埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第二百七回)

   第三十一話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その8>明治の仏像模造と修理 【模造編】

(6/9)



【目次】


1.はじめに

2.明治の仏像模造〜模造された名品仏像

3.模造制作のいきさつを振り返る

(1)仏像模造に至るまで
(2)岡倉天心による仏像模造事業の企画
(3)仏像模造制作の推進と途絶
(4)その後の模造制作

4.仏像模造に携わった人々

(1)竹内 久一
(2)森川 杜園
(3)山田 鬼斎

5.昭和・戦後の仏像模造

6.仏像模造についてふれた本

(1)模造作品展覧会図録・模造事業の解説論考
(2)仏像模造に携わった人々についての本・論考



4.仏像模造に携わった人々


明治期の博物館・仏像模造事業を担ったのは、竹内久一、森川杜園、山田鬼斎の3人です。

それぞれの生い立ち、足跡は、どのようなものだったのでしょうか?
ちょっと、たどってみたいと思います。



(1)竹内 久一


竹内久一は、帝国博物館の仏像模造事業で製作された、8体の模造のうち、5体を制作しました。
天心の計画による仏像模造事業の、牽引車、立役者といえる人物です。

竹内の制作した模造仏像は、

東大寺法華堂・執金剛神像、同・伝月光菩薩像、興福寺北円堂・無着像、東大寺戒壇堂・広目天像、興福寺東金堂・維摩居士像、

の5体で、明治24年から25年の2年の間に制作されました。

竹内久一像(東京芸術大学)
ところで、今、「竹内久一」という彫刻家の名を聞いて、

「ああ、よく知っている彫刻家だ。」

という人は、意外に少ないのではないでしょうか?


竹内久一は、高村光雲とならぶ近代日本木彫界の第一人者で、近代日本彫刻史上に名を留める彫刻家であるといわれています。
重要文化財になっている木彫「老猿」で知られる高村光雲の方は、現在も良くその名を知られていますが、竹内久一の名前は、今では忘れられがちなのかもしれません。

「一に竹内久一、二がなくて、三が森川杜園」

日本木彫界の巨星といえる平櫛田中は、

「明治以降の最も優れた彫刻家は誰だと思うか?」

ときかれて、このように答えたということです。

今泉篤男氏が、平櫛田中の発言としてこのように書き残しています。(百寿記念「平櫛田中彫琢大成」所収)

竹内久一が、いかに優れた木彫家であったかを物語る話かと思います。
平櫛田中が、かくまで評価した作家が忘れられがちなのは、残念なことです。

もうひとり名前の挙がった森川杜園については、この後、法隆寺・九面観音像模造の作者として採り上げます。

竹内久一は、仏像模造の制作者というよりは、古彫刻の伝統に立脚して、新たなる彫刻の創造的復興に挑戦した近代彫刻家として評価される人物だと思います。
その代表作は、明治26年、シカゴコロンブス博覧会に出品した、木彫彩色の巨像「伎芸天」像といわれています。


さて、竹内久一の生い立ちと足跡をたどってみたいと思います。

竹内は、嘉永5年(1852)、江戸浅草に生まれ、堀内龍仙・川本州楽に師事して、牙彫を学びました。
牙彫とは、象牙彫刻のことで、当時は根付などの細密彫刻が主流でした。

竹内の回顧によると、
明治13年(1880)に至り、観古美術会の古美術展に出品された奈良興福寺の古像を観て、大いに感じるところがあり、これに魅せられて木彫に転じた、
といいます。

この観古美術会には、興福寺の東金堂十二神将像、板彫り十二神将像、十大弟子像の一体、龍頭鬼像などが出品されたことになっていますが、竹内はどの仏像に感服したのでしょうか?
竹内は、これを契機に、奈良へ赴き、奈良の仏像彫刻の彫刻・彩色技法を学びたいと願望します。

竹内自身は、この時の心境などを、自らの回顧談「木彫を志せる動機と奈良行きの顛末」(書画骨董雑誌47号・1910刊所収)において、このように語っています。

「それ(明治13年の観古美術会)には、日本全国の古美術品が出品されていて、奈良からも多数の名作が出陳されていた。

それを見物に行った私は驚いてしまった。
ただもう目の覚めるような、今までコセコセした牙彫をしていた眼には実にただ眩惑されるのみであった。
・・・・・・・・・・・・・
私は、上野でそれを見た以来、恋々として奈良を去らなかった。
・・・・・・・・
矢も楯もたまらず、奈良へ行きたい、奈良へ行きたい!と憧れていた。
・・・・・・・・
ひとつ、おれが木彫を再興してやろう。」

