埃
まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第二百四回)
第三十一話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま
〈その8>明治の仏像模造と修理 【模造編】
(3/9)
【目次】
1.はじめに
2.明治の仏像模造〜模造された名品仏像
3.模造制作のいきさつを振り返る
(1)仏像模造に至るまで
(2)岡倉天心による仏像模造事業の企画
(3)仏像模造制作の推進と途絶
(4)その後の模造制作
4.仏像模造に携わった人々
(1)竹内 久一
(2)森川 杜園
(3)山田 鬼斎
5.昭和・戦後の仏像模造
6.仏像模造についてふれた本
(1)模造作品展覧会図録・模造事業の解説論考
(2)仏像模造に携わった人々についての本・論考
3.模造制作のいきさつを振り返る
(1)仏像模造に至るまで
明治の仏像模造事業を企画し、推進した立役者は、岡倉天心でした。
そのいきさつを、たどってみたいと思います。
岡倉天心が仏像模造事業を推進するのは、明治20年代に入ってからのことですが、天心以前も、古器・古物の模造、模写への取り組みは、早くから行われてはいました。
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町田久成
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明治に入ってからをみれば、
「博物館の生みの親」「文化財保護保存の礎を築いた人」
といわれる、町田久成が、先駆的に取り組んでいます。
町田久成は、ご存じのとおり明治4年(1871)発布の「古器旧物保存方」の発布、初の社寺宝物調査「壬申検査」の主導者です。
この時に、早くも
「選任者を任命して、これらの古器旧物を模写してこれを集成すること」
を建言しています。
また、宝物調査方針として、
「宝物の現地保存を行う。複数あれば、博物館に移し保存と展示に供する。必要に応じ模造品も作成。」
と述べています。
実際に、壬申検査宝物図集81冊(重要文化財) が作成されており、古器古物の詳細模写、拓本が膨大に残されています。
壬申検査宝物図集(重要文化財)
町田久成は、明治初年の段階から、
「博物館での宝物展示と、必要に応じた模造品の作成展示。」
を企図していたように思われます。
模造制作の取り組みも行われました。
明治8年(1875)には、正倉院宝物や奈良の古社寺の宝物を展覧した「第1回奈良博覧会」が開催されています。
この奈良博覧会は、町田久成等の意向に沿って開かれたものだと思われますが、この博覧会を主催した奈良博覧会社では、正倉院の宝物の調査や「模写模造制作」を進めています。
正倉院宝物模造制作には、奈良の美術工芸家が参加し、後で登場する森川杜園もこれに携わっています。
このように、古美術品の模写・模造への取り組みが行われたり、こうした模造品を博物館で展示する必要性が論ぜられたりしたようです。
ただ、それはあくまでも古器・古物といわれる古美術品についてのことで、仏像を対象としたものではありませんでした。
明治20年代に、岡倉天心が名品仏像の模造に取り組むまで、仏像の模造というのは、全くなされなかったのでしょうか?
