した芸術家であったといえるのでしょう。
奈良人形・一刀彫の世界も、模造・模刻の世界でも、伝統的な情趣ある「古雅」を追い求める美意識の世界の中にいた「三職」の彫刻芸術家であったのだと思います。

明治27年(1894)7月15日、森川杜園は75歳の生涯を終えました。

「罷出て あらぬ手業を世に残し さも恥ずかしと 身は隠れつる」

杜園が遺した辞世でした。


 


       

inserted by FC2 system