このような心境となり、明治15年(1882)10月、竹内久一は奈良に向けて出発します。

竹内、30歳のことでした。

最初は、修業時代の良き先輩となる加納鉄哉と共に、奈良に赴きました。
それから約5年、竹内は、明治16〜18年の二年間の奈良滞在を含め、明治20年ごろまで、何度か東京と奈良の間を行き来しながら、奈良の古彫刻研究、技法習得に没頭します。

奈良で自らの技量を磨いたことについては、

「奈良の美術はいいと見たから、生きた人間(の技量を学ぶ)よりも、死んだ人の残してくれた活きた技量に信頼して、これを学ぶ事にした。
自分の卓見でもないが、自分はこれによって今日の凡てを得たのである。」

と語っています。

竹内久一の、造形精神までも写し取った、息を呑む「精妙の極致」といえる仏像模造の技量は、この奈良滞在時の錬磨によって培われたものに違いありません。


岡倉天心との出会いも、この奈良滞在中のことであったようです。

天心、フェノロサらの古社寺宝物調査の折には、竹内も案内役方々同行し、いろいろ意見を交わしたようです。
そのことが、天心との交流を深め、

「竹内の木彫家としての卓越した技量、日本の古美術を見る眼」

を、天心が大いに認めることとなり、東京美術学校との縁に結び付けられていきました。


東京美術学校は明治20年に設置され、22年に開校されます。
竹内久一は、明治21年、岡倉天心から招聘され、美術学校彫刻科に務めます。
翌22年には、高村光雲が竹内の紹介により、東京美術学校に来ることになりました。

明治23年からは、彫刻関係で、美術学校長・岡倉天心の構想による、二つの依嘱製作事業が始められます。
ひとつは、国体を代表する歴史人物彫刻(銅像)制作の受託事業です。
もう一つは、これまで話してきた、名品仏像模造制作の受託事業です。

高村光雲は、楠正成像即ち「楠公銅像」の制作に携わります。
歴史人物彫刻事業として制作されたものです。
今も、皇居前広場に在る巨像です。

竹内久一は、仏像模造の方に、専ら携わることとなりました。
この役割分担は、竹内が、奈良に赴き名品仏像を深く学んでいたことから、岡倉がそれを望んだのかも知れません。

明治24年(1891)には、

東大寺法華堂・執金剛神像、同・伝月光菩薩像、興福寺北円堂・無着像

の3体の模造を制作します。

  

法華堂・執金剛神像(左・竹内久一作模造、右・原像)


  

法華堂・伝月光菩薩像(左・竹内久一作模造、右・原像)


  

興福寺・無着像(左・竹内久一作模造、右・原像)



翌明治25年(1892)には、

東大寺戒壇堂・広目天像、興福寺東金堂・維摩居士像

の2体を制作しました。

  

戒壇堂・広目天像(左・竹内久一作模造、右・原像)


  

興福寺・維摩居士像(左・竹内久一作模造、右・原像)



この間、竹内は都度都度、奈良に赴き、実物の仏像を眼前にして模造制作に没頭したとのことです。
塑像の仏像が多くありましたが、すべて木彫で、これに彩色を施して模造制作されました。

たった2年間で、あの5体もの模造を、見事に完成させたのですから、驚くべき没入度と卓抜の技量のなせる業だと、感嘆、讃嘆の声を上げざるを得ません。


岡倉天心は、竹内久一の卓抜の模刻技量、名品仏像の審美眼に、絶大なる信頼を置いていたようです。
美術学校の日本美術史の講義で、このように語っています。

天平彫刻の解説では、

「天平時代の彫刻は、夥多ありて一々精密に講述する遑(いとま)あらず。
然し、細密上の事は竹内教授に付いて聞くべし。」

法華堂・伝月光菩薩の解説では、

「彼の博物館に於ける竹内教授の模造を見よ。彼の手指を見よ。
人間以上の人の手指は、斯くならんか。」

法華堂・執金剛神に関しては、

「竹内教授模造は、その彩色甚だ美し。
是れ剥落写より一層困難なり。
何となれば、其の古きを小許(すこしばかり)の残蹟によりて想像して彩色を施せばなり。
即ち、模造の方も研究すべきものたる知るべきなり。」