明治初年においては、仏像はあくまでも信仰の対象物で、仏像を美術作品、彫刻作品としてみるということは、なかったのだと思われます。
小金銅仏のような小品仏像が奈良博覧会で展観されたことはありましたが、等身もあるような大きな仏像は、礼拝の対象で、鑑賞展観といったことは考えられなかったようです。
そうした中、奈良人形(奈良彫り)の名手といわれる森川杜園が、興福寺の天燈鬼、龍燈鬼の模造を制作しています。
森川杜園は、町田久成や蜷川式胤とも交流があったようですが、そのことと、この模造制作と関係があったのかは、良く判りません。
明治14年(1881)、第2回内国勧業博覧会に「興福寺龍燈鬼立像」の模造を出品しています。
翌、明治15年(1882)には、「天燈鬼立像」の模造を制作しています。
森川杜園作、興福寺・龍燈鬼、天燈鬼模造(明治15〜16年作)
これが仏像模造の先駆と云えるのでしょう。
礼拝仏像の模造というよりは、工芸的古物としての模造だったのかもしれません。
この二つの模造を見ていると、さすがに奈良彫りの名手、模造の名人といわれた森川杜園の作だけあって、まさに「真写し」の迫力を感じる見事な作品です。
(2)岡倉天心による仏像模造事業の企画
そろそろ、明治の仏像模造事業の立役者、岡倉天心の登場と事業の内容についての話に入っていきたいと思います。
岡倉天心は、明治15年(1882)、東京帝国大学卒業後、19歳で文部省に入省しますが、大学3年の時、来日したフェノロサの通訳を務める間に、日本美術への傾倒を深めていきました。
文部省入省後は、フェノロサと共に、「古美術の保存、保護」に全力で取り組んだことは、ご存じのとおりです。
フェノロサ 岡倉天心
天心は、明治13年に、フェノロサと共に京都・奈良の見学旅行に出かけたのを皮切りに、明治21〜22年にかけ、大がかりに行われた「近畿地方古社寺宝物調査」まで、5度も奈良・京都の古社寺の宝物調査を行っています。
明治17年の調査の時に、法隆寺夢殿の絶対秘仏・救世観音像をフェノロサらとともに開扉した話は、あまりにも有名です。
こうしたなかで、天心は、信仰の対象物としての仏像としてではなく、「芸術作品、美術作品としての仏像」への認識を深めていったものだと思われます。
奈良・京都の仏像の名品仏像を自ら実見し、そこに「日本美術を発見」したのでしょう。
片や、天心は、我が国の美術行政の中心を担う要職に就いていきます。
明治20年(1887)には、東京美術学校設置に向けての幹事に、
明治21年(1888)には、新たに設置された「臨時全国宝物取調局」の取調掛に、
明治22年(1889)には、新設の帝室博物館の理事・美術部長に、
明治23年(1890)には、開校した東京美術学校の校長に、
それぞれ任ぜられています。
文部省の、枢要な美術行政の実務上の実権者的立場にあったといっても良いのだと思います。
天心、26歳から29歳にかけてのことです。
天心は、脂の乗り切った感じで、文化財の保存・保護、日本美術の啓蒙などに、存分に腕を振るった時期に違いありません。
仏像、仏画の模造、模写事業の推進も、岡倉天心の強い思い入れを込めた形で始められたのだと思います。
岡倉天心は、模造の制作展示の必要性について、折々説いていたようです。
明治21年(1888)、近畿地方古社寺宝物調査の途上、京都での講演会でこのように述べています。
「国内の美術品所在を知り、之を模写して学校又は博物館へ陳列し、公衆へその所在を示す。」
天心は、美術品の模写・模造の目的は、これらを本物の代替として大切に保管しておくということではなく、「博物館や学校に陳列する」ことに在ると考えていたのです。
優れた古美術品、文化財を、陳列することにより、美術を学ぼうとする者や、一般の人々に、「優れた日本美術の作品とその価値」を周知、啓蒙しようとしたのでした。
自らが、フェノロサ等とともに「発見した日本美術」。
その多くは、奈良、京都に在り、広く知られることはありませんでした。