 

竹内久一模造による法華堂・執金剛神の極彩色文様



仏像模造制作において、岡倉天心からこれだけの賞賛を得た竹内久一でしたが、この5体の模造制作の後は、仏像の模造に携わることはりませんでした。

この後の仏像模造制作については、山田鬼斎が当たっています。


竹内は、

「模造は、あくまで技量修行、研鑽のひとつの手段」

と考えていたようです。
模刻家とみられるようには、決してなりたくなかったのでした。

模刻に従事することについて、このように語っています。

「模刻は成る程、或る程度までいいに相違ないが、然し模倣と云ふは修業時代に、其の道に入る時代に於ける方法で、一旦彫刻の名乗りを上げた上からには、人には各人各種の異った色と云ふものがあるから、それを発捧したがいいと私は思って居た。

今日の言葉で云ふと、彫刻に於ける個性の発揮である。
之れが無かったら其の彫刻にせよ、絵画にせよ生命がない。」

模造は、あくまで修行の道程で行っているので、自分は自らの個性を発揮する彫刻家になりたいのだと、はっきりと言い切っています。

このような竹内の信条があって、以降、模造制作に携わることがなかったのではないでしょうか?

竹内は、「名人肌、侠客肌の性格」という、チャキチャキの江戸っ子の勇み肌的なところがあったといわれています。
「模造はこれまで、ここまで!」
と決めたら、振り返ることはしなかったのかも知れません。


竹内久一作、伎芸天像
明治25年(1892)、竹内は、仏像模造に携わりつつ、一方で、代表作といわれる「伎芸天像」の制作に取り掛かります。


奈良の仏像の古典に学びつつ、竹内の創造的個性を表現した像の制作に挑んだのだろうと思います。

この「伎芸天像」は、明治26年、シカゴコロンブス博覧会に出品するために、制作されたものです。

この作品は、海外に国粋を顕示する意図を以て造られたためか、「純日本趣味」の発揮に務め、擬古的につくられている感が強いといわれています。


この時、同時に博覧会に出品された、高村光雲の作品が、重要文化財にも指定されている、ご存じの「老猿」です。



高村光雲作、老猿



その後も、竹内は、精力的に作品制作を行っていきます。

明治31年(1898)の、岡倉天心の美術学校長失脚辞任事件の際には、連袂辞職せんとしますが、最終的に意を翻し、美術学校にとどまります。
しかしながら、天心という絶大な庇護者無き後は、

「制作上の進展も見えず、寂寞の感を免れない」

と、評されているようです。

とはいっても、明治期における木彫の大家としての地位はゆるぎなきものとなり、
明治39年(1906)には帝室技芸員、明治43年(1910)には古社寺保存委員、文展審査官、
に任ぜられています。

竹内久一は、大正5年(1916)9月24日、逝去します。
享年、64歳。

天心と共に、近代木彫の復興と創造に大いなる足跡を残した生涯でした。


最後に、竹内久一の、創作作品をいくつかご覧ください。
彫刻作家としての竹内久一の姿を、振り返ってみましょう。

神武天皇像は、明治23年(1890)、38歳の時の作品で、木彫修業時代の総決算といわれるものです。
第3回内国勧業博覧会に出品され、2等妙技賞を受賞しました。

日蓮上人銅像は、福岡県博多区東公園に在る10m余の巨像です。
原型の木型を、竹内が制作しています。

    

神武天皇像                   日蓮上人銅像


執金剛神像は、自ら模造した法華堂・執金剛神像とは別に、オリジナルの木彫として新たに制作されたものです。
模造制作の経験が生かされているものでしょう。
伎芸天像と同じく、シカゴ万博に出品されました。

町田久成像は、東京帝室博物館の設立に尽力した町田久成の剃髪時の姿を、親交のあった彫刻家・竹内久一が木彫で再現したものです。
竹内は、若き日の奈良行きの時、町田久成に添え状を書いてもらい、町田の京都の別荘にしばらく滞在したりしていますので、親しき関係にあったのだと思います。
明治30年に亡くなった町田を偲んで、大正時代に制作されたものです。

 

執金剛神像               町田久成像



 


       

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