優れた日本美術の作品を、帝都東京で多くの人々が疑似体験できるよう、模造・模写を博物館で展示することを企図したのです。
明治23年(1890)9月、天心は、大規模な模写・模造制作の計画の伺いを提出しています。
前年、帝室博物館の美術部長に就任、翌23年、東京美術学校の校長に就任した時のことです。
満を持して、かねてからの構想の、この計画を提出したのかもしれません。
ちょっと長くなりますが、計画伺いの原文を、ご紹介します。
本館美術ノ陳列品トシテ彫刻絵画ノ名品模造之儀ニ付伺
本館美術部ニ於テハ廣ク古大家ノ傑作ヲ整列シ以テ美術ノ標範ニ供シ併セテ其沿革ヲ示スハ最モ必要ノ儀ニ有之候処
従来収蔵ノ品極メテ少ナク漸次購求ノ見込ニ有之候共精好ナル美術品ノ価格ハ近来益高貴ニ赴キ到底当館有限ノ資力ヲ以テ完全ナル蒐集ヲナシ難キノミナラス
眞ノ模範タルへキモノハ固ヨリ既ニ名刹旧族ノ所有ニ属シ其江湖ニ散在スルモノノ如キハ多クハ第二流ノ製作タルニ過キス
到底原品購入ノミヲ以テ本館陳列上ノ目的ヲ達シ難クト存セラレ候ニ付テハ
向フ五ヶ年ヲ期シ本館標本品購入費中ヨリ毎年弐千円ヲ支出スルヲ日的トシ
奈良京都ヲ首メ其他ノ地方ニ於テ彫刻絵画中名品傑作ノ模造ニ着手シ
或ハ木造石膏若クハ原材料ヲ用井便宜縮写又ハ等寸ノ模製ヲナサシメバ
一ハ以テ本館陳列上ノ主趣ヲ達スヘク一ハ名品保存ノ資卜相成ルへク候ニ付
此段予メ裁可ヲ仰キ候也
少々、古めかしい文章なので、判りにくいのですが、要約すると、
「博物館は、美術の沿革を示す傑作を展示することが最も必要なことであるが、現在の博物館収蔵品は貧弱であり、そうした傑作は高価に過ぎて、購入する予算、資力も残念ながら乏しい。
また、そうした名品は古寺所蔵、名家所蔵になっており、蒐集そのものが困難である。
購入品だけでは、博物館の陳列目的を達することが出来ないので、京都・奈良をはじめとする名品・傑作を模造し、これを陳列することにより、博物館の目的を達することとしたい。
ついては、向こう5年間に、博物館の購入費から、毎年2千円を模造・模写費用に支出することとしたいので、裁可を仰ぎたい。」
というものです。
天心の博物館のあり方、
「美術の沿革を示す模範的傑作を、展示する」
日本美術の認知と啓蒙という考え方が、強く示されていると感じます。
岡倉天心による彫刻絵画の模写・模造計画の伺い書(明治23年)
この計画伺いの文章の後に、模造予定品目が挙げられています。
彫刻模造の予定品目として挙げられたものは、次の通りです。
ご覧のとおりです。
全部で、50体が模造予定品目として挙げられています。
この50体のリストを見て、皆さんどのように感じられたでしょうか?
名品、傑作の仏像ばかりで、多くは、現在も国宝に指定されています。
「流石、天心の審美眼、美術品を観る力!」
と感じます。
現代に通じる卓越した眼力であったことが、良く判ります。
しかし、一方で、このリストを見ると、当時における仏像、古彫刻の価値基準、モノサシを窺い知ることが出来ます。
大変、興味深いものです。
天平時代、鎌倉時代の写実的な仏像が、数多くリストアップされています。
特に、三月堂・執金剛神・日光月光菩薩、戒壇院四天王像、新薬師寺・十二神将像と、天平時代の塑像の古典的理想美、写実表現といわれる諸像が、数多く挙げられているのが印象的です。
東大寺法華堂・執金剛神像
東大寺法華堂・伝月光菩薩像(左) 戒壇堂・広目天像(右)
一方、平安時代の仏像は、あまりリストアップされていません。
今の時代なら、神護寺・薬師如来像、元興寺・薬師如来像、東寺講堂の諸像、観心寺・如意輪観音像等々、平安前期の傑作のなかから、数体がリストアップされていたのではないかと思われます。
神護寺・薬師如来像(左) 元興寺・薬師如来像(右)
明治の前半期のころは、やはり、ギリシャ、ローマ彫刻に代表されるような、「理想美、古典的写実」に高い価値を与える、「美のモノサシ」の時代であったのでしょう。